EPISODE:FINAL エピローグ/Ω:RAVEN

 東京都臨海副都心再開発地区。


 行政と建築企業との軋轢が影響し、再開発途中で計画が遅滞している工業地域のとある一角に、凉城飛鳥は訪れていた。


 長い間潮風に晒された影響で、外壁や外階段の所々に赤錆が浮き始めた工場が立ち並ぶ海辺で、灰色の波間を見つめる男がいた。


「――ようやく、見つけた」


 寂しげな男の後ろ姿に、飛鳥は見覚えがあった。


「やあ、久しぶりだね。飛鳥ちゃん」


 古嶋晴臣が、思わせぶりな表情で振り向いた。


「あれから姿をくらましていたと思ったら、こんなところで油売ってたってワケ?」

 玄崎明が天塚翔――レイブン・スノーホワイトを斃してから二週間。古嶋晴臣は誰に言付けをするでもなく、その行方を晦ましていた。


 飛鳥が住むマンションの別室に居候していたはずの晴臣は、事件に関連する資料や研究結果などを持ち、一夜にして忽然と消え失せていたのだった。


「いずれ見つかるとは思ってたけど、こんなに早いとはね。さすがに、君を買い被ってたかな」

「私を舐めないで。使える手段は全部使わせてもらった。いくら用意周到に夜逃げしても、人間はどこかに足跡を残すものよ」


 幾ら準備を重ねても、人間は霧のように都合良く消え失せる事なんて出来ない。街中に張り巡らされた監視カメラから割り出した映像を分析し、東京都内という名の砂漠から針を探すような捜索の末、飛鳥は古嶋晴臣の行方を突き止めた。


「勉強になった。今度からはもっとうまくやるようにするよ」


 椅子から腰を上げ、晴臣はゆっくりと飛鳥のほうを向く。伸びっぱなしの無精髭と黒縁の眼鏡。洗いざらしのブルージーンズ。見慣れた白衣姿ではなくグレーのジャケットを着込んでいる以外に、彼の見た目に変わりはない。にも関わらず、微笑を浮かべる晴臣の表情に、飛鳥は言い知れぬ不安を覚えていた。


「どうして、私たちの前から姿を消したの」

「……それは、君が一番、よく知っているんじゃないか?」


 飛鳥は手に持っていた資料をコンクリートの地面に放り投げた。ホチキスで束ねられた冊子の表紙には二十四番目のギリシャ文字、Ωの文字が大きく書かれていた。


「……その資料」

「『プロジェクト・オメガレイブン』」


 晴臣の目を睨み付け、飛鳥は資料の題名を呟く。


「聞き覚えあるでしょ?」


 晴臣は図星を突かれたような顔をして、唇を結んだ。


「なるほど。それを見つけたのは、天塚主任の家か?」


 全てを察したような表情で、晴臣は言う。


「ええ。私はそこで、真実を目にした」

「真実なんてのは語り手の主観でどうにでもなる。大事なのは君が見た事実だ」


 飛鳥は少し間を置いて、再び晴臣の目を睨み付けた。


 その視線に、かつて彼女が抱いていた親愛の情は一切感じられない。


 軽蔑と敵意を剥き出しにし、飛鳥は晴臣に言葉の刃を突きつける。


「――あんたが、あんたが私の叔父さんを裏切った張本人ね。古嶋晴臣」


 晴臣は否定もせず、眼鏡越しの暗い視線を、ただ飛鳥に向けていた。


「どうして、そう思う?」

「あんたが裏切り者だと考えれば、色々と辻褄が合うことに気付いたの」

「例えば?」

「あくまで、これは仮説だけど」


 と前置きし、飛鳥は晴臣に対して語りだした。


「あんたと天塚丈一郎は、メトセラ製薬で培った研究結果を持ち出して、外部の組織に夜逃げしようと計画していた。そのついでに証拠隠滅がてら、メトセラの権威を失墜させようと、奴らが行っていた非合法的な研究を世間に暴露しようとしていた」


