「私、好きな人がいるの」 前
握られた右腕がジンジンと
『待って!』と私を追いかける声、そして腕を掴まれて引き戻される体、温かい彼の温もり。
先程までの映像が何度もフラッシュバックする。
唐突な女としての幸せに、私は、泣いていた。涙が止まらなかった。
ああ、不思議だ。初めて会った人に触られ、抱きつかれたというのに出てくる感情は嫌悪感でもなく幸せ。人に優しくされるというのは、こんなにも幸せで辛いのか……。
得体の知れない確かな熱が、自分の奥底を融かしていくのが分かった。
病室の洗面台で何度も顔を洗い流す。こんな姿、母親になんか見せられない。母は心配性だ。優しすぎるが故に、傷付きやすい。
「あら、戻ってたのね。何処にいってたの?」
「散歩だよ。桜を観に行ってたの」
「そうなのね、いい事だわ。今年も綺麗に咲いてるわね」
母は女性の鏡のような人だ。娘の私からしても美しいと思う程に。
まだ三十路半ばなのだから、今からでも男を捕まえて新しい幸せを掴んでほしいと心から願う。
次の日、私の体は屋上へと引き寄せられていた。
「居ないじゃない」
気付けば口から本音が
「誰が?」
え……。
振り向くと、彼は給水タンクの影から半身を出して手を振っていた。
「丁度渡り廊下を歩く姿が見えたから、隠れていました」
そう笑う姿は、
ずるい。そんなに楽しそうに笑われると、心が傷んでしまう。彼の笑顔は、私にとっての毒だと思った。胸が苦しくて、息が出来そうにない。
遠くに行かなきゃ……いつものあの椅子に、腰を下ろそう。
「隣、座るね」
「だめ」
許可なんて出して無いのに、どうしてズカズカと私の中に踏み込んで来るのだろう。
「座って良いって言ってないじゃん」
「でも僕は座りたいから許して」
到底、会話になっていなかった。
「許さないから」
「ほんとは別に許して貰わなくても良いよ」
じゃあ私に拒否権は無いのだろうか。そんなの、卑怯過ぎやしないか。
「僕はとても
「なら私に近付き過ぎないことね」
「どうして?」
「もうすぐ死ぬから」
またやってしまった。人を試すのは悪い癖だ。どうして私はこう意地悪な性格なんだろう。
彼は顔を歪めて辛そうにする。その表情が嘘には見えなくて、何故か私の心にも痛みが奔った。
「それがどうしたの?」
精一杯の強がり、そう見えなくも無いけれど、彼の目は私に訴えかけている。
「あなたが死んでしまったら僕は確かに辛いだろうし、それは仲が深まるほど増すかもしれない。だけど、それがどうした! って思わない? 関わらなければ良かったなんてなら無いよ。これから死ぬ人に恋をしちゃいけない?」
反抗的で、挑戦的で過激的な音色だった。どうやら私は火に油を注いでしまったようだ。
それに、彼はいま“恋”と言っただろうか。
彼はいま、“恋”をしているのか。
恋の音色はこんなにも、心地良くて……辛いのね。
「駄目……。誰かをこれ以上苦しめたくないの。それに――――」
それに、私の心が辛くて、張り裂けそうで、怖いの。私が、耐えられないの。
「僕は我儘だから、怯える君にも踏み込んでしまう。だけど、約束するよ。絶対に消えないから、恋をさせて」
分からない。何が正解なのか、分からない。
何より恋なんて唐突に言われても私には分からない。
「好きにすればいい」
それだけを口に出すのが精一杯だった。その言葉に、期待が含まれているのは彼なら気付けるだろうか。
「分かった」
どうやら彼は、本当に会話が成り立たないらしい。
“好きにすればいい”とは言っても、“抱きついて良い”なんて一言も言って無い。
「何してるの」
「可愛い過ぎたから抱きついた」
この子は、大丈夫だろうか。屈託無く笑う彼に裏があるとすれば、相当の演技派だろう。
「あのね、可愛いかったら抱きついて良いと思ってる?」
