◆ 4日目(2)

 震えている。何もかも。手も足も頭も背中も……

 胸元のポケットの中も――


 上手く息を吸えなくなっている俺は、トイレの個室の中で震えていた。ひっひっと妙な呼吸音が響いている。膝の上に落ちる水滴は汗か涙か……

 目の前ののっぺりとしたベージュの扉がトイレの個室の物で、胸ポケットで震えているのがスマホだと認識してもまだ身体の震えは止まらなかった。上手く指先に力が入らなくて落としそうになりながらも、なんとかスマホのアラームを止める。


 十数分しか経ってない。

 ようやく正しい呼吸の仕方を思いだして、少し深く息を吸い込んだ。

 大丈夫。夢だ。

 自分に言い聞かせながら、肩口で濡れた顔をぐいと拭く。

 大丈夫。夢だ。

 その肩口に血の跡がひとつも付いていないのを確認して、震える足で立ち上がった。

 大丈夫。夢だ。夢だ。夢だ。夢だ。


 そこまで己を鼓舞しても、目の前のドアをなかなか開けられない。胸の中の早鐘は治まる気配さえなく、それでもいつまでもここにこうしていられる訳でもない。スライド式の鍵が、触れた俺の震えに答える様にカタカタと鳴った。


 なんとか個室から出て洗面台に辿り着く。鏡の中には顔色を失い、充血した目で汗を垂らしながらこちらを窺う情けない男の姿があった。

 仮眠を取りに来ただけなのに、どうしてこうなった? にやりと笑んだつもりだったのに、その口元はほんの少し動いただけだった。

 取敢えず顔を洗おうと屈み込んだところで、ぎょっとしたような声が聞こえてきた。


「おい、大丈夫か?! いないと思ったら、具合でも悪いのか?」


 吐いてるとでも思ったのだろうか。背中に当てた手をこれまたぎょっとしてすぐに離す。置かれた場所だけがしっとりと冷たくて、余計に気持ち悪い。

 声で判ってはいたが、少し身体を起こしてその人物を確認する。


「……係長」

「――も、もう帰れ。な。急ぐものがあれば松井に任せていけばいい」


 そんなに酷い状態に見えるのか。いや。酷い状態なんだろうな。

 まだ震えの治まらない身体。止まらない冷や汗。何より、あれ・・が夢だと信じられない。

 俺は心配げな上司にゆっくりと頷いて見せたのだった。


「そうさせて、もらいます」


 上司や同僚たちに気遣われながら帰り支度をしていると、少し頭が冷えてきた。震えは止まらないし、心臓はまだ煩い。けれど、夢の端々を思い出せるほどには。

 間に合う、のでは。

 彼女は終業時間になるまで休んでいた。今、会社を出るなら、余裕で間に合うのでは。

 先程までとは違う感情で鼓動が速くなる。

 夢の中で見上げた電光掲示板の時計が差していた時間は、まだ先だ。夢を夢と信じられないのなら、確かめればいいんじゃないか? その為にあんな夢を見ていたのだとしたら、辻褄も合う……気がする。

 そう気付いてしまうと居ても立ってもいられなかった。

 挨拶もそこそこに会社を出る頃には足はしっかりと地面を掴んでいて、知らず早足になっていた。




 初めは目星をつけていた彼女の会社が入ってる(であろう)ビルの前で彼女を待とうと思っていた。そのままタクシーに乗せて帰らせるのが一番だと。だけど、良く考えたら、見も知らぬ人間に話しかけられ、具合が悪いのだからタクシーで帰れだなんて女性じゃなくても不審に思うに違いない。

 俺と彼女はまだ出会ってもいない。では、一番自然な出会いは何だ。

 彼女の働く(であろう)ビルを見上げながら俺は急ぐ。先程夢の中で彼女が通った道をそのままトレースするように。

 コンビニののぼりは翻ってこなかったけど、そこは重要じゃない。


 改札を抜け、エスカレーターを降りて階段方向へ向かう。この時間は学生も多いんだな。チェックのスカートから覗く色々な形の脚を眩しく拝む。時間はまだあるなと、少し下がって周囲を見渡し彼女を掴まえるシミュレーションを頭の中で始めた。