 晴臣は肯定も否定もせず、ただ涼し気な顔で飛鳥の話を聞いていた。


「その為に利用されたのが私の叔父さん、白石光一。けど、最終的に彼は用済みとなって殺された。私の叔父さんの事だもの。いずれ放っておけば、きっと彼は必ず真実を暴き出していたに違いない。その証拠がこれ」


 飛鳥が鞄から取り出したのは、月刊レムーリアと呼ばれる雑誌だった。宇宙人、未確認生物、心霊現象、秘密結社の陰謀論などオカルトマニアに親しまれる月刊誌。飛鳥の叔父、白石光一は過去何度か、この雑誌に記事を寄稿していた。


「古代遺跡より発掘された地球外生命体を人体に寄生させ、生物兵器化する計画――正直、突拍子もない与太話だと思ってた。実際、叔父さんの記事を本物と信じる読者は誰ひとりとして存在しなかった。けど、この資料を読んで全てが腑に落ちた。叔父さんの書いた原稿にはぜんぶ、真実が書かれていたんだって」


 話を聞きながら尚平然とした晴臣の態度が、飛鳥の神経を余計に逆撫でる。


「見る人が見れば、この記事に本当のことが書かれているって一発で分かるはず。メトセラ製薬の行ってきた悪行だけでなく、そこにはあんた達二人にも都合が悪い情報が書かれていた――それに気付いたあんた達は、遂に実力行使に出た。だから叔父さんは消された。そうでしょ?」


「……君は、本当に叔父さんに良く似ているよ」


 ずれた眼鏡を直し、口元に微笑を浮かべ、晴臣は神妙に呟く。


「私も消してみる?。ちなみに、私の部屋のパソコンに一定時間アクセスが無いと、私が知り得た全ての情報が全世界のネットにアップロードされるようになってる。私を生かしても殺しても、どっちにしろあんたに退路はない」


「用意周到な部分もそっくりだ。君の叔父さんを消したところで、いずれボクらは君たちに追い詰められていたのかもしれないね――しかし、ボクが裏切りものだってわかってるなら、どうしてわざわざここまで来たんだい」

「決まってるでしょ。あんたを殺す為」


 飛鳥はホルスターから拳銃――ベレッタPx4 Stormを抜き、晴臣の額に突きつけた。撃鉄は既に上がっている。飛鳥の指に少し力が入れば、晴臣の頭に風穴が開く。にも関わらず晴臣は怖じ気づく様子は無かった。


「だけど教えて。あんたを殺すには、まだパズルのピースが足りないの」

「――いいさ。ここまで辿り付いたんだ。君には事件の真相を知る権利がある。なに。どうせすぐに殺される身だ。今更逃げたりしないさ」


 直ぐにでも引き金を絞り、この裏切り者を始末したい気持ちと、今まで一緒に過ごして来た古嶋晴臣と、目の前にいる彼が同一人物とは思えない気持ちが相反し、飛鳥の感情を鈍らせていた。


「何が知りたい?」

「どうして、彼らだったの」


 玄崎明と、天塚翔。

 普通の高校生だった彼らが一体なぜ、怪物レイブンになったのか。

 互いに想いを寄せ合った二人が、どうして殺し合わなければならなかったのか。

 その答えを聞かなければ――自分は、凉城飛鳥は、玄崎明に合わせる顔がない。


「はじまりは、本当に偶然だ」


 飛鳥の問いに対し、晴臣は語り始めた。


「天塚主任は研究者として優秀な人間だった。けど、その反面で私生活は散々だったみたいでね。研究を理解してくれない奥さんに夜逃げされ、あまつさえ、血の繋がらない連れ子を押しつけられた。おまけにプロジェクトの進捗状況も芳しくないと来れば、彼の苛立ちが、娘に向かうのは必然だった」


 天塚丈一郎が娘に日常的な虐待を行っていた事が発覚したのは、天塚翔の死後だった。虐待の発覚を恐れた丈一郎は、彼女の傷が癒えるまで登校を許さなかった。元々病弱だった翔の体質を隠れ蓑に、丈一郎は自らのストレスを娘にぶつけ続けた。


