+1 or

 風見巴子が死んだというニュースを見て、城ケ崎権悟は会社に休日願いを叩きつけ、すぐに電車でその場所へと駆けつけた。


 飛び降り自殺だった。

 

 今日の未明、後頭部をコンクリートに強打して死んでいるところを通りかかった大学生が発見した。所属している研究室の窓から飛び降りた可能性が高いという話だった。

 今は巴子が落ちた場所に黄色のビニールテープが貼られ、警察が現場検証にあたっていた。

 巴子の遺体はすでに運ばれた後だ。

 けれど、コンクリートに嫌というほどに染み付いた赤色が巴子が死んだという現実を権悟に叩きつけていた。

 野次馬の大学生たちに紛れて、呆然と警察の作業を眺める。

 

 ――どうしてこうなったのか、まるでわからなかった。


「アンタ……たしか巴子さんの?」


 しばらくそうしていると、不意に背後から声をかけられた。

 権悟が振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。

 薄手のコートを羽織った、鋭い目つきが印象の女性だった。――この女の子には見覚えがあった。


「君は……」


 たしか巴子の友人だ。

 近くの駅で巴子が待ち合わせしていた時に、偶然居合わせたので紹介してもらったことがある。たしか、前のバイトで交流ができた友人という話だったか。


「巴子の友人だったとは思うんだが……すまない。名前が思いだせなくて」

「いや、こっちもそこまでは覚えてないんで」

 

 お互いに暗い顔で挨拶を交わし、二人は軽く自己紹介をし直した。

 向き合っても、互いの青い顔を眺めるだけで、大した言葉も出てこなかった。

 少し話さないか、と提案したのは権悟からだ。


 ――ここ最近の巴子はどこかおかしかった。


 それについて――もう遅いのかもしれないが――聞けないかと思ったのだ。

 権悟は現状を受け止めきれていなかった。

 

 なぜ? どうして? なにがあった?

 

 そんな疑問に苛まれ、こぼれるはずの涙がでてこなかった。

 相手は心よく引き受け、大学近くのカフェで落ち合うことになった。

 特に待たされることなくその子はやってきた。

 そして、彼女が悔しそうに語る『最近の巴子』の話は権悟の心にさらに重みをもたらすことになった。


「巴子さん。最近、研究室やバイト先ではうまくやってたみたいなんだけど……でも、どっかズレてるっていうか。人が変わったみたいだったんだ」


 おかしかった。――それは知っている。

 急に権悟からのメールを着信拒否したり、電話にでなくなったり。

 とにかくすべてが急激に変わり過ぎていた。

 さらに、この子はある兆候を目撃していたというのだ。


「研究室の窓から身を乗り出して、星を見てた。いや、昨日のことじゃなくて一週間前とか二週間前とかそのくらいからさ――それで夜に近くを通りかかるといつもそこから顔をだしてた。窓枠に座ってる時もあった」


 巴子はこの友人に気づく様子もなかったという。

 研究室の電気も消していて、表情までは見ることはできなかった。けれど遠目からみても、それが危険な行為であることは一目瞭然だったらしい。


「まるで風でも吹いて手を滑らせたてもかまわないって、それぐらい無防備な姿勢だった。あぶなかしいって、忠告したんだけど……間に合わなかった」


 女の子が言葉に詰まる――けれど、続きは言うまでもないことだった。

巴子は本当に落ちてしまった。

 権悟はなんとなく、巴子が行っていたことの意味がわかった。

 

 ――それは自殺の真似事で。

 おそらく決して、積極的に死のうとしていたわけではないということを。


 何か些細な偶然で、――例えば、小石に躓くような感覚で――巴子は死んでしまいたかったのだ。

 

 それを毎日。何回も。何度も。

 ずっと繰り返していた。

 

 きっと何か大きなきっかけがあったわけではないのだ。

 少しずつ、少しずつどうしようもないことが重なって、澱んで――でも、それは飛び降りて死ぬほどのものではなかった。けれど、死んでもいいと思えるほどの淀みだったのだ。

 それが何かの弾みで――蝶のはばたき一つの偶然で、落ちてしまった。

 だから、その死の原因の一端は権悟にもあったのだ。

 こらえきれず、権悟は両の手を握り、目をつぶった。


「……クソ」


 こんなことを巴子の友人とはいえ他人に話すのは間違っている。――そう理性ではわかっていても、権悟は口に出さずにはいられなかった。

 嗚咽を漏らすように、言葉が流れでていた。

 

