◆ 7日目(1)

 見慣れた天井が見えると、溜息が出た。アラームを止めて、もうひとつ溜息。

 都合のいい夢が見られる訳ではないらしい。俺はあくまでも傍観者なのか。腐っていても仕方がないと、軽く頭を振って身支度を始めた。


 最寄駅を出ると『おにぎり100円』ののぼりが目に飛び込んでくる。

 今日はそのコンビニに寄る気はなかったが、会社に入ってるところも同じ系列だから、昼はそれでもいいかとぼんやり考えていた。


「お。お前も昼か? たまに一緒にどうよ」


 だから、買い出しに行こうとしたエレベーター前で違う部署の同期に声を掛けられて、少し迷った。別に断る理由も無かったので、結局一緒することにしたのだが。

 同じようなスーツを着込んだサラリーマンでごった返す小さな蕎麦屋は、前に上司にも連れて来てもらったことがあった。回転が速いので忙しないが、結構美味い。


「忙しいか?」


 列の最後尾に並ぶと、彼は軽い口調で聞いた。


「そうでもない。一段落したところだ。そっちは?」

「残業ばっかだけど……ピークは越えたかなぁ? なんだ。倒れたって聞いたから、もっと忙しくしてたのかと思えば」


 肩を竦めて、にやりと笑われた。


「倒れてねーし。ちょっと早く帰っただけだぞ? あの日は……ちょっと、な」


 口籠ると、彼はふうんと目を細めて頭から爪先まで視線を走らせた。


「病気とは縁なさそうなのにな」

「ほっとけ」


 確かにここ数年風邪で寝込むとかしたことはなかった。ひいてる暇もないというのが正しくて、気合で乗り越えてた気もする。

 取り留めない話をしているうちに空いた席に案内され、一番人気の冷やしたぬきを注文した。




 たまに蕎麦もいいな、と満足してレジ待ちをしていると、壁面に取り付けられたテレビに『人身事故』の文字が出ていてびくりとする。

 いや、違う。あれは夜だった。

 そう思っていても何となく気になってしまう。音も聞こえないし、詳細がよく分からない。別の事故だろうかとか、どこの路線だろうかとかそわそわしていたら同期につつかれた。いつの間にかレジ前には誰も居なかった。慌てて支払いを済ませ、外に出る。


「なんだよ。あの女子アナ好みなのか?」


 不思議そうな彼に、俺は曖昧な笑みを浮かべるだけに留めた。上手く説明できる自信が無かった。

 彼と別れて自分の席に戻ると、俺は残りの時間で事故の詳細を調べた。いつも使う路線での事故ではあったが、うちとは反対方向の駅でのことで怪我程度で済んでるようだ。ほっと胸をなでおろす。

 必要以上に過敏になっているのは解っている。

 いるかどうかも、あるかどうかも分からないものに――


 午後の業務はなんだか身が入らなかった。頭の片隅で何かがちかちかと点滅しているような、目の前のことに集中できない状態だった。終業時間間際になると、ちかちかは自己主張を一層増していた。このままだと残業は免れないな、とキリのいいところで一度体を伸ばした。

 多分、もう帰りたいんだ。駅で何もないことを確認したい。でも、きっかけが無い。

 少し長く息を吐いて、引き出しからガムを取り出し、口に放り込んだ。

 視線をぼんやりと投げていると、向かいの席の同僚が眉を寄せてスマホを睨みつけているのに気が付いた。


「難しい顔して、調べものか?」


 声を掛けると、んー、と気の無い返事が返ってくる。


「……いや、週末出掛けようと思って電車の時間とか調べようと思ったら、何か乱れてるみたいで……残業してたら元に戻るかなーとか、思って」


 思い付いたまま適当に口に出してるのが判る。気持ちは週末に飛んでるに違いない。まだ一応勤務時間内だぞと言ってやるべきかどうか。余計なお世話か。俺も人のことは言えない。


「乱れてる? 昼に人身事故はあったみたいだが」

「人身?」


 するするとヤツの指が動く。


「あー、いや、それも一因みたいだけど……その後に色々重なったみたいだぜ?」

「いろいろ?」

「散歩してた爺さんが線路に迷い込んでたとか、病人が出たとか、荷物がドアに挟まったとか……」

「何だそれ。全部そこの路線か?」


 今日に限って随分重なるもんだな……

 軽く頷きながら差し出されたスマホの画面には、真偽定まらない某SNSの情報がずらずらと並んでいた。


「駅に行っても電車来るのが運任せとか辛いんで、おとなしく残業して少し落ち着いた頃に帰りますわ」


 同僚はそう言って腰を上げる。


「軽くなんか買ってくる。何か要るか?」


 少し考えて、俺も立ち上がった。


「いや、俺も行く」


 ビル内のコンビニは二十時くらいまで開いているが、早めに行かないと選べなくなる。皆考えることは同じなのか、店内は混雑していた。鮭むすびを手にして、そういえば百円セールだったなと思い出した。

 おにぎりコーナーが赤い帯でぐるりと装飾されている。

 俺の前を同僚の腕が横切った。


「いくら! ラスイチ!」


 苦笑して見ていると、彼はにやりと笑った。


「朝、あののぼり見てから狙ってたんだわ。赤いのぼり、百円の時だけだからさー」


 ばさりと、目の前に赤いのぼりが翻った。

 『――お客様にお詫びとお断りを申し上げます。線路内立ち入りの影響でただいま大幅な遅れが――』

 何処からか構内アナウンスの声が聞こえた気がした。

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