 その結果。


「――行き過ぎた虐待は、遂に天塚翔の命を奪った。主任に殴られ転倒した拍子に頭を強く打ち、意識を失った彼女はその時、確かに生命活動を停止した」


「だから、奴は寄生体を、彼女に……」


「そうだ。あらゆる被験者を死に追いやったスノーホワイト――彼は研究室で凍結状態にあった寄生体の実験サンプルを無断で持ち出し、死後数時間経過した天塚翔に投与した。その結果、天塚翔は蘇生、彼女はレイブンとして第二の生を得た」


 飛鳥の体が、小刻みに震え始める。既に終わった出来事なのに、二度と取り返しの付かない事にも関わらず、飛鳥は怒りを覚えずには居られなかった。


「多くの被験者が犠牲になったレイブン化実験において、彼女は成功の兆しだった。スノーホワイトを身に宿しながらも、天塚翔は自我をある程度まで保てていた――けどそれも束の間だ。薬物投与や外科的処置を行わなければ、スノーホワイトは、天塚翔は彼女自身の自我を保てなかった」


 資料に記載されている実験内容には、天塚翔が受けた多くの実験内容が記載されていた。薬漬けにされ、脳味噌の中身を弄ばれ、化け物として無理矢理に戦わせられる。本来ならば普通の日常を送るはずだった天塚翔は、幸せな青春を奪われた末、レイブンとしても失敗作の烙印を押されていた。


「僕らの目指す目標には程遠かった。レイブンに寄生されながらも人間としての自我を有し、明確な判断能力を持つ究極の兵士を創り出す、生体強化外骨格構想――それが『プロジェクト・オメガレイブン』だ。天塚翔はスノーホワイトの完全な適合者にはなり得なかった。ゆえに、僕らは新たな実験体を求めた。全ては究極のレイブン、通称『Ω』を生み出す為に」


「……オメガ。それが、玄崎くんだったってわけ」


 晴臣は深々と頷いた。


「彼が現れたのは本当に偶然だった。スノーホワイトの生殖本能は抑えられていたはずだ。しかし瀕死の状態だった玄崎明はスノーホワイトから特性を受け継ぎ、レイブンとして覚醒した。はじめて彼の変身を見た時、僕は狂喜したよ。変身後も人間としての理性を変わらず保ち続ける究極の戦士――遂に本当の『Ω』が現れたって」


 それからだよ、計画の方向が転換したのは――と晴臣は言う。


「スノーホワイトを仮想敵アグレッサーとし、玄崎明の完全なる『Ω化』を促す為、組織的な実験が行われた。鴉ヶ丘市全体を実験場と化した、謂わば大規模な模擬戦と言って良い。しかしスノーホワイトとの戦闘の最中、玄崎明の成長を促しながら、それを一番近くで観測する研究者が必要だった」


「だから、あんたは私たちに取り入った」

「逆だね。君たちがボクに取り入るよう計らった。ボクのおかげで玄崎くんはあそこまで成長した。結果的に君たちは、より多くのレイブンを倒せた。そうだろう?」


 怒りに震えた手つきで、飛鳥は再び晴臣に拳銃を向けた。


「あんた達のエゴで、多くの人の運命が狂わされたのに、そんな言い草?」

「――『Ω』は人間の未来に必要な存在だ。多少の犠牲は致し方ない」

「だったら、ここで私があんたを殺しても、仕方ない犠牲ってこと?」


 飛鳥がPx4 Stormの引き金に指をかけた。照準は晴臣の眉間を寸分違わず狙い続けている。しかし晴臣は顔色ひとつ変えることなく、


「やっぱり、君は叔父さんに似て、やり方が過激だな」


 晴臣が薄ら笑いを浮かべた途端、闇夜を貫く爆音と共に、周囲に強風が吹き荒れた。夜間迷彩塗装のヘリコプターから照射される光に飛鳥の目が眩む中、上空からラぺリング降下してきた武装集団が、即座に飛鳥を取り囲む。


