8.
ベージュと淡いグレーと、白い内装が、光を反射する、ある冬の午前。
ぼくは、自分の通っているメンタルクリニックの、診察室にいた。
ぼくは、先走っている。耳雨との恋に。耳雨がいつ呼び出してくるかわからないから、(さすがに派遣の仕事の時間には遠慮してくれたが)、自分の予定を仕事以外入れるのを忘れた。いつからか、病院に通うのも忘れていた。自分が病を持っていることさえ忘れていたのだ。
ぼくの症状は双極性障害だ。わかりやすく言うと躁と鬱が不定期に交互にやってくる。そういう自分に心身ともに着いていけなくなり、失調してしまい、生活が困難になる。
定期的に通院しないと、薬が貰えないので、飲み忘れなどで残っていた薬でなんとか凌いでいたが、眠剤が切れたらさすがに困る。それに今回は、医者に聞いてみたいこともあった。
「前回の診察から随分間が空きましたねー。あれほど、診察は途切れないように厳しく言ったのに。大丈夫でしたか?」
さらさらとした髪をマッシュルームにした年齢不詳の担当医はカルテを見ながら厳しい声で言う。
「ずっと張りつめていて、元気ですが、眠剤を切らしてしまったら、眠れなくなってさすがに困って…」
「薬はすべて定期的にきちんと、規定量を規定の時間に飲むこと。それは基本中の基本です!」
こちらを振り向き、ぼくを睨み、咎めた。
「それで、何を張りつめているのですか?」
ぼくは、しばらく口をつぐんだ。
「…恋を…しました」
「ほう。それは」
さして表情を変えずに、相槌を打つ。
「それで、生活に張りが出て調子がいいのかと。このまま快方に向かうんじゃないかとか思って」
「それは、あなたが躁状態に入っていたからです。極端な躁が続くと、鬱に入った時が怖いんですよ。」
少しずれた眼鏡を直しながら、
「気を付けて下さいね。一応、二週間後に予約をしましたから、必ず来ること。少しでも、兆候が見えたら、それまでに救急受付で電話での診察もありますから言って下さい。その時の担当医が対処の仕方を教えてくれますから」
愛想のない声で、事務的に医師は言った。
「恋ねえ」
医師の口元が少し緩む。それで、私は、病院に来たついでに、もう一つ聞きたかったことを尋ねてみることにする。
「あの、このクリニックにも、多重人格の患者さんって、いるんですか?」
医師は、は? という表情で眉間に皺を寄せた。
「あー、あのね、病院にも守秘義務っていうものがあってね」
困ったように苦笑しながら、彼は言った。
「『解離性同一性障害』って言うんですよ。今、かつて多重人格と呼んでいた症状のことを。相手が、それなわけですね」
「はい。それで、少しでも詳しいことを知りたくて」
「あなたが気にしているのは『統合』のことですか? …その、お相手は、もしかして主人格ではなく、解離した副人格の方?」
その通りなのだが、ぼくは身体が固まって、うなずくことも出来ず、黙ってしまった。
「あなたもまた、自分のことでいっぱいいっぱいなのに、厄介な相手に巡り合ってしまったものですね」
えーと、としばらく考えたあと、神経質そうに尖った字で、メモ用紙に数名の人名を書いて、
「ここに書いてある著者の、解離性同一性障害についての本を探してみなさい。統合以外の治療を提唱している精神科医です」
「統合以外…?そんな治療法があるんですか?」
「まあ、詳しいことは本で読んでみてください。ただし、鬱病患者のあなたにも、解離の危険はあるんですよ。引きずられないよう、無茶はしないでくださいね。…いつでも相談に乗りますよ」
医師はもう一度眼鏡のずれを直して、猫に似た視線を少し緩ませた。
病院が終わり、すぐ電車に乗って、志彦の仕事部屋の直近の駅で降りた。
途中のスーパーでおせちの材料を大量に買い込んだ。耳雨におせちを一緒に作ろうと誘われたのだ。
この間のクリスマスは、志彦が乗っ取っていたので、すっぽかされた。イルミネーションを観に行く約束だったのに、数日前から、連絡が着かなくなり、イブの朝、志彦がぼくが送った溜まりに溜まったLINEを発見して、耳雨のスマホを打ってきた。ここ最近ずっと小説を書いているという愛想なしのセンテンスの短い文。
『短い時間で良かったら、プレゼント一緒に選ぶけど』
と、意外な文が届いた。びっくりした。しばらく考えた後、
『謹んでご遠慮します』
と返した。
『耳雨が戻ったら、あいつにLINEさせます』
という事務的な文が届いて、そこで話を切った。
クリスマスも過ぎて、病院が休みになるので行かなくてはならないギリギリの前日夜、耳雨からのLINEが届いた。
『…ごめん。埋め合わせはする』
そのすぐ後に
『それと、おせち料理を準備するのを手伝ってくれないか?』
と提案してきた。
『おせち?』
『あいつ、正月に、担当とか、多少だけど来客があるらしいんで、準備しなきゃなんだ。俺たち、ほとんど外食だから、そういうのわからないし。、三、四人分用の重箱はここにある』
その後、こう付け加えてきた。
『ましろの料理は、ユキも喜ぶから』
何だか釈然としないが、耳雨にしてみればきっと褒め言葉なんだろうと耐える。
志彦の仕事場のインターフォンを押す時は、いつも胸の辺りが冷たくなるような気持ちになる。
「ましろか?」
応えた声は耳雨だった。ぼくはホッとして、扉を開けた耳雨の胸に頭を付ける感じで軽く倒れ込んだ。
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