「最後に電話に出てくれた時――あいつは」

 

 時間が欲しい、と言っていた。

 まだ整理がついていないから、と。

 その言葉に込められた意味を権悟は理解したつもりになっていた。

 このまま付き合っていていいのか、わからなくなったという意味だと思ったのだ。

 

 ――巴子の両親は駆け落ちだった。

 

 家や親戚を棄てて、西から東まで逃げてくるような大恋愛だったと聞いていた。

 けれど、そこには多くの代償があった。

巴子には一人の親戚もいなかった。忙しかった母も父も、巴子にあまりかまっていられなかったというし、その父親にしても巴子が高校生になったのを境に、どこかへと失踪した。

 巴子にとって、家族というものは非常に不安定なものだったのだ。

 ――だから、彼女は幸せな家庭や安定した生活を強く夢見ていた。

 その気持ちに答えてやりたい、と権悟はそう思って付き合い始めたのだ。

 彼女にとっての恋愛はその夢を叶えるために必要な、非常にデリケートな問題だった。

 だからこそ、約束を何度も破った権悟と一緒にいていいものか、と巴子は悩み始めたのだと思っていた。

 けれど違った。

 この友人の話でわかってしまった。

 時間が欲しかったのは権悟とのことを悩むためじゃなかった。

 

 ――悩まなくてもいいように、死んでしまうための時間だったのだ。

 

 その間違いに気付き――手を差し伸べてやれれば、巴子はあんな結末を迎えることはなかったはずだ。

 だけど巴子の言葉だけを鵜呑みにした権悟は、その裏にある感情を理解してあげることができなかった。

 そう思い至ってようやく、権悟の頬を涙が伝った。

 話を聞き終えたその友人は特に何も返さなかった。

 悲痛の面持ちで、ただ、聞いてくれた。

 


†††


 

 巴子の友人と別れた後、権悟はあてもなく町をさまよった。

 そのうち警察から連絡がきて、事情を聞かれることになることはわかっていた。

けれど、自分から警察に行く勇気はなかった。

 

 巴子の遺体を見るのが怖かった。

 

 彼女が自分を恨んでいるかもしれない、と思ったわけではない。彼女が満足そうに眠っていたら――その想像が、権悟にとっては一番の恐怖だった。

 しばらく歩き回った後、夕暮れの駅に辿りつく。

 こんなことがあっても、次の日には仕事がある。会社にいって働かなければ生活ができない。

 そんな意識が自分の中にあることが、権悟にはたまらなく不愉快だった。全部投げ出してしまえない自分の中途半端さが腹立たしかった。

 改札を抜けて、一番ホームに立つ。

 ケータイを開けば、会社から何通ものメールと電話が届いていた。それをぼんやりと眺めながら電車が来るのを待つ。

 不意に、夕暮れの風が吹いた。

 その風に紛れて。

 

 ――羽音が聞こえた。

 ――右肩を、かろやかに通り過ぎていく青。

 

 それは一羽の蝶だった。

 美しく儚げな蝶が舞い踊っている。――軽い目眩と共に、権悟は完全に忘れていた古い記憶を思い出した。

 

 

 

 

 権悟はどうしようもなく笑いたくなった。

 自分でもよくわからないまま、涙して、笑った。

 

 甲高い音を立てて電車が近づいてくる。

 それは帰りに乗る予定の電車だったが、今の権悟にはもうどうでもいいことだった。

 

 宙に伸ばした右手は、あとほんの数センチで青い蝶に届きそうだった。



†††


 

 人の魂が蝶ならば、蝶の魂は誰なのか。

 

 自らに疑問を持たないまま、青い蝶はゆらゆらと飛行を続ける。

 どこへとも知れず。

 いつまでも。いつまでも。


 そうして、束の間、また翅(はね)を休めて――

 

 




































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

青の妖精 と 時間ドロボウ 超獣大陸 @sugoi-dekai-ikimono

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