「……彼らが新しい友達?」


 フルフェイスマスクを装備している武装集団の所属は窺えない。装備から判断すると、メトセラ製薬が差し向けた刺客で無いことは明らかだった。アサルトライフルの銃口を突き付けられた飛鳥は両手を上げ、諧謔的に笑う。


「手荒な奴らですまない。ボクにはまだ、彼らと共にやることがある」


 武装集団に先導され、着陸したヘリに乗り込む晴臣。右手から拳銃を奪われた飛鳥は、丸腰の状態で膝を付かされる。


「全てはこれからだ。あれが地球外生命体が全世界に残した布石なら、いつか必ず、運命の時が来る。レイブンは過去から託された、人類唯一の希望だ」

「あれだけのヒトの人生を狂わせといて、何が希望よ。くそったれ」

「いずれ分かる時が来るさ。一体どうして、レイブンは地球に訪れたのか。どうして、ヒトに寄生しなければ存在たり得ないのか――いずれボクが正しいって思う時が必ず来る。賢い君の事だ。いつか答えに辿り付くのを待ってるよ。飛鳥ちゃん」


 兵士たちと共にヘリで飛び去る晴臣を、飛鳥は憮然とした表情で睨み続けた。


 再び、海辺に静寂が戻る。  


 凉城飛鳥は自らが完全に敗北したことを、改めて自覚する他無かった。無様な自分に悔しさが募り、飛鳥は右手の拳を工場の壁に殴り付けた。


 ――いちばん身近にいた裏切り者さえ見抜けないで、何が叔父の復讐だ。

 愚かな自分の思い込みで、想い合っていた少年と少女が殺し合ったのだ。

 せめてこの痛みが自らへの戒めになればいいと、飛鳥は何度も、拳を叩き付けた。


EPISODE:FINAL


Ω:RAVEN


 七月の初頭。長い雨の季節を超え、ようやく訪れた初夏の空気を、玄崎明は汗ばむ肌にて感じていた。


 梅雨明けの青空から降り注ぐ陽光が、鴉ヶ丘霊園に降り注いでいた。多くの墓石が整然と立ち並ぶ中から目的の場所に辿り着くと、明は火の付いた線香を供え、ゆっくりとしゃがみ込んで両手を合わせた。


 墓石に刻まれているのは『天塚家』の文字。


 ――ここに来るまで、どれほどの覚悟が必要だっただろう。


 目を瞑るだけで、様々な思いが胸に去来した。


 天塚翔の死は、学校に侵入した不審者による殺人事件として処理された。


 生前、沢山の友人に恵まれていた彼女の死を誰もが惜しみ、そして心の底から涙した。多くの人々が参列した葬儀の様子を、明は会場の外から黙って眺めていた。


 ――自分が殺した少女を、自分で弔う事など、許されるわけがない。


 けれども今日、この日だけは、彼女の墓前に来なければならなかった。


 そう思わせる理由が、明にはあった。


 合掌を終えると、背後にどこか懐かしい雰囲気を感じ、明は振り向いた。


「……飛鳥」


 凉城飛鳥が、花束を持って立っていた。


「久し振り。明くん」


 何の言葉を発せば良いか分からずに、ばつの悪い顔を浮かべる明の横に並び立つと、飛鳥は黙って墓前に花を供えた。


「体の調子はどう?」


 手を合わせた後、飛鳥はいつも通りの口振りで聞いた。


「まずまずって感じ……かな。最近ようやく、外に出られるようになった」


 飛鳥と直接顔を合わせるのは、実に一ヶ月ぶりだった。古嶋晴臣の行方を血眼で追っていた飛鳥とは裏腹に、明はずっと、自分の部屋に引き籠もっていた。カーテンを締め切った部屋の中、大切な想い人を殺した罪の意識と自罰的な感情に苛まれ、いっそ死んでしまいたいとすら思いながら、明は一歩も動けずにいた。


