EPISODE:13 きみの英雄になりたかった/You are (not) HERO.

 いつの間にか、冷たい雨が降り注いでいた。


 全速力で飛ばしたバイクを路上に停め、凉城飛鳥は急いでヘルメットを外した。


 スノーホワイトを追う玄崎明とは別行動で飛鳥が向かったのは、メトセラ製薬の職員である天塚丈一郎の自宅だった。鴉ヶ丘市においてはさほど珍しくも無い閑静な住宅街に並ぶ、二階建ての庭付き一戸建て。玄関の前にバイクを停めると、正面の門扉から堂々と侵入。庭に回り、窓からリビングを覗く。


 家の中は真っ暗だった。時刻は夜の九時を過ぎた頃にも関わらず、二階にも明かりが付いている様子はない。人の気配が認められないのを確認すると、飛鳥はガラス窓にガムテープを貼り付け、SUREFIRE製コンパクトライトの先端で数回突いた。


 割れたガラス窓の穴から手を入れて、内側からそっと鍵を回す。警報装置が鳴る兆しは無かった。それはつまり、飛鳥がシステムに仕掛けた妨害が成功している何よりの証拠だった。警報機の不調に気付いた警備会社の職員がここに到達する時には、ちょっとした空き巣の痕跡以外は何にも認められないだろう。


 息を潜めながら、飛鳥はホルスターから愛用のベレッタPx4 Stormを引き抜く。同時に、ベルトポーチから取り出した減音器サプレッサをバレルに切られた螺旋に捻子込むと、逆手の状態で持ったライトと拳銃を握った右手を交差させた状態で、飛鳥は天塚家に踏み込んだ。


 猫のように気配を殺しながら、リビングを忍び足でゆっくりと歩く。フラッシュライトが照らす室内は一見、平凡な生活感に満ちているように思えた。


 


 階段を登り、二階へと辿り着くと、飛鳥は書斎のドアノブへと手を掛けた。普段は施錠されている様子だったが、半開きの扉からは異様な臭いが漏れ出ている。ここに何かあるのは間違いないと、意を決した飛鳥はそっとドアを開いた。


「……っ!?」


 予想は的中した。扉の向こうには、


 恐怖で凍てついた表情で、丈一郎は白濁した目を見開いたまま絶命していた。白衣を纏った全身は無残にも切り裂かれ、大量の血飛沫が書斎の至る場所に飛散していた。学術書で埋め尽くされた本棚に背中を横たえた状態で事切れている丈一郎の右手には、二つ折り式の携帯電話が握られており、今際の時に誰かに連絡しようとした形跡が見受けられた。


 窓は開け放たれており、付近には白い貝殻のような破片が散乱していた。おそらく犯人はそこからに違いない。


 ――遅かった。と飛鳥の表情が青ざめる。


 飛び散った血液が黒く変色していることから、死後数時間は経過しているように見えた。争いがあった痕跡か、周囲は滅茶苦茶に荒れており、プリントアウトされた研究資料が部屋中に散乱していた。電源が付けっぱなしのラップトップPCが暗闇の中モニターを淡く光らせる中で、飛鳥は丈一郎の近くに落ちていた、乾いた血痕が付着した冊子を手に取った。


 表紙に大きく記載された文字に、飛鳥は首を傾げた。黒塗りで太くプリントされた、二十四番目のギリシャ文字。


「……?」


 血塗られた表紙に際立つ『Ω』の文字。飛鳥がごくりと息を呑んで冊子を開くと、中には衝撃の事実が書かれていた。ページを捲る度に事件の真相が紐解かれていくと同時に、認めたくない現実が波濤のように、飛鳥の常識を叩き壊していった。


 消去法で考えれば、答えは明白だった。天塚丈一郎が殺害されている今、スノーホワイトに変身出来る人間の候補は他に居ない。そして飛鳥が目を通している冊子には、彼女の考えを裏付ける全ての回答が記されていた。


 度重なる人体実験の記録。日付が進むごとに変化していく被験者を観察した様子がつぶさに記録され、幾度と無く繰り返された非人道的な実験とその結果が、鮮明な写真付きで載せられている。