 また、震えが戻ってくる。

 大丈夫。今度はすり抜ける手じゃない。ちゃんと、実体のある手だ。

 同じ位置に立てさえすれば、今度こそ掴まえられる。


 震えながら何度も架空の彼女を頭の中で掴まえる。

 何度も、何度も、掴まえたのに。

 学生たちが電車に飲まれても、快速が何本通り過ぎても、時間になっても、時間が過ぎても、事故どころか、彼女が現れる気配さえなかった。


 呆然と、ただ呆然と立ち尽くす俺を誰かが笑ったような気がした。

 いや、気のせいなんだろう。誰も、俺が夢に振り回されているなんて知らない。どうしてここに立ち尽くしてるかなんて。

 急に虚しさが込み上げてきた。事故なんてなかったと喜べばいいはずなのに。

 顔を覆ってずるずるとしゃがみこんだ俺に、駅員が大丈夫ですかと声を掛ける。俺はただ頷いて、次に入ってきた電車にのろのろと乗り込み、自分のベッドにだけ思いを馳せた。


 …・…・…・…


 部屋に着くなり俺は上着とズボンだけ脱ぎ捨てて、倒れ込むようにベッドに身を預けた。

 寝不足と精神的な疲れがピークに達してたんだろう。この時ばかりは夢も見ずに深く深く眠ることができた。ほんの二時間程度で目が覚めたが、気分は意外とすっきりしていて、夢を過剰に意識し過ぎだったなと思えるほどには回復していた。


 ぐぅぐぅなる腹をなんとかなだめすかして、べたつく体をシャワーで流す。さっぱりはしたがコンビニまで行くのも面倒で、台所の戸棚からカップ麺を取り出した。

 テレビをつけて適当にバラエティ番組をかける。見るというよりは賑やかな音が恋しかった。静かな中にいると、あのブレーキ音と衝突音が耳の中でいつまでもこだましそうだったのだ。


 事故が無かったのだとしても、見たものを無かったことにはできない。

 腹は鳴るのに、結局器から溢れそうになっている麺をつつくだけという哀しい結果になって、こりゃだめだとシンクに放置することにした。

 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、ぐいとあおる。酒類もあったのだが、なんだか悪酔いしそうで飲む気になれなかった。


 テレビではいつの間にかバラエティ番組が終わり、次のニュース情報番組に代わっていた。しばらくスポーツの結果などを立ったままぼんやりと眺めて、水が無くなってからテーブルとベッドの間に体を滑り込ませる。ベッドに背を預けてテレビを見たりスマホを弄ったりパソコンを操作する、いつもの定位置だ。必要な物は大体手の届く範囲にある。


 スマホを確認するとそこそこ仲のいい同期から『生きてるかー』とLINEが入っていた。『もうだめだ』『嘘です』のスタンプを連続で打ち込む。しばらくしてから『し、心配なんかしてないんだからね!』と萌え絵のスタンプが返ってきた。鼻で笑ってると『仮病なら残業代われ』と続く。まだ残業してるのか。仮病じゃないから『嫌だ』と返しておいた。


 しばらく下らないやり取りを繰り返して、ふとテレビに意識を向けると画面の上部に『LIVE』の文字が躍っていた。リポーターの後ろに消防車や救急車、人だかりと黒い煙を上げるビルが映っている。どこかの繁華街で火事があったようだ。

 建物が密集する中での火事はどこまで広がるのかと冷や冷やする。よく見ると俺達もよく行く、会社からほど近い繁華街だった。そのビルに行きつけは入ってなかったが、近所によく行く店がある。しばらく行ってなかったけど、近いうちに行って話を聞こうと野次馬根性が湧いてきた。


 少しずつ落ち着いてきているのを感じる。

 もうあんな夢は見ないのかもしれない。

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