「アイツが寄越した賦活剤クスリの影響は?」

「――ないわけじゃ、ない」


 明は学生服の袖を捲ると、右手に巻いた包帯を解いた。

 黒色に艶めく甲殻が、包帯の下の皮膚に纏わり付いていた。

 それを見た飛鳥が、おぞましさに顔をしかめる。


「最後の戦いで、右腕に力を集中させすぎたんだ。無理し過ぎた結果の自業自得だよ。今、こうして人間として生きてるだけで、僕はまだ、ラッキーなんだと思う」

 明は自嘲的に笑うと、一拍置いて続けた。


「古嶋晴臣は、結局裏切りものだったんだろ」

「……ええ。彼の目的はあなた――レイブン・ブラックシャドーだった。完全にヒトとしての自我を保った究極のレイブン、『Ω』として覚醒したあなたの戦闘データを取る為に、天塚さんとあなたを殺し合わせた。古嶋晴臣はメトセラ製薬も私たちも裏切って、今も何処かで研究を続けてる。新たなレイブンを、生み出す為に」

「そう、か」


 無味乾燥な声色で、明は返した。


「ごめんなさい。もし奴の魂胆が見抜けていれば、私は――あなた達を殺し合わせたり、しないで済んだのかもしれない。落とし前は必ず付ける。だから」

「――理由なんてのは、今更どうだって良いんだ」


 明は飛鳥の話を遮って、語気を強めた。


「誰が裏切りものだったとか、誰が悪かったとか、僕にはもう、どうだっていい。幾ら理由を並べたって、僕が彼女を――天塚さんを殺した事実は変わらないんだから」


 右手の刃を心臓に突き立てた。その時の感触が、今も生々しく残っている。

 彼女を抱いた腕の中で、命の鼓動が徐々に小さくなり、暖かな温もりが少しずつ消えていく感覚を、今でも夢に見ることがある。


「……飛鳥は、これからどうするの」

「まだメトセラ製薬の陰謀は続いている。プロジェクト・オメガレイブンが終わったわけじゃない。このままだと第二、第三の天塚翔が生まれるかもしれない。だから私は奴らの企みを止めるまで、戦い続ける」


 それが、君たちを巻き込んだ私なりの、責任の取り方――と飛鳥は言った。


「……玄崎くんは?」


 明はそれ以上、何も言うことは出来なかった。


 正直な所、答えは初めから分かっていた。これからどうするか、一体自分が、未来に向けて何をすべきか。


 分かっているはずなのに、あと一歩を踏み出す勇気が出ない。せめて何か、背中を押してくれるきっかけが欲しいと思って、縋るような気持ちで明は翔の墓前に来た。


 土の下で眠り続ける翔に答えを求めても、彼女は何も返事をしてはくれない。

           

                  *


 墓参りからの帰り道。ふと気付けば、明は学校に足を運んでいた。


 既に時刻は午後五時を回っている。もう一ヶ月以上登校していないにも関わらず、明の足は自然と、図書室に向かっていた。


 図書室には相変わらず誰も居ない。カウンター業務を担うはずの図書委員ですら奥の司書室に籠もっていて、がらんと空いた空間に、紅い夕陽だけが差し込んでいた。


 何気なく本棚から一冊を取り、いつもの席に座る。


 部活動で賑わう生徒たちの声が、窓越しの校庭から聞こえてくる。それ以外に聞こえるのはページを捲る乾いた音、ただそれだけだった。窓際から吹き込んだ風にカーテンが揺れた瞬間、明は懐かしい気配を感じてはっと顔を上げた。


 窓際に佇んでいる天塚翔の姿が、視えた気がした。


 夕暮れに照らされてはにかむ彼女の唇が、僅かに言葉を紡いだ。


 その笑顔が幻だと気づいた時、明は改めて、失われた日々の温かさを実感した。


 君のいない席。

 君のいない季節。

 ――君のいない、世界。


 いつの間にか、頬に伝うのは、涙だった。


「あ……れ」


 天塚翔を自分の手で殺めた直後もその後も、明は涙を流す事は無かった。


 感情が初めから死んでいたのか、それとも殺した実感が無かったのか。


 そもそも自分には、彼女の死を悼む権利すら存在しない。だから彼女のために涙を流すことすら許されないと思っていた。


 それ、なのに。


 堰を切ったように、一度流れ始めた涙を止める事が出来なかった。今までずっと押し殺してきた感情が決壊し、とめどなく涙が流れ続けた。周りに誰も居ないのが救いだった。静かな図書室の中で明は一人、声を抑えて嗚咽し続けた。