 被検体はマウスやモルモットでは無く、生身の人間であった。


 研究者の名前は天塚丈一郎。


 そして被験者の名前は天塚翔あまつかつばさ


 ――紛れも無く、玄崎明のクラスメイトだった。


 運命の歯車は、最初から残酷な方向に回り始めていた。


「玄崎くん……っ」


 今、彼は瀕死の体に鞭打って、逃げ出したスノーホワイトを追っている。


 二人は最初から引き合う定めなのだとすれば、最後もきっと同じ場所に行き着くはずだ。どちらかが消え去るまで、両者は互いを認め、そして否定し続ける。


 まだ間に合うと信じて、玄崎明の携帯番号を呼び出した。


「お願い、お願いだから――」


 飛鳥はスマートフォンを耳に押し当てた。彼女の悲痛な呟きをよそに、幾度となく鳴り響くコール音は、ただ虚空へと空しく消えていった。


                  *


 瀕死の体を引き摺って、玄崎明は斃すべき敵を追う為に、夜の街を走り続けていた。度重なる戦闘と肉体変異、幾度と無く死線を潜った戦闘は、確実に明の肉体にダメージを与えていた。全身の傷口は、未だ塞がらないまま血を流している。一歩足を進める度に全身に激痛が走り、意識が遠のきそうなほどに視界が霞んでいた。


 それでも明は再び立ち上がった。追うべき敵の気配はすぐそこに。スノーホワイトの正体を確かめるまで、明はどうしても、止まるわけにはいかなかった。


 痛みと疲労で朦朧としながらも、最悪な考えが頭に憑いて離れなかった。考えれば考える度に、嫌な予感は現実味を帯びていく。もし、が、スノーホワイトの正体が彼女だったとすれば、全ての辻褄が合う事に明は気付いてしまっていた。


 どうしてスノーホワイトが、飛鳥と晴臣の監視から逃れられたのか。


 どうして、何度も機会があったにも関わらず、僕を殺さなかったのか。


 病弱で休みがちだった彼女と、学校で良く出会うようになったこと。


 以前は付けていた眼鏡を、最近は掛けなくなっていたということ。


 放課後は誰の誘いにも乗らず、逃げるように、どこかに向かっていたこと。


 校門を過ぎると、見慣れた景色が、目の前に広がる。


「……天塚、さん」

「やっぱり、来たんだ。玄崎くん」


 見慣れた学校の校舎を背に、彼女はいつもと変わらない制服姿で立っていた。本降りになり始めた雨の中、白い電灯が幽霊のようにぼんやりと、雨に濡れた彼女を照らす。


「どうして。どうして、君が」


 今更もう、そんな問いは意味を成さない。


 それでも、明は口に出さずにはいられなかった。


 ――いったいなぜ、天塚翔きみが、ここにいるのかと。


「……どうしてって、やだな。ここに来たって事は、もう全部、分かってるんじゃないの」

 つばさの着ているブレザーはもはやボロボロで、所々に血が滲んでいた。脇腹の裂傷が膨れ上がり再生の兆しを見せるが、しかし先ほど撃ち込まれた細胞死アポトーシス促進剤の影響か、盛り上がった組織は皮膚に定着せず、瘡蓋代わりの白い破片と共に、脆い肉片がぼろぼろと零れ落ちた。


「分かってるって、何が」

「私がレイブンだってこと。でも、私もびっくりしてるんだよ。そう言う玄崎くんも、私と同じ、レイブンだったなんて」

「……君は、気付いてたのか」

「ううん。気付いたのはついさっき。だから私も凄く、驚いてる。どうしてだろう。なんでだろうって何回も考えたけど、結局よく分からなくなっちゃって」

「――僕をレイブンにしたのは、君の仕業、だろう」

「……ああ、そうなんだ。ごめんね。変身している間のことは良く覚えてないんだ。お父さんが言ってた。変身中に自我を保てるレイブンこそが最強の存在だって。だから、私みたいな出来損ないよりも、黒いアイツのほうがずっと優等生なんだって」

「っ――お父さんが、君をそうしたのか」

「そう。私ね、お父さんに殴られた時にみたいで、でもお父さんが投与してくれたお薬のおかげで、私はまた、生き返ることが出来たんだ。それからだよ。私がレイブンに変身出来るようになったのは」


 ――そうか。そういう、事だったのか。


 今更、翔の言葉を理解した自分が、心の底から愚かだと思えた。親に殴られただけで、たまたま死ぬなんて有るわけないだろう――明はメトセラ製薬の研究施設で培養槽に入れられていた少女の姿を思い出す。天塚丈一郎は人を人と思わない研究者連中の代表だ。血の繋がらない連れ子なんて都合のいい実験動物も同然。天塚丈一郎のモルモットにされた彼女は、放課後の毎晩、白きレイブンに姿を変えていたのだ。


