6.

翌朝目覚めると、耳雨はもう先に目覚めていて、ぼくの寝顔を、見ていたと言った。恥ずかしいよと言ったら、可愛いよと笑って頭を撫でてくれた。ぼくたちは白い光の中キスをした。

「あんまり料理上手じゃないけど」と朝食を用意した。トースト、ベーコンエッグ、カット野菜のキャベツ千切り。

「コーヒーに砂糖とミルク、入れる?」と尋ねると、返事が無かった。食卓でうつむいて、一瞬だけ眠りに落ちたようになる耳雨。次に目を上げた時には

「ここはどこだ?野々村ましろ、あなたの家か?」と。

 こんな簡単に人格が交替するとは、あまりの呆気なさに悲しくなる。志彦が慌てて言った。

「あなたに泣かれても困るんだ。泣かないで」

「だって耳雨が…耳雨が可哀想」

「言っただろう? 耳雨は僕の病状の一つで」

「耳雨は一人の人間です」

涙声になってしまう。志彦はさすがにすまなそうな顔で言った。

「…せっかくの食事だ。いただいていいかな? 本当のところ空腹なんだ」

「どうぞ」

ぼくは鼻をすすって言った、志彦はベーコンエッグに箸を付けた。

「うまい」

ぼそりと言う。耳雨の為に作ったごはん。志彦は箸を進めた。

「耳雨は、喜んでいると思うよ。今ごろ僕に嫉妬しているかも」

「気休めはやめて」

 震える声で遮った。

「志彦さんは残酷なひとですね」

「冷静なだけですよ。こうでなきゃ耳雨とやってられない。それに、僕が残酷というなら、耳雨の存在そのものが残酷と否定することになる。あなたが耳雨を本気で愛するほどに」

そう言って前髪をうるさそうにかき上げた。そんな姿を目にすると、耳雨の黒いセーターを着ていても耳雨のイメージに紛れて志彦の顔に見えてくる。

「耳雨は、昨夜、あなたを抱いたんですね」

「はい」

正直に答えた。

「またあいつは無責任に」

「無責任なんかじゃありません」

「耳雨がどれだけ女遊びをしていたか、あなたは知らないんです。…まあ大した数ではありませんが」

「…あの、耳雨が女の人と寝た後、あなたに入れ替わっちゃった時、あなた、どうしてたんですか?」

「そんなの…耳雨のふりの演技をするしかないでしょう?」

大真面目な志彦の発言に、ぼくはつい噴き出してしまう。

「笑い事じゃないですよ。僕には深刻な問題です。」

ムッとしてぼやく。最初の印象よりこの人は子供っぽいひとかもしれない。そう思った。

「でも、耳雨はもともとあなたの中から出てきたんでしょう? 耳雨ってあなたが名付けたの?」

「『耳雨』ってのは耳鳴りのことを言うんですよ。『耳の中に降る架空の雨音』。字にすると美しいでしょう」

「でもあなたにとって耳雨の存在は耳障りなんですか?」

「いえ、逆の意味の方が大きいです。美しい言葉だなあと思って。僕は耳雨に導かれて成長したんですから。本当は感謝したいくらいなんです」

 志彦はブラックのまま冷めてしまったコーヒーに口を付けた。

「僕の両親はネグレクトでした。僕は三歳から施設で育ったあと、小学四年で養父母に引き取られたんです。彼らは不自由のない生活を与えてくれましたが、僕は所在なげなふわふわした子供だったと思います。思春期の…小六の時、自分がどうしたらいいか、どうふるまえばいいか、どう判断するか、岐路に立った時、自問自答を繰り返す中で生まれたのが、『もう一人の自分』、耳雨でした」

 志彦は耳雨の『誕生』をそう語った。

「彼は、いつも僕より少し先を歩いて、僕にアドバイスを与え励まし、力づけてくれました。『兄というものがいたらこういうものか』と思ったものです。僕に書くことを勧めたのも彼です。他にも生まれてきそうになるいくつかの人格を、耳雨のようにはっきりとした『者』になる前に、キャラクターに変換して物語を書くように」

「では、その当時は志彦さんと耳雨は双方でコミュニケーションが取れていたんですね。 でも今、耳雨は志彦さんの身体を使っている時は志彦さんとしての意識は無い。志彦さんにはその間の記憶が無いと」

「はい。僕が新しく生まれ来る人格をうまくコントロールして紙に定着させられるようになったころ、僕の無意識下で耳雨は僕の身体を乗っ取るようになりました。『乗っ取る』というのは表現がキツ過ぎるかな。何せ彼がそのタイミングを決めているわけではないのだし」

 そこでまた前髪をかき上げる。

「耳雨も僕にダイレクトに感情を伝えられないことに不自由を感じることがあるようで、時々、下手な手紙を残したりしますね」

言って、苦笑する。

 ぼくはそこまで聞いて、のどがカラカラなのを感じ、オレンジジュースを一息に飲んだ。壮絶な話。だけど目の前にいる人の身体の中で現実に起こっていること。

 昨夜、身体を重ねた人。ぼくの初めてをあげた人。

「あの」

恐る恐る、声に出してみた。

「共存し続けるってのはダメなんですか?」

「ありえませんね。今は、統合に向けて治療中です」

バッサリ否定されてしまった。

「僕だって、耳雨に『少年時代の心の友』としての愛着はあります。でも、今の形での耳雨では僕の日常生活に支障があるし、何より彼と僕との統合が『成長』の完成形なんです」

「でも、そうなったら耳雨が耳雨として作り続けた思い出はどうなってしまうの?」

「感傷的な問題に過ぎません。最終的には僕の記憶として残るか、或いは消えてしまうか」

「そんな…」

「あなたが言いたいことはわかります。だから最初に忠告したのです。だって、あなたがこれから彼と作り続ける歴史は彼の存在と一緒に最終的に消えゆくものなのだから。そんな虚しい思いを僕はあなたにさせたくないんです」

 ごちそうさま、と上品に手を合わせて、彼は席を立った。

「まだ、傷は浅くてすみますよ」

「嫌です」

 耐えられなくてぼくは言った。

「ぼく、志彦さんのこと、嫌いです。酷いことばかり言うから」

「すみませんね。僕にとってもこれは死活問題なんで」

志彦はリビングに入って、ジャケットに袖を通した。

「帰ります。嫌われたままここにいるのは忍びない」

背中を見せて玄関へ歩き出す。昨夜ぼくを抱いてくれた背中が遠ざかる。

ぼくは混乱した。混乱してぽろぽろ泣き出してしまった。

 志彦は振り向いて、だからいわんこっちゃない、と呟き、

「あなたの作ってくれたご飯は美味しかったですよ。ありがとう」

と小さく笑った。そうして、右手のひらで、ぼくの頭をそっと撫でてくれた。耳雨の乱暴な撫で方とはやはり違ってとても優しかった。それが余計悲しかった。耳雨と同じ、大きな手のひらだったから。


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