 いったい、あと何度君を想えば、僕は、自分を許せるのだろうか。


 溢れる涙と同時に、彼女と過ごした日々の面影が、記憶の底から流れ出してくる。何も無かったはずなのに。いつの間にか自分は、彼女から大切なものを沢山貰っていたのだと気付いてしまった。零れ落ちてから始めて気付く、彼女と過ごした青春の価値と、再び空っぽになってしまった自分。全ての想い出が過去になった今、自分はこれから、どう生きていくべきなのだろうか。


 過去に答えを求めても、いつまでも正解の在処は分からなかった。


 それでもいつかは、未来に向けて歩き続けていかなければならない。


 涙を拭い、もう一度顔を上げた。天塚翔の幻は、いつの間にか消えていた。


 下校時刻を告げるチャイムの音が聞こえた。夕暮れ時は終わりを告げ、窓の外には夜の帳が下りている。明は深く息を吐くと、そっと席を立った。


「――もう、行かなきゃ」


 姿の見えない彼女に向け「さよなら」と、明は別れの言葉を告げた。


 幻でも妄想でも、天塚翔にもう一度会えたこと、それ自体が救いだった。


 自分のやるべき事。成すべき事。


 暗い闇の底に居た少年の瞳に、再び意思が灯っていた。

 

 

                  *


 雑居ビルの屋上に立つ玄崎明は、学生服姿のまま、雨降る夜の街を俯瞰していた。

 時刻は夜の八時。暗い空から降り注ぐ雨粒が都市の明かりに乱反射して、幻想的な夜景が映し出されていた。明は眼下を往来する人々を、黙って見つめていた。


 冷たい雨に打たれながら、ポケットの中の携帯電話に着信があるのに気付く。バイブレーションを鳴らすスマートフォンの通知画面には、凉城飛鳥の文字が浮かぶ。


『もしもし玄崎くん、聞こえる? ついさっき、鴉ヶ丘市中央区第二交差点付近で新たなレイブンの目撃情報が――」

「知ってる。今そこに居る」

『――もしかして、


 電話越しの飛鳥の声に、怪訝さが混じる。


「今朝からずっと、聞こえてたんだ」


 人間を獲物として探し求める、レイブンの気配。


「この街にはまだ怪物が潜んでいて、またヒトを襲おうとしている。でも、分からなかったんだ。自分が戦うことが、結局は正しいのかって」


 昨日までは何も感じなかった。けれど今朝突然、混線したラジオ回線が紛れ込むように、レイブンの気配が頭の中に這入り込んできた。獲物を前に神経を昂ぶらせ、野生動物としての本能を剥き出しにした怪物が、この街に居るのだと。


 最初の時と同じだった。聞こえてしまえばもう戻れない。


 誰かを助けられる力を持っているのに、行動しないのは嘘だと思ったから戦った。

 けど、自分が戦い続けた事で結果的に天塚翔を殺してしまったのなら、初めから戦わない方が、良かったのかもしれない。


 今でも彼女は、生きていたのかもしれない。


「でも、思い出したんだ。天塚さんの言葉を」


 天塚翔の心臓に刃を突き立てたその時。


 死に際の彼女は明にこう告げた。


「天塚さんは言ったんだ。『きみの優しさで、もっと沢山の人を救ってあげて欲しい』って。僕の力は、彼女から貰ったものだ。彼女が出来なかった事、彼女が望んでいたことを、僕が代わりに受け継ぐ。僕に出来ることは、きっとそれくらいだ」