「なんで、何で君なんだ。どうして君みたいな、普通の女の子が」


 でも解らなかった。理解出来なかった。

 彼女のような――天塚翔のような、普段は大人しいはずの女の子が、どうして夜な夜な、レイブンを殺す為に戦い続けられたのか。


「分かんないよ。でも玄崎くんも同じじゃない? きっと理由なんてものはどうだっていいんだよ。よく覚えてないけど、私が変身できるようになって、怒ってばかりいたお父さんは凄く優しくなったもの。私は、それでいいと思ってた」


 明は唇を強く噛んだ。薄皮が破れ、口の中に血の味が滲んだ。


「だから私は戦ったの。この町には悪い怪物たちが居る。お父さんの会社から脱走した怪物が、ヒトを殺してるんだって。だから、私に止めて欲しいって。


 ああ――そうか。

 ようやく、合点がいった。

 結局、


「でも――いつの間にか、玄崎くんまで巻き込んじゃってたんだね。私、抜けてるからかな。また間違えちゃった」


 ごめんね。と自嘲気味に笑うつばさ


「違う。君は僕を助けてくれた。君のおかげで、死んでゆくだけだった僕の人生に、もう一度生きる理由が生まれたんだ」


 今まで、自分には何も出来ないと思っていた。

 勉強も運動も出来なければ、特に面白い話が出来るわけでもない。


 でもレイブンに変身出来る能力を得てから、誰かを助けられる力を手に入れたと思った。自分に起きている体の変調よりも、人の助けになれる事が嬉しくて、自分が傷付くことも厭わずに、ひたすらに戦い続けた。


 

 ――けれど、君のこんな姿を見るために、僕は戦っていたわけじゃない。


「お父さんが言ってた。私たちふたりは全ての始まりアルファであり、そして究極の存在オメガなんだって。これから先の未来に凄い事が起きて、世界が滅茶苦茶になっても、最後に生き残るのは私たちなんだって」

「……そんな事どうだって良い」

「大昔にも、お父さんが言う『凄い事』が起きて、沢山の人が死んだんだって。教科書には載ってないけど、それは本当にあった出来事で、それでも最後まで生き残ったヒトが居た。今の私たちと同じ。レイブンが、憑いていたお陰で」


 私たちはそれを元に生まれたんだよ――と、翔は言う。


「聞きたくない。そんなの、信じられない」

「だから、私はまだ、生き続けないといけない。まだ他にもレイブンが沢山いる。私がレイブンを殺し続ければ、いつかきっと、究極の存在になれるから。そうすれば、いつか沢山の人を救えるんだって」


 翔の発言はあまりにも矛盾している。ヒトを救う為にレイブンを殺して、自分が生きる為にヒトを喰らい続ける。もはや天塚翔が人間として、元より生物として生きる有り様が根本から破綻し始めているのだと、明は気付いてしまっていた。


 冷たい雨と脇腹から零れる血が合わさって、翔の足下に赤い水溜まりが出来る。彼女の綺麗な黒髪の先から、ぽたり、ぽたりと雨粒が滴っていた。


「だから私は生きなきゃいけないの。私のせいで沢山人が死んで、今更後戻りなんてできないから。帰る場所だってどこにも無い。だから、玄崎くんには悪いけど――」

「――違う。もう君がそうやって、無理する必要なんて、どこにも無いんだ」


 最初から君が戦う必要なんて、無かったのに。

 誰にでも優しくて、僕みたいな人間に心からの笑顔を向けてくれる君が、これ以上頑張る必要なんて、何処にも無かったのに。


「君のせいなんかじゃない。全部君のお父さんと、君の中にいる白いレイブンスノーホワイトのせいだ。だから、君は最初から、悪くなんてない」

「……玄崎、くん」


 当惑した表情で、翔は明の目を、見つめていた。


「ありがとう、やっぱり玄崎くんは、優しいんだね」


 こんな状況にも関わらず、翔はにっこりと、懐かしい表情で笑った。

 そうだ。僕は君のこんな笑顔が愛おしくて、君を好きになったんだっけ。

 降りしきる雨の中、芯まで冷え切った体が、不思議と暖まるような気がした。


 それでも。

 僕は君に、言わなければいけない。


「――でも」


 二人の存在自体が罪なのならば。

 生き残ることそれ自体が咎なのかもしれない。


「――それでも、駄目なんだ」


 だから僕は、きみの英雄になりたかった。


「きみは、レイブンだから」


 英雄として、誰かを救いたいと思っていた。誰かを救える人間になれたら、それはきっと、素敵なことだと思っていた。


「これからも君は、人を殺すんだろ」


 胸の内から絞り出すように吐き出した問いかけに、翔は返事をしなかった。

 無言。それが確かな答えなのだと。明は瞼を伏せて、そう受け止めた。


「きみが人を殺し続ける限り、きみが白いレイブンスノーホワイトである限