第3話 本音

 それは不意打ちだった。雨宮の唇が僕の頬に触れる。

 駄目だ。流されれば後悔する。

 甘い感触に、どうしようもなく心が乱れていた。唇が離れた後、僕は雨宮を抱きしめた。髪をすくように優しく頭を撫でる。

「落ち着いた?」

 雨宮は何も言わずに頷いた。無愛想には見えなかった。

「そう」

 泣き笑いにも似た僕の笑みは、闇にそっと溶けていった。



 雨宮とのキスは夢だったのだろうか。

 翌日、僕は頬に手を当てながら階段を下りていた。どろどろとした群像劇を見た後では、余韻がすっかり薄れてしまった。

 酔っていたのなら彼女は覚えていないのかもしれない。夏の夢と思って忘れるべきだろうかと思案していると、坂の下で佇んでいた横澤が声を掛ける。

「お前、雨宮とどういう関係だ?」

「同じゼミの人間ですが」

 僕は警戒していた。集中講義に出ていた知り合いの中に、横澤と馴染みがある者がいたのかもしれない。そして横澤の苛立ちが示すものは――彼女との破局。

「俺の彼女に何を吹き込みやがった?」

「別に。ただ話を聞いただけだ」

 素っ気ない答えに横澤の唇が歪む。

「あいつみたいな女の子は付き合うタイミングを逃しがちなんだ。それを俺が告ったのに、文句を言われる筋合いはない」

 自分勝手な奴。

 気付けば口が動いていた。

「雨宮は思い通りに操れるような、そんな簡単な人じゃない」

「お前に何が分かるんだよ」

 きつい香水か何かの香りが鼻をくすぐる。苛立ちも相まって、僕はただ睨み返した。

 雨宮とは三年になって会話があった関係だ。同じゼミとはいえ、話す機会は少ない。それでも女子とは話す姿を見ていた。たまに見せる空気が和らぐような笑みを、僕は微笑ましく思っていた。

「きみの知る雨宮の姿は、高校のときから変わっていないからだ」

 横澤が反論する前に、凛とした声が響いた。

「新山くん!」

 雨宮が僕の腕を組んだ。

 息をする。ただそれだけの行為が胸を苦しくさせる。

 僕は雨宮に微笑んだ。

「こいつと別れたんだな」

 雨宮は吹っ切れたような表情を浮かべていた。

「遠回りをした気がする。初めから気になる人に伝えておけば良かった」

 その言葉に、僕と横澤の目は見開いた。

 敗者は雨宮の本音を初めて知り、何も言わずに走り去った。

「ごめん。あの人に絡まれたのは私のせいだよね」

 腕を組んだままだったことに気付き、雨宮はぱっと離した。

「いや、うまく収まって良かった」

 僕の頬は赤くなっていた。

 雨宮はレポートのために図書館で調べ物をしていたと話した。階段を下りていると僕と横澤の声が聞こえ、慌てて僕に近付いたようだ。

「遠回りになるのは仕方がない。心は見えないからね」

 硝子のようにひんやりとして、完全に見えることはない。

 僕の言葉に、雨宮は静かに耳を傾けていた。

「本音を知りたくなって……恋に溺れてみたくなる」

 二音を口にすることができなかった男女が、同時に言葉を紡いだ。

 僕は雨宮の頬にそっと触れた。ただ一つ昨日と違うことは、唇を軽く重ねたことだった。

 今夜、僕は夢を見る。斑点だらけの金魚が輝きを取り戻し、水槽の中を悠々と泳いでいた。

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硝子にくるまれて 羽間慧 @hazamakei

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