14.

人の波が川沿いに延々と続いている。延々と延々と。


 それぞれの人がそれぞれの胸にそれぞれの想いを抱いてこの花景色を眺めているわけで。延々と延々と延々と。


 人々の胸にそれぞれの歴史(ストーリー)を抱いて、


 永遠と、永遠と、魂が永遠と続く。


「延々と」は「永遠と」と似ている。


 永遠と永遠と永遠と…草履の立てる足音に重ねて心の中で唱えた。


みんなそれぞれに一人。ひとりひとりの中に違う色を灯して。耳雨は耳雨として、二つの心を持った存在として。ぼくはぼくという大人にも子供にも女にもなりきれない人間として桜の下に集い、人波の中を歩いている。


「耳雨」


「何?」


 振り向く耳雨に何気なしに言った。


「志彦さんもその目で桜を見れたらいいのに」


「さっきからいるじゃないか。気づかなかった?」


 熱に浮かされたように耳雨がぽつりと言う。ぼくの中で何かが固まった。


「それ、どういうこと? 今、統合してるってこと?」


 ぼくの声が突然冷めるのを聞いて、耳雨の歩みが止まる。


「ましろ…ちゃん」


 ぼくは一歩後ずさり、次の瞬間には人波を離れた。


「待って、ましろちゃん。僕が僕でいる間に言わなきゃならないことがある」


彼の右手がぼくの左手を再びつかむ。薬指の指輪が食い込む。


「ぼくは、きみが好きだ」


 ぼくの頭の中が本当に真っ白になる。自然に口をついて言葉が零れる。


「いつから…?」


「いつの間にか、でしょうか。耳雨の為にきみが尽くしてくれたこと一つ一つを見ているちに愛おしくてたまらなくなって」


「ちがう! ぼくが聞きたいのは、今日、お花見している間、いつから志彦さん、あなただったの?」


 ぼくたちは人波から完全に外れて一本の桜の樹の下にいる。彼の姿が逆光で影の一部の様だ。


「駅できみの姿を見た瞬間にぼーっとなって、僕達の境界が曖昧になったんだと思います」


「返してよ、耳雨を返して。ぼくと耳雨の大事な時間を奪わないで」


 この着物も櫛も耳雨だけの為のものなんだから。


「ましろ、それはひどい。ユキの心に痛すぎる」


 目の前の人がぼくの小さな肩に大きな手を当てた。その力加減で、その手が今、耳雨のものだとわかる。


「ユキは、大事な告白を今、したんだぞ。ユキにとっては紛れもない真実で、今伝えなくては意味が無くなってしまう大事な告白を」


「…耳雨のバカ」


 目頭が熱くなる。溢れ出す涙が止まらない。


「泣いているお前もキレイだ」


 耳雨は外れかけたぼくのストールを固く巻き直してくれた。


「志彦さんが…志彦さんが耳雨のフリしてたなんて。それに気づかなかったなんて」


「ほんの短い間だよ。それにフリをしていたわけじゃない。俺たちの境界が曖昧になっていただけなんだ」


「一時的にでも統合されたあなたにぼくは見惚れてた」


「ましろ…」


「統合されたあなたなんか、あなたじゃない」


「ましろ!」


 耳雨がストールごとぼくを固く抱きしめる。


「それでも、お前がそんな俺を認めてくれなくても、俺は…俺もユキもお前を愛してるんだ」


 耳雨の声が泣いている。この人を泣かせたくなかった。でも。


「俺も、ユキも片想いか?」


 耳雨の涙がぼくのおでこに届く。


「…耳雨が好き。やっぱり」


「…なら、ユキの気持ちも少しはわかってやってくれよ。今までどんな想いであいつがお前を見てきたか、少しでも考えてやってくれないか」


「そんな余裕、無いよ」


「ユキの想いまで受け止めろ、とは言わない。ただ少しでも『誰かを好きで心が痛い』っていう気持ちがわかるなら、頑なにユキを毛嫌いしないでやってくれ。難しいだろうけど」


「…あのまま、耳雨と志彦さんが一つになって、…統合されてしまうのかと思って…怖かったの」


「うん」


「耳雨に会えなくなると思って…二度と…」


「うん、わかったよ」


「耳雨」


「ここにいるよ、こうして」


 涙でべたべたのこんなバカップルの横を、人波は無視して通り過ぎてくれる。みんな桜がキレイすぎるせいにしてくれる。





 数日前のホワイトデーに、その大きな荷物は届いたのだ。今度は志彦から。チョコレートブラウンの大きなクマのぬいぐるみ。ぼくの肩に届くほどの。小さなカードに『義理チョコのお礼。』とだけ書いてあった。


「志彦さん、やっぱりぼくを子ども扱いして」


 びっくりしたと同時にちょっと怒れてきたが、広すぎる一軒家にそのクマは不思議に馴染んでいた。ビロードの紺のリボンを首に巻き、左足の裏には青い糸で『My Dear』という刺繍。何より手触りがとても良かった。もふもふなのに、夏場も暑苦しくならないようなすべすべした毛並み。


「やっぱり高級品なんだろうな」と漠然と思ったが、どんな顔でこれを選んだんだろうと少し笑ってしまった。


 …義理返しなんかじゃなかったのだ。今ならわかる。いや、志彦の自分への気持ちが好意なのは本当はぼくは心のどこかでとっくに気づいていた。ただ、自分への歩み寄りの表れと思ってしまっていた。


