7.


「だから何で森なんだ?」

紅い枯れ葉をかさりと踏みつけながら耳雨が苦笑する。

「気分だからだよ」

ぼくは小鳥が飛び立った方角を見上げながら言った。

 煮詰まった、と思ったのだ。何せ二重人格者との恋なんて、周りに前例がない。二人で自力で乗り越えていかなくてはならない障害が数々ある。

『煮詰まったら海だよ。ドラマでよくある奴。こういう時主人公は海に行くんだ』

LINEで耳雨が提案してきた。よく有り過ぎるネタだとぼくでもわかった。小説家になったのが耳雨でなく志彦で良かったと。

『じゃあ森がいい』

ぼくが返信すると

『“じゃあ森”って(笑)』

と返ってきた。

 自然を感じたかった。耳雨と二人で。できれば、開放的な海より、奥深くへ行こうとする森が気分だった。

うちの最寄り駅で待ち合わせ。電車で近くの山の麓にあるちょっとした森へ行くことにした。

「次は海だかんな」

耳雨が放り投げるように言う。

不思議な話だが、耳雨は車の運転ができなかった。多重人格について書かれた書物に何冊か目を通してみたが、そういった人格によって出来る技能の違いは少なくない事例だという。

例えば、志彦が車を運転していて、行きは行けたが、帰りには耳雨になってしまって車を動かせない。そんな笑うに笑えないことも過去にあったという。耳雨の為に教習所へ通いなおすわけにもいかない。志彦は自身の身体を通して見ているであろう耳雨の為に丁寧に運転してみせることもあるという。物覚えはいい方である耳雨だが、興味を示さないらしい。

初冬の森の入口に立つと、人間がぼくたち以外に本当にいなさそうだった。踏み入ると、落ち葉の降り積もってできたじゅうたんが足に心地よい。森の奥の方を見やると、くねった先が秘密めいた黒い闇に見える。

「行ってみよう」

 耳雨が強くぼくの手を引く。

 広葉樹はあらかた葉を落として、ほぼ針葉樹だけになっているので、いつもより比較的明るいのかもしれない。それでも鬱蒼と生い茂る森の中はぼくらの好奇心をくすぐるには充分だ。梢がキラキラ輝いて、風に擦れて葉擦れの音は止むことが無く、小鳥たちのさえずりは愛らしく森を満たしている。

「…で、ここに何を探しに来たんだ? ましろは」

「結論は急ぎたくないの。でも耳雨の話を聞きたい。ぼくだけでぐるぐるしてるんじゃなくて…何でもいい。話して聞かせて」

 ぼくがそうねだると、耳雨は少し考え込むような表情でモクモクと歩みを進めていった。ぼくは足元の木の根をえっちらおっちら避けながら彼に何とか着いていった。

「俺は」

「うん」

「十五歳で精神年齢が止まっているらしい」

「…うん」

「ユキが迷った時に導く為の存在として、十二歳のユキの中に十五歳くらいの設定?で生

まれた。やがてユキに追い越された」

 少し黙ってから付け足した。

「精神科医だったか、カウンセラーだったかに言われた。だから、ユキが成長しきるために俺の存在が邪魔をしてると」

(こんなエロい十五歳いないよ)と内心でちらりと思った。

「耳雨、志彦さんって何歳なの?」

「二十七歳」

「ふーん」

部分的に歪に成長せざると得なかった耳雨の十五年を思った。

「ましろは? 幾つ?」

「二十二」

「やっぱ成人式過ぎてるんだ。それにしちゃトロいな」

「それ、みんなに言われる。聞き飽きたー」

「危なかしい…もっと強くならなきゃな」

「…それも聞き飽きた」

 小さな上り坂で耳雨は振り向いて手を差し出してくれる。手を借りて一歩上がる。

「俺は、ましろに変わってほしいんだ。俺の影響下で何らかの変化が残ればいいなって思う。いつか俺が消える前提で、俺の爪痕を残すなら、お前を今より変えたい。俺が消えたらお前は泣くだろうけど、少しでも強くたくましく変わってくれてればと思う。…弱くなってたら困るけど」

