く、ら、げ。

 そのスペースはイルカにあてがわれるそれと酷似していた。イルカショーの舞台にもなりうる感じの。

 予想と反して、屋外に出る。首都の夜空は星も雲もよく見えない、薄い墨汁でサアッとなぞったかのような適当なものだ。景色は全体的にぼやけている。ホテルの高層ビルからおそらくここは丸見えだ。立地がよくないのだろう。外は寒い。古代にあったというコロッセウムのような空間。人の姿はない。そこにだだっ広いタンクがある。タンクの側面は三百六十度露出していて、外からどこでもなんでも観察できるようになっている。


 そのなかで、うようよとうごめいているものたちがいる。水に全身を浸して。優雅にひらひらというよりは――単に泳いでいないと死んでしまう、マグロのように。


 私は男を置き去りにして、説明文の書かれたプレートに駆け寄った。ここはたしかに人魚スペースだった。国内最初、そして唯一の、ヒューマン・アニマル加工をなされた魚たちのスペース。魚は泳がなければ死んでしまいますので、こうやって昼も夜もずっと泳いでいるのです。ただそれだけの説明が、やたらポップなフォントで書いてある。説明は、それだけだった。

 私はタンクのガラスに両手をつく。



 そして、わが目を疑った。



 人魚、と言えば人魚なのかもしれない――しかしそこでうごめくように追われるように苦しそうに泳いでいるのは、私たちが人魚として想像する可憐で優雅なそれとはかけ離れた、グロテスクな生物たちだった。言うなれば、人面魚。だが、顔だけが人間である人面魚よりも悲惨だ。サイズと顔、そして胸部と下半身の秘部のみが――人間のまま。肌色が、剥き出しになっている。あとは、マグロのような退屈な魚のうろこにびっしり覆われて、手も足もなく、どっぷりとした魚の胴体があるのみだ。

 そんないきものたちが、それこそ水槽のマグロのように、十体そこらでぐるぐるぐるぐるとひたすらに泳いでいる。屈辱にあえぐ顔をして、とても苦しそうな表情をして、あるいはもうすべてを諦めた死んだような顔をして。

 顔、胸部、秘部。それだけが人間のまま残されているというのは、どう考えても、強烈な悪意を感じた。じっさいこんな身体となってこうして表情と胸と秘部だけを晒してぐるぐると泳がされているさまは、哀れであると同時に、たしかに見世物になるだろうと思えるくらいには滑稽だった。


 私はとっさに、きっとあの子は人魚ではなく、ほかのいきものになったか、あるいはどこかほかの人魚スペースにいるのだろうと思った。首都の水族館で人魚スペースを扱っているのは国内でいまのところここだけだし、人魚スペースがほかにあるという掲示は、ひとつも、なかったが。

 このグロテスクななかにいないでほしい、と思ったのではない。むしろ、その逆。こんなに醜いいきものにあの子がなってくれていたらどんなにか私は嬉しいだろうかと――けど、無駄な期待をしてはあとでがっかりすることも、わかっていた。

 あの子は、まぎれる、はずがないのだ。私が、ひと目で、わかるはずなのだ。いまも、かがやいているはずなのだ。浜辺で歌をうたう美しい人魚のように、月明かりに照らされて、私を見たらやっぱり憐れむようにひとつ微笑む、はずなのだ。



 しかし。

 しかし、しかし、しかし。


 私は――見つけてしまった。

 その顔を。あの子の――顔の造形と肌の白さだけがおなじで、変わり果てたそのすがたを。


 たしかにその顔だけはいまも造形的に整っていた。しかし、だからこそ、哀れさは究極的だった。

 人魚? とんでもない!

 単に、魚となっていた。魚。魚だ。人魚ではない――あいつ、魚になったんだ! そしていま私の前で、無様にも魚の身体をくねらせ、屈辱と羞恥にまみれた顔で歯を食いしばり、それでもきっと泳がなければ死んでしまう、こんなタンクのなかでは泳ぐしかすることがないし、そんな低次元な本能的事情で、そうやってそうやって滑稽に無様にただの魚として、泳いでいるのだ、そうやって――日々をすごしているのだ!

 顔の造形とともに、表情もたしかにあの子のものだった。ただし、それはあの傲慢な人間が、まさしく下等生物に堕ちたらああいう表情をするのだな、といった感想を抱かせるたぐいのものだ。あの強気な微笑みは、もう、とわにうしなわれたに違いない。


 魚は、ぐるんと向こうにいく。


 私は振り向いて、イケメン高身長高学歴高収入の自慢の彼を、手をちょいちょいと動かしてこっちに呼び寄せた。

「ねーえっ、ケンちゃーん。人魚よー。この子たち、おもしろいの、生きるためにすごくがんばって泳いでいるのよーっ、かーわいいっ」

「あはは、あゆむはきれいなだけではなくて、ほんとうに心優しいんだなあ。魚にまでもかわいさを感じるのかあ」

 トンチンカンなことを言うこの男がいまいっしょにいてくれてよかった、と私は心底思った。ひとりでなんて来ないで、見た目のいい男を引き連れてきて、ほんとうに正解だった。


