◆ 7日目(2)
「百円の……ときだけ?」
強張った俺の顔を見て、同僚は不思議そうな顔をする。
「知らんかった? このコンビニはそうだよ。赤いのが見えると百円。たまに他系列のオープンの旗と間違えると悔しいんだよな」
ははっと笑うそいつの話を、俺はもう聞いていなかった。スマホで時間を確認する。事故のあった時間まであと――
俺は手に持っていたおにぎりとコーヒーを同僚に押し付けた。
「悪い。俺のパソコン消しといてくれ。戻れたら、戻る」
「え? は? おい――!?」
名を呼ばれた気がしたが、振り向かなかった。人を掻き分けて出口に向かう。
間に合うか?
駅に向かう人の波がいつも以上に邪魔に感じる。ぶつかり、舌打ちされ、怒鳴られても、俺は足を緩めなかった。
スムーズに流れているはずの改札も、今の俺にはいらいらする早さだった。ちらりと掲示板を見上げる。ぎりぎり。
乱暴にスマホをかざしてまた駆け出す。駅員が渋い顔で俺を目で追っていた。
目的のホームへ下りる階段手前に高校生が見える。あいつら。間違いない。
何やらふざけながら、楽しそうに笑ってひとりが階段を駆け下り始めた。他も後に続こうとする。
社会人になってから、運動らしい運動を特に続けてこなかった俺の身体は多分悲鳴を上げていたことだろう。だけど、この時は気付かなかった。彼らに追いつき、追い越さなければと、それしか考えてなかった。
階段の半ばほどで後方の集団を追い越したら、「ぅ、わ……!!」と声が追ってきた。何段か飛び降りホームに足が付いたところで、転がり落ちてくる高校生が目の端に映り込む。彼は先に下りていて、声に振り返ろうとした友達にぶつかり、ビリヤードさながらに弾き飛ばした。
バランスを崩し、とっさに前転するように受け身をとったそいつの行く先には女性が立っていた。
少し俯きがちに額を押さえている、肩を少し越えるくらいのストレートの髪の持ち主――
俺は前のめりに倒れ込む彼女の左腕を強引に引いた。
…・…・…・…
思いの外前進する力が強くて、俺の身体も一緒に持っていかれそうになった。慌てて彼女を抱きこむようにして自分ごと後ろに倒れ込む。
目の前を快速列車が通過して、後に続く風が彼女の髪をもてあそぶように乱していた。
これだけ走ったのは久しぶりだったからか、俺の身体は細かく震えていた。立ち上がる気力も無い。しばらくは酸素を欲しがる肺に存分に空気を送り込んでやることくらいしか出来なかった。
肩でする呼吸を繰り返して、少し落ち着いてきたところで俺は体を起こし、左腕で彼女の頭を支えるようにしながら体勢を変える。乱れた髪を少し整えて顔を拝むと、眉間に皺を寄せて苦しそうにしていたものの、間違いなく彼女だった。ぐったりとしているので意識は無いかもしれない。
野次馬の向こうから駅員が数人バタバタと駆けてきた。
「すみません。誰か、救急車を」
ひっつきそうな喉を何とか開いて、俺は掠れた声で周りにアピールする。駅員のひとりが無線を口元に寄せながら離れていった。
ちょっと首を捻って確認すると高校生たちは自力で立ち上がれるくらいには無事なようだった。彼等にも駅員が事情を聴いている。俺の傍にもひとりしゃがみこんだ。
一通り説明し終える頃、救急車のサイレンが聞こえてきた。
俺も同乗を求められたので、黙って従った。救急車の中でまた説明して、肩を痛めているようだという救急隊員に、助けようとした時に腕を強く引いたことを告げておく。少し、強く引きすぎたのかもしれない。
彼女は病院に着く頃意識を取り戻したが、自分が何故そうしているのかよく分からないようだった。
初めはぼんやりしていたが、名前や家族への連絡先を聞かれて対応しているうちに、見知らぬ俺がここに居るのが心底不思議だったのだろう。時々視線を寄越していたが、気が付いた看護師さんに線路に落ちないように掴まえてくれた方ですよと説明されて、慌てて礼を口にしていた。
俺は肩の件を告げて、申し訳ないと頭を下げた。まだよく事情を飲み込めてない彼女は、はぁ、と曖昧な返事をしただけで処置室に消えていった。
俺はロビーで彼女の荷物の番をしながら彼女の家族が来るのを待った。幸い、一時間ほどで母親らしき人がやってきて、看護師さんとやりとりしていたが、看護師さんはその最後に俺の方を指して簡単に紹介してくれたようだった。
俺は軽く会釈して荷物を受け渡す。一通り何があったのか説明すると、彼女は恐縮して礼のような謝罪のような「すみません」を繰り返していた。
助けた形になったとはいえ、肩の怪我が酷いようなら治療費を出しますから、何かあったら連絡して下さいと名刺を出そうとして、自分の荷物は全部会社に置いてきたことを思い出す。バツは悪かったが、看護師さんにメモと書く物を借りて連絡先を渡した。
病院を出てから財布くらい持ち歩くんだったと後悔した。
今の俺は首から下げている社員証とスマホしか持ち物が無い。会社に戻るのも、家に帰るのも少し中途半端な場所だった。
考えたところで無い物は仕方がない。取敢えず、彼女が助かって良かった。間に合って、良かった。
少し誇らしげな気分でスマホの地図を開いて、俺は最寄駅に向かって歩き出したのだった。
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