9.


「病院、行ってきたか?」

「うん」

ぼくは、重いエコバッグ二つの中身を大まかに分けて冷蔵庫に入れると、志彦の食器棚で一番大きなタンブラーを探し当てて、流しでいっぱいに水を汲んで飲んで、はー、と息をついた。

良かった。今回も耳雨でいてくれた。

「それで、ちゃんと水中毒のこととか、ちゃんと相談してるのか?」

「え?」

初めて聞く言葉だった。水中毒。

「それ」

耳雨の問いかけに、ぼくが両手で持った大きなコップを指差して言う。

「また水そんなに一息で」

「だって、急いで来て、喉が渇いて」

「前々から思ってたけど、お前、水分摂り過ぎだぞ。トイレも近いし」

「トイレ位自由に行かせてよ」

 頬が熱くなる。耳雨は、真剣な目で言う。

「それ、水中毒って言う。水の飲み過ぎで、血中ナトリウムが不足する。ひどくなると、ふらつくし、倒れる。命の危険もある」

 は? と思った。

「そんな、大したことじゃないよ。食欲が抑えられるっていうか、ごまかせるっていうか。水飲むとスッキリするし、集中力出てくるし。カロリーや毒になるもの、何にも入ってないし、いくら飲んでも太らないし」

「何か始める前に飲む。やってる間も集中したくて飲む、終わったら大きなため息つきながらまた飲む」

 耳雨が畳みかけるように言う。

「朝起きて飲む、寝る前に飲む、出かける前に飲む、目的地に着いたら飲む、帰る前に飲む、疲れて帰る途中で飲む、帰りついたら飲む」

「やめて」

「それで今日、お前何杯水飲んだんだ?」

「…そんなの数えてないもん」

「そんな生活していたら、いつか溺死寸前になるぞ。言っとくけどなあ、水だって太るんだぞ。細胞が水分を余分に蓄えて、体がむくむ。体重が増える。癖になる…」

耳雨がため息をつく。流しに目線をやって、桶に溜まった水面を見る。

「俺だって、前から気づいて、心配になって調べたんだよ。見てろよ、そのうち目眩とか出てくるぞ」

 ぼくは、何を言っていいかわからず、ひとまず水の3分の1残ったタンブラーを置いた。

 不意に、耳雨が肩を震わせる。

「お前の、水飲む姿、男前なんだよなあ」

くくくっと笑いながらこちらを見てぼくの肩を掴むと、タートルネックをめくって首を舐め始めた。

「耳雨、おせちぃ!」

「その前に、ましろが抱きたい。寒かったみたいだな。お前、頬が冷たい」

耳雨の舌の攻めが頬に来た。左頬、右頬とひとしきり舐めて、急に手首を掴んで

「ほら、手もこんなに冷たい」

と言い、動脈の辺りに一度軽いキスをして舐め続けた。

「耳雨!」

「はいはい、こっちだろ?」

片方の手の人差し指の先で、ぼくの唇を掠めるように撫でる。

「耳雨」

「ん?」

 ぼくの赤くなった顔を見て、にこっと笑うと、とうとうぼくの唇をそっと舐めた。そうして、舌先でぼくの唇を割って開けると熱くなった舌が、ぼくの舌に絡んでくる。口腔を舐め尽すように、激しいキスをしてきた。