 あの魚が戻ってくるのを私は待った。


 戻ってきたタイミングで私はドンドンドンドンドンドンと震えるくらいに水槽のガラスを叩いた。

 魚たちは、一斉にこちらを見た。

 あの魚とも、目が合った――驚き、怒り、屈辱。そんなふうにパッパッパッと、とてもわかりやすくその表情は変わってくれた。

 やはり――あの魚はほんとうにほんとうにほんとうに、あの女の成れの果て、なのだ。

 魚は魚としての尻尾をかわいそうにフリフリしながら、次の周回に入っていく。

 私の表情はそのときさぞかし輝いていたに、違いない。


「あはははは、あゆむ、はしゃいじゃって。すごく楽しそうだね」

「ええ――ええ――楽しいわ! ケンちゃん! 私、いまほんとうに最高に楽しい!」


 私は男に甘えるように抱き着いた。男は笑いながらも性的に愛おしそうに私を抱きしめる。周回のペースは、そろそろのはずだ。私はちらりと水槽に視線をやった。

 魚女さかなおんなが、来た。

 ふたたびの驚きを見せ――あいつは、うつむいた、うなだれた、しかしその表情を隠すための髪の毛もなく、その表情は私に筒抜けなのだ、私のことをああやってさんざんさんざんさんざん見下し続けたその顔が絶望に染まったことを――ついに私は、確認した。


「あははは、あゆむ、楽しいねえ」

「あはははははは、ケンちゃん、私とっても愉しいわ!」

「あはは、そうかい、あゆむ、あははは」

「そうよ、あはは、あはは、あははははは――っははは! あはははははは! たのしい、たのしい、たのしいよお、ねえ、私、いますっごくたのしい、うれしい、ねえねえもう泣いちゃいそうなの――泣いているかもしれない! こんなことってある? ねえ? たのしいの、ねえ、たのしいのよ……たのしいのよ!」


 私は男の広い胸板をドンドンと叩き続けた。ああ、泣きそうだ――笑いすぎて、もう涙が出てきそうだ。

 なんども、なんども、あいつは魚のすがたで、意味も価値もないただの不毛な周回を繰り返す。

 メリーゴーラウンドのように、私と視線が合い続ける。私のほうを見ることを、隠そうともしない。あのときと、違って。

 私には、私にはわかる。その魚女は、やはりあの塗れ羽ガラスの制服時代の美だったあいつと、地続きのあいつなんだってことが。

 ……だって、表情以上に、証拠となるものがあるんだ。


 その、胸。

 Bカップだけどカタチが人類の宝、とまで自慢していたその、胸。体育の授業の着替えで、私の胸をさんざんただのゴム扱いして、自分はなんどもなんども自身で褒めそやしたその、胸。覚えてるよ。だってあのときわざわざメールを送り付けられた、こういう胸を目指しなさい、って命令調のメールとともに、すてきなレースのブラジャーをつけたその旨の写真を送り付けられたんだから。

 私はその画像をいまでも取っといてある。……再会したら、ねえ私のおっぱいも男を誘惑できたわよ、ゴムではなかったわよ、って主張しようと思っていたんだ、私は自分で自分にそう誓ったんだ、中学の卒業式。


 ご自慢だったおっぱいがいまや――魚の身体にグロテスクな部分となって、張りついていたから。


 私は自分のDカップの大きなおっぱいを男の上半身に腰を振りながらこすりつけた。

 男はついに耐え切れなくなったのか、私を丁寧に押し倒していく。ゆっくり。ゆっくりと。

 私はあいつの成れの果てがくるたびに、勝者の視線を送ってやる。

 私たちは人魚のスペースの椅子の下、首都の美しくもない空のもとで、これから交わる。

 かつての親友をサカナとしてるから、私のオーガズムはきっと今回は格別だろう。

 ざまあみろ。伝えるべきはただひとつ、それだけだった、――ざまあみろ!

 男の熱い吐息が仰向けに押し倒された私に降りかかるころ、かつて私があの子と呼んでいたその個体の人魚は、なにかを言うような顔をして、必死なようすで動かした。



 く、ら、げ。



 その口のかたちは、そう言っているようにも見えた。けど、魚なんだし、ただ魚らしくパクパクとしただけかもしれない。しょうがないよね。魚という下等生物がなにを感じているかなんて、人間の私には、わかんないや。そもそもこれから水族館で最高のセックスをする私に、くらげ、って――意味わかんないわよね?

 やっぱり、魚は魚なんだなあ。私はそう思って、ついに目を閉じた。男の舌を、口蓋すべてで受け止めた。温度があってよかった。それはたぶん、私が人間である証拠だから。




 くらげでも、魚でもなくて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くらくらくらげ 中学の同級生が人魚になったので、水族館に見に行きました。 柳なつき @natsuki0710

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