「ぼくは…失ったら泣けるだろう相手がいるってこと、今とても嬉しい」

そう言いながらもう涙が溢れそうになる。嬉し涙だ。これは。

「俺の女」

ニット帽の上から頭を軽く叩く。

「耳雨、好きな色は?」

「黒、深緑、ワインレッド、グレイ。ましろは? やっぱり白?」

「うーん、紺とか、赤とか、チョコブラウンとか。白もかな」

「ましろはさ、何にも染められていない白じゃなくて、いろんなものに出会って、いろんな目に会って、尚、どんな色も反射して染まらない真っ白なんだな」

「何かそれ、嬉しい表現」

 最高の賛辞だ。好きな人からの。

「俺、白も好きだ。真っ白が」

「ありがとう」

頬が熱くなる。

「耳雨、好きな食べ物は?」

「そうだなあ。刺身、煮魚、切り干し大根、ビーフシチュー。育ての母がよく食べさせてくれた。ましろは?」

「ワンタン。亡くなったお母さんがよく作ってくれた。鶏ガラからスープ取るからぼくには再現できないなあ。お肉を皮で包むのはぼくの係だった! あとケーキ。自分でも焼くよ」

「そんなんで普段何食ってんだ? 牛乳はちゃんと飲んでるか? 身長伸びねーぞ」

「飲んでるよ。全部胸に行っちゃうの! 料理だって作るよ。一人暮らしだから日曜日に常備菜作っておくの。ひじきとか、小松菜の煮びたしとか、肉じゃがとか。切り干し大根も作るよ」

「野菜食ってるなあ。頑張ってるな、エライエライ」

「頑張れなくなる時もある。…一人で泣いてる」

「…そっかあ」

 耳雨の目尻が下がる。孫を見るおじいちゃんみたいな目だ。

「そんな時は…そうだな。一緒にご飯を食べよう」

「また志彦さんに替わらない?」

「約束…したい。ましろの作る食事をましろと食べたい。一緒に作ってもいい。それが出来るよう祈る」

 約束の出来ない恋の日々にも慣れてきたものだ。ぼくはクスッと笑った。

「ましろはそんなにユキが嫌いか?」

「うん、嫌い」

いつも暗雲のように突然、耳雨を隠してしまうから。

「…でも、耳雨は志彦さんのこと好きなのね」

「そうだな。長い付き合いだからなあ」

 耳雨が枯れた細い枝をポキンと折ってしまった。

「ユキを困らせたいわけじゃないんだ。人格の分裂なんて望んだわけでもなかった。でもこの通り、俺は俺になってしまって、ユキの身体を借りている時も、大人しくユキになりきって過ごすのは無理だった。俺は俺でしかいられなかった」

「育てのご両親はご存知なの?」

「うん、知ってた。進んだ考えの人達でね。二つの人格共に出来るだけ尊重して育ててくれた。これがこの子の個性だって」

 遠い目をして小鳥の歌声を聞く耳雨。

「ユキは立派だと思うよ。三歳までの記憶が無いくらい酷い目に会ってて喃語もろくに喋れなくて、施設はスタッフが忙しすぎて大変な暮らしだったし、育ての親に会うまで、ちゃんとした愛情を受けて育ってない。俺みたいな変な人格まで飼っちまって、でも結局一人前の大人として生活してるんだ。乗っ取ろうなんて考えもしないよ」