「…い…き…出来な…」

「あ、ごめん」

耳雨は両手でぼくの頬を包んでそっと顔を離した。

「お前、膝が震えてると思ったら、全身ガクガクだな。今回はここまでで止めてやろう」

耳元で囁いて、

「さ、おせち、やるか!」

と言うなり、私が残していたタンブラーの水をぐいっと飲み干した。

「あ、ずるい」

「間接キス、もらい!」

…あんなキスしといて。今更何を、と思いながら。


コートのポケットからおせちのラインナップのメモを出した。

「一人分のおせちのお品書きをネットで調べて来たの。私もおせちの準備は今までしたことなくて、徹夜でレシピも調べて来た」

「出来合いのを適当に詰めるんじゃないのか?」

「ある程度はね。でも、この際、自分でも作ってみようと思って。…これ、領収書ね」

ぼくは、小さなレシートの束をテーブルに置いた。

「ユキ、経費で落とせるかな?」

首を捻る耳雨に、前掛けを突き付けた。

「料理を手伝うんだったら、これちゃんと付けて。これはぼくのクリスマスプレゼント」

黒とグレーの細かいチェック地に大きなポケットが三つ並んでいるデザイン。ぼくの方は、母の形見の中で一番可愛い淡いピンクのエプロンを付けながら訊いた。

「重箱は、あるよね?」

「ああ、飾りもあるよ」

 梅や南天、「寿」の字の付いた小さな飾りをつまんで見せる。

「毎年、ユキが適当に買ってきて詰めるか、ほとんどはユキの育ての母親が作って持ってきて詰めてたから。今年は…母さんに断った」

「え?電話で?」

「母さんを丸め込んでおけば、ユキには邪魔出来ないだろうと思って」

「自分で作るって言ったの?それとも」

「母さんに言った。作ってくれる人がいるって。母さん、『あらあら』だって」

 …ってことはお母さま公認か。ぼく、そうか公認か。

「黒豆は水に浸けてきたの。あと、圧力鍋とミキサー、蒸し器はある?」

「うん。ユキが一人暮らし始める時に、実家で揃えてくれたのがある。でも圧力鍋、ましろ使えるのか?」

「蒸気が怖かったんでしょ? 耳雨が? 志彦さんが?」

 ぼくはニコニコ笑って訊いた。

「…俺が。カレー作ろうとしたら爆発しそうになって、ショックでユキに戻ってた」

 やっぱり。そういうところは精神年齢15歳なんだな。

「慣れればこんなに簡単で時間短縮できるものはないんだよ。じゃ、豚の角煮から行きましょ」

ぼくは気分よく冷蔵庫を開けた。


「伊達巻きってはんぺん入ってるんだ。ミキサーなんてジュース作るしか能が無いと思ってた」

 耳雨が面白そうに、ガラスの中で攪拌されていく玉子とはんぺんの混合物を眺めている。黒豆を煮ながらぼくは笑いをこらえた。ぼくも初めて作るおせちなので、二人とも好奇心いっぱいで自分たちの手から食べ物が出来ていくのを心から楽しんでいた。まるで理科の実験をする小学生たちのように。

「さすがにカマボコはそのままなんだな」

「これは半分に切ってこう並べると紅白蒲鉾になるよ」

耳雨は、ほう、と言ってすぐに覚えてどんどん作っていった。

「あと、カニは本物といきたかったけど」

ズワイの脚肉に似せたカマボコを斜め切りにして立てて、ハランを添えて飾った。

「カニカマも馬鹿にならないんだよ。原料はスケトウダラと卵白と混ぜた良質のたんぱく質、でんぷんで固めてるから筋肉になりやすいし、繊維質だから消化にもいい。それで赤い色はトマトをパプリカのリコピンで着けてあるの。普段からおやつにもいいものなんだよ」

「よく知ってるなあ、ましろは」

 言いながら、ぼくの頭をわしわしと撫でる。

「また子ども扱いして」

と膨れると、

「バカ、賢い頭とだなと思うと、頭が愛しくて触りたくなるんだよ」

と素敵な笑顔で微笑む。ぼくは慌てて話を逸らした。

「きんとんはスイートポテト風にしちゃおう」

耳雨にオーブントースターで焼いてもらった金時芋を、二人で熱さにきゃあきゃあ騒ぎながら皮を剥き、砂糖と、バターと、隠し味の醤油少々を練り込んで緩いペースト状にした。

「これを栗の甘露煮に絡めて食べるんだよ」

「なあ、この豚の角煮、うまいなあ」

皿に出して冷ましていた角煮を、耳雨が勝手につまみ食いしていた。

「ああ!…もう。まあ、多めに出来た位だから、冷凍しておいて後であっためてご飯で食べていいよ」

そうして小さな声でぼくは威張って言った。

「得意料理なんだ。バラブロックは高くてなかなか買えないから一人暮らしだとあんまり作れないけど」

「圧力鍋ってこんなもんも出来るのか。すごい柔らかいし味が染みてる」

「そうだよ、これからカレーもシチューも鰯の梅煮もバンバン作ってね」

ぼくは耳雨がまだ食べかけの小皿に辛子を足してあげた。


志彦がファンからお歳暮でいただいたというロースハムと、鴨肉ハムを厚めに切って詰めるのは耳雨に任せ、ぼくはニシンを入れた昆布巻きを作り、小鯛を西京焼きにし、海老を蒸し上げた。

「あとは…これ、昨日焼いてきたパウンドケーキ。胡桃とゴマとレーズンが入ってる。少し味醂足したり」

数の子入り松前漬けを器に盛る箸を持ったまま、耳雨がこっちを見た。

「今、俺、我に返った。お前、昨日徹夜したんだっけな」

「あ…」

ぼくは笑顔でケーキの包みを持ったまま固まった。

「ハイになってると思ったら、寝てないせいか。フラフラじゃないか。泊まってけ」

「え、あの、ケーキ」

「お泊りセットなら、前の女が置いてったのがある。それで大丈夫だろ」

耳雨がごそごそと物置を探した。

「これ、中確かめて」

 オールインワンの化粧品、新品の下着まで入ってる。サイズ…大丈夫かな。

「こんな時間まで俺たち、味見とつまみ食い以外、ちゃんと食ってなかったな。バス使ってこい。その間に簡単な夜食用意しとく」

 耳雨…志彦さんちか…お泊り初めてか。はあ。

「ほら、後片付けはしておくから」

 耳雨がぼくをバスルームに押し込んだ。


「おい、お前溺れてんじゃないだろーな?」

 ぼくがいい気分で湯舟に浸かっていると、耳雨が何のためらいもなく、浴室のドアを開けた。ぼくはテレビ画面の料理番組に夢中になっていた。

「ここんちのお風呂、TVがあるんだもん。羨ましい」

 ぼくは一応胸を隠して耳雨に言った。

「で、また料理のこと考えてるとはな」

耳雨は呆れたように言って薄い半透明のドアを閉めた。

「寝巻がないだろうから、俺のセーターで一番手触りのいいの貸してやる。もう上がってこい」

 名残惜しくTVを切り、浴室を出ると、耳雨がバスタオルごとぼくを抱きしめた。

「わあ!」

「捕まえた」

と優しく言ったと思ったら頭からバスタオルを被せ、髪を乱暴に拭き始める。ドライヤーまで手に取るから、

「いいよ、いつも自然乾燥だもん」

「そんなだからいつまでも癖毛が直らないんだ」

ぼくは耳雨にもみくちゃにされて、最後にグレーのでっかいセーターを被せられた。小さなぼくにはまるで膝丈のワンピースだ。

「うん、可愛い」

 満足そうに言うと、キッチンにぼくを連行した。

「鍋焼きうどんでよかったかな?お前、猫舌だからよく冷まして食えよ」

 テーブルの上に散乱していた料理道具は、流しの隅にそれなりに片付いていて、二個の小さな土鍋の中に太葱とおせちの残りのカマボコと玉子が載ったうどんが、ほかほか湯気を立てている。

「耳雨、すごいね。おいしそうだよ」

 ぼくは慌てて椅子に腰かけ、太めのうどんを箸ではさんで、ふうーと息をかけた。食べたい。すぐ食べたい。猫舌のぼくのバカ。

「慌てるなよ、やけどするぞ」

言われて更にふうふうした。よし、食べるぞ。口の中に入れる。ふわふわで、もちもちで、つるつるで

「おいしい」

「だろ?母さん直伝の鍋焼きだぞ」

「麺が、ふわふわでもちもちで」

「いや、それは出来合いの物だから」

「スープは? すごく美味しいよ。麺によく絡まって、火加減と時間と、かな?」

「それと、俺のましろへの愛」

 向かいに座って耳雨が箸を取った。

「二人で食べるとやっぱり美味しいね、耳雨」

「…俺も、食事はほとんど一人だからな。ユキも。だからユキは外食ですますことが多いんだろう」

「耳雨は?」

「俺はコンビニや弁当屋のが多いかな。ユキも俺も受験の時にある程度夜食は作れるようになったけどね」

「耳雨も受験勉強したんだ」

「そりゃ、会場で入れ替わったら、ユキに迷惑かけるからな。あの頃はまだ今ほど分裂していなくて、勉強した記憶は繋がってた感じだし」

「ふーん」

長すぎて邪魔なセーターの袖を気にしながら食べ終えると

「さあ、もうベッドに行きな。俺はソファで寝る」

と耳雨が言う。

「え? 今夜襲ってくれないの?」

「とにかくお前、寝ろってば!! 明日送ってってやるから、今回は大人しく寝なさい」

「耳雨、志彦さんみたい」

 がっかりしてベッドに移動する。確かに身体はくたくたで、入浴と温かい食事の後だから、余計疲れが出ている。耳雨は、土鍋を片付けて、バスルームに行ったようだ。

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