 スノーホワイトに救われた玄崎明は、レイブン・ブラックシャドーとして第二の人生を得た。明を救った翔は、その事を全く覚えてはいなかった。本来ならばレイブンの繁殖行動は遺伝子レベルで抑制されている。スノーホワイトが明を蘇生させた行為はレイブンとして不合理な行動だと、かつて古嶋晴臣は語っていた。


 ――だが、もし。


 瀕死の彼女がレイブンにより蘇生された事を知っていて。


 その上で玄崎明という個人を認識し、天塚翔自身の意思で、寄生体を分け与えることで、玄崎明の命を救ったのなら。


「僕は英雄ヒーローにはなれない。けれど、まだ全てが終わってないのなら、こんな僕にもまだ、出来ることがあるのなら」


 度を超した妄想だと言うのは分かっている。

 でも、自分は天塚翔に助けられたと、そう思わずには居られなかった。


「レイブンとして戦う。それが僕に残された、最後の責任なんだと思う」


 天塚翔の遺した意思と、与えてくれた力。それをもう一度使うと決めた。

 世の中に蔓延り続ける闇を狩る為に、再び自らを漆黒の影と化す。


「だから飛鳥。僕にもう一度教えてくれ。奴らとの、戦い方を」

『――明、くん』


 一人では戦う事は出来ない。眼下の街に広がる闇は予想だにしない巨悪を孕んでいる。何処までも続く深淵に身を投じるならば、深淵を知る者の導きが必要だった。


『ありがとう。今度こそ、明くんだけに重荷を背負わせない。あなたの決意を、今度こそ無駄にはさせないから』


 電話が切れる。同時に明のスマートフォンに送られてきたデータには、飛鳥が収集した目撃例から分析されたレイブンの詳細なデータが添付されていた。


 僕はもう、ひとりじゃない。

 目を閉じ、耳を澄ます。


 ――鼓動が、ひときわ大きく聞こえた。

 何かが起きる、予感だと思った。


 眼下に斃すべき標的を認識する。|大蜥蜴型のレイブン――タイプ・リザード。メトセラ製薬から脱走した実験体のうちの一体が、繁華街の表通りから外れた路地裏で、少女を追い詰めていた。


 数か月振りに姿を現したレイブンは相当腹を空かせているのか、手負いの獲物を前に粘ついた唾液を滴らせている。制服姿の少女は足を挫いてしまっているのか、アスファルトの地面にへたり込みながら、怯えた表情で少しずつ後ろに下がることしか出来ない。


 明は躊躇無しに、ビルの屋上から眼下の暗闇へと飛び降りた。

 逆さまの体が都市の虚空に解き放たれる中、明は重力に体を委ねた。

 一直線に風を切る自由落下のその最中。


装殻レイブン


 ――再び、自らが忌むべき怪物の名を喚んだ。


 空中で呟いた直後、玄崎明の全身が、鴉羽色の甲殻に包まれる。着地と同時に振り降ろしたブレードが、蜥蜴姿のレイブンの右手を一瞬にして斬り飛ばした。


 ――最初は、良く分からなかった。


 この街には怪物が居て、都会の闇に潜みながらヒトを襲い続けているという噂。

 何の取り柄もなかったはずの僕が、レイブンに変身出来るようになったこと。

 けれど、今ならその理由が、何となく理解出来るような気がした。


 琥珀色の眼光が、目の前の怪物を明確な意思で睨み付けた。


 レイブン対、レイブン。


 異形と異形が向かい合う路地裏に、不規則な雨音だけがまばらに響いていた。暗闇そのものが騎士の輪郭を形取ったかのような黒き怪人は、唖然とする少女を守護するような構えにて、自らが敵対するものの前に立ち塞がった。

 

 ――彼の名は黒き影。

 都市伝説の怪物。

 レイブン・ブラックシャドー。

 少年は再び、漆黒の狩人になる。


             




EPISODE:FINAL /Ω:RAVEN


――FIN.

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Ω:RAVEN/オメガレイブン【完結済み】 零井あだむ @lilith2nd

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