「耳雨はこのまま志彦さんと共存を続けていきたいとは思わないの?」

「うーん。少しでも長く俺として過ごしたいけど、実際の処ユキに迷惑がかかってるからな、俺の存在で」

「じゃあ、耳雨も自分が消えるしかないって本気で思ってるの? もう諦めてしまってるの?」

「ましろ?」

「ぼくは嫌だ。耳雨に消えて欲しくない! もっとずっと一緒に過ごしたい」

「…ましろ」

「ぼくはいったい何? 耳雨にとってぼくはいったい何なの?」

溢れてしまう涙を隠すように、彼の胸に縋りつく。

「耳雨がまるっと志彦さんになってしまえばいいのに」

涙声は隠せない。耳雨はぼくの身体をしばらくぎゅっと抱きしめた後、

「俺がユキになったら、文才無いから食っていけないよ」

と笑った。

「世間からは『東雲志彦』が求められてるからな。そういえば、『しののめ』も『ののむら』も、のが二つ続いてるのな。いっそ俺が消えた後、付き合ってしまえば」

「嫌。絶対に嫌!」

耳雨のグレーのダッフルコートの胸の中で首を横に振る。

「そこまで嫌わなくても。俺のことが無ければ、ユキは優しいいい奴だぞ。クールだけど器もでかいし」

「志彦さんを褒める耳雨も嫌い」

「困った子だなあ」

 コートの肩をポンポン叩いて柔らかく笑う。

 志彦のことは本当に嫌いだったが、耳雨の『精神の死』にまっすぐ向かっていく姿勢が、もっと気に入らない。

「大体、何で常に耳雨が消えてしまうことが前提なの?」

「お前、何でそんな物分かりが悪いんだよ」

 質問に質問で返すな。

「耳雨が大好きだからだよ」

耳雨の目を見上げて、見つめて言った。

「…子どもみたいだな、まったく」

耳雨が独り言のように言う。いつものように頭を撫でようと伸ばしてくる手をはねのけた。

「ごまかさないで! ぼく本気で怒ってるんだから」

「大声を出すなよ。こんなところにケンカしに来たわけじゃないだろう?」

耳雨ははねのけられた手を押さえて静かに言う。続けて

「本気か? 本気で俺に生き残れって思ってるのか?」

ぼくは強くうなずいた。

「それはユキに消えろっていうことか?」

小さく呟く耳雨。

「だから共存し続けることは?」

「無理だ。…今でも生活に矛盾がたくさん生じて苦痛になってる」

「だったら、ぼくは耳雨に残ってほしい」

耳雨はうつむいてくちびるを噛んだ。数秒だまった後、苦しそうに言う。

「…だめだ。考えられない」

「何故? あなたにだって残る権限はあるはずでしょう?」

「だめだ! 許されない!」

「ジキルとハイド、の例だってあるじゃない」

「あれは、物語の中の結末だ。しかも悲劇の」

「でも、可能性としてあり得る。そしてぼくにとっては悲劇ではない」

「ましろ」

駄々っ子を叱るように名を呼ばれた。

「お前の嫌いなユキでも、俺は本体として友情というか、愛着というか、愛情を感じているんだ。ユキを消して乗っ取るなんて選択肢にないよ。でも」

耳雨は僕の肩を抱いた。

「ありがとうな。お前の愛情が深くて、俺、自分を見失いそうになるところだった。そこまで本気でこんな俺を愛してくれて、本当に嬉しいよ、俺」

そう言ってぼくを片手で左側に抱き寄せる。耳雨の身体の温度よりも、その弾力と骨の感じに泣きたくなる。 

森の中を風が吹き抜けていく。背中から抱き寄せられる。腕の中、見上げればいかにも寒そうな梢に広がる灰色の雲が流れていく。

耳雨が季節外れの小さな黄色い花を見つけた。名前を知らない野生の花。かがんで摘み取ると、ぼくの髪にそっと挿した。

「強い花だ。ましろによく似あう」

優しく微笑む。

ぼくは黙ってうつむいた。強いと言われたのが嬉しかった。頼りない僕を。

こんなにもぼくの気持ちをまるごと受け止めてくれる人が今までいただろうか。

こんなに手応えを感じさせてくれる人が、一人の人間じゃないなんて。

ぼくはたった今からこの人のこんな生き様を忘れないでおこうと強く思った。そんなこと考えたくないけど、いつか彼が消えてしまっても、この存在がいたことをきっと忘れない。

「冷えてきたな。駅前にメシでも食いに行こうか」

「うん」

耳雨の声は暖かい。だからこの冬の寒い日にも小さな花のぼくは花弁を開いて笑えるんだ。.

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