「ううん、流石に僕もお巡りさんには連れて行かれたく無いかな」
「言ってる事と、してる事が違うじゃん」
「世の中にはどうにもならない事があるんだよ。だから黙って抱きつかれてて」
「…………」
男の子の体がこんなにも力強いなんて、知らなかった。これじゃ抜け出そうにも抜け出せ無い。
「止めてって言ったら、離してくれる?」
「嫌だね」
「キャーって大声で叫んだら離す?」
「んー‥‥流石に僕でも離すかな。でも、嫌じゃないでしょ、顔赤いよ?」
「なっ!? こ、これは別にそんなんじゃないし! ふつう知り合ったばかりの女の子に抱きつくとかあり得ないんだからね!!」
恥ずかしいくらいのどもりようだった。
「名前、教えてよ」
「
「
かなで……。遠坂、奏くん。ピッタリな名前。
「あのね、ドキドきするの」
「え……」
「奏くんにドキドキするの」
「……」
「私、おかしい、よね?」
「……」
「これって、“恋”なのかな」
彼は口を開けてポカンとしていた。それがなんだかおかしい。
彼と過ごす時の空気は私と混ざった独特をしていて、今まで感じたことの無い性質を感じ取れた。これが運命だとするならば、神様はなんて酷なことをするのだろう。
昨日は疼く右腕が私を苦しめ、ずっと、ずっと、眠れなかった。
初めて抱き締められた感触や真っ直ぐな瞳、
そして、もう一度触れたいと──願った。
「怖いよ、奏くん。もっと、ぎゅっと抱き締めて」
訪れるかもしれない幸せ、幸せを失うかも知れない恐怖。
だけど、この温もりを離したくない。
信じられないほど冷静じゃなかった。
「そんなに可愛いこと言われると、困っちゃうな……。これ以上好きになったら僕はどうなってしまうんだろう」
一段と熱くなる抱擁。
苦しい、なのに心地良いなんて、私どうかしてる。
「嫌いにならないで」
「ならないよ」
そんなの嘘だ! お願いだから、嘘だと言って。本気になったら……どうしてくれるの。
「絶対うそ」
「うそじゃないよ」
「どうして?」
「ずっと好きだったから」
ずっと?? いつから君は私を見つけていたの。何も知らないよ、聞かせてよ。
「え?」
「栞さんがここで座ってる姿、僕の部屋から見えるんだ。儚げで、でも可愛いくて、気付いたらいつも探してた」
そんなのを知ってまうと、余計に私も困ってしまう。
「私、可愛くないよ」
「可愛いよ」
「どこが?」
「全部」
「はっ!?」
意味が分からない。可愛いなんて、嘘だ嘘だ!
全部なんて、一つも良いところなんて無いのに……。
「最初は顔が可愛いと思った。次は寂しそうな表情に惹かれた。廊下でわざとすれ違ってみたり、栞さんを遠目から眺めたりなんかもしてた。一方的な恋も楽しかったけど、両想いになれたらって気持ちがどんどん膨らんでいって、栞さんに話しかけたくてしょうがなくなったよ。実際に話してみると、中身も凄く可愛いくて愛しくなった」
「えっと……思春期って凄いんだね」
「自分でもストーカーみたいな気がして耐えきれなかったんだ。嫌いになった?」
「今のところ大丈夫っぽい」
寧ろ、疑い深い性格だから、安心するというか……なんだろう、私ほんとうに変みたい。喜んじゃってるの。取り繕ったお面に
「ここが見えるってことは、四階か五階に入院してるの?」
「さぁどうだろうね、秘密だよ」
「ずるい!」
「また、会おう。明日は……お昼の後なんてどう?」
「分かった。もう……行っちゃうの?」
まだ一時間経ったくらい、なのにお終い?
「ごめんね」
そう言われては何も言えなくなってしまう。昨日会ったばかりの男の子に、私は惹かれていた。
そして次の日、奏くんは来なかった。
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