 あんなに、あの家に…一人暮らしには広すぎる家に似つかわしいものを選んでくれた志彦の想い。





 川べりの人波から少し外れてベンチで休んでいると、


「ほれ、お待ちかねのりんご飴」


耳雨が屋台から買ってきた真っ赤なりんご飴を差し出す。


「いちご飴も買ってみたぞ。俺も食う」


もう一方の手にカップ酒といちご飴二本を抱えて、隣に座った。りんごもいちごも甘い光沢を放ちながらぼくの視覚を誘っている。


「いちごももらう」


 ぼくは両手で二つの赤い果実を受け取った。


周りの芝生には酒盛りに興じている団体のビニールシートが点在している。みんな楽しそうだ。


 少しずれたぼくのストールをつまんで肩にかけ直しながら耳雨が話し掛けてきた。


「落ち着いたか?」


「涙は止まった。でもまだ頭の中ぐるぐるしてる」


「そうか。…これ、イケるな」


 耳雨がいちご飴を一口齧り、カップの酒をまた一口飲んだ。


「簡単にいかないわな、理解しろっていっても」


「うん」


ぼくもいちご飴を口に含んでみた。歯を立てると甘い飴がぱりりと口の中で割れる。


 志彦の気持ち。薄い層の飴みたいに、ほろ苦く甘い。


 目の前の、愛しい耳雨、耳雨の体。その中にいるもう一つの存在がぼくを想っている、という今の現状。混乱してしまう。


「ぼくってモテるんだね」


ぽつりと呟くと耳雨が軽くクスッと噴き出す。


「お前、天然だからな。目が離せなくなるんだ」


 天然、か。…こんな女の魅力のかけらもない、子供みたいな、小動物みたいに震えて生きている人間のどこがいいんだろう。


「いつ会っても、心が剥き出しだろ? そんなとこがセクシーなんだよ。生命を感じる」


「そんなもんなの?」


「そんなもんです」


「ふーん」


 そう言ってぼくは、いちごの果肉を噛んだ。じゅわっとくる甘酸っぱさが飴の甘さと相まって、際立つ。


「いろいろ、大変です。混乱しています」


「わかるよ」


「でも、認識しなきゃいけないよね」


「難しいだろ? …俺も迷った。ユキのお前への好意を認識してから」


 耳雨はそう言ってまたお酒を一口飲んだ。


「ましろを愛しいと思う気持ち、これは自分なのか?ユキの気持ちなのか? それとも一人の人間としてましろを好きなのか? でも」


一度言葉を区切り、


「自分のましろを思う熱い気持ち、ユキの穏やかな気持ち、違う気がする。別々の感情だ。そうなるとユキにライバル心みたいなのが湧いて来たり、応援したくなったり」


「複雑だね」


「複雑だな。今更だけど」


二人で空を見上げた。花曇りの夜空に月がぼんやり霞んでいる。


「それ、一口ちょうだい」


ぼくはカップ酒に手を伸ばした。


「喉、渇いた」


「飲めるのか?」


「少しは」


 一気に飲むなよ、と言いながら耳雨がお酒を手渡してくれた。口に含んで、舌で味わって、喉を湿した。少しは渇きが落ち着いた。


「志彦さん、勇気を出したんだね」


カップを返しながらぼくは言った。耳雨はいちご飴を片付けていた。ぼくもいちご飴の果肉を全部口に入れた。アルコールといちごの香りが口の中で混ざって複雑な甘さを感じる。


しばらく二人で黙っていたが、耳雨が思い切ったように切り出した。


「なあ、俺と、…いや、俺たちとの結婚を前提に考えてくれないか?」


「え?」


 ぼくの中で時間が止まった。これはプロポーズだろう。でも何か違う。


「それって、ぼくが二人分の好意を受け入れろってことだよね」


ぼくが俯いて言う。耳雨は黙っている。重い。


 解離の関連の本を読んでいると、パートナーの理解がどれほど患者の治療に大きく支えになるか書かれている。


 自分が耳雨と志彦を受け入れることで良い方向に向かうんだろうか。でも行く末は「統合」。


 統合された耳雨と志彦をぼくは愛せるだろうか? 考えただけで涙がまた一筋頬に流れた。


 耳雨が不意にぼくの肩に手を置く。強く力を込めて。


「必ず幸せにする。そう約束しただろ?」


 自信満々な言葉だけど手が震えているのを感じる。


「どうなってもお前の幸せを優先すると誓う。信じられないか?」


 …これ以上ぼくを想いやってくれる気持ちに溢れた言葉があるだろうか。


「前向きに、考えてみます」


 ぼくは言葉を選んでやっと答えた。答えてしまった。この言葉で二人のこれからは大きく変わることになるんだろう。


「ありがとう」


真剣な目で耳雨が言った。ぼくの言葉を噛み締めるようにしばらく黙った後、


「もう一度、桜、近くで観ようか」


と手を差し伸べる。


「はい」


ぼくはベンチから立ち上がった。このベンチに座る前と自分の心の重さが大きく変化している感じがする。


ごみを片付け、手をつないで桜並木の方に二人で歩き出した。光に浮かぶ夜桜の薄紅が二人を迎えてくれる。恐れることはない、と励ますように。


汗に湿った耳雨の手のひらが彼の想いの誠実さを伝えてくれる。


―――耳雨、好きだよ。信じていいね。―--


二人で光の中に踏み出す。風が吹いて花びらがひとひら、ふたひら、視線の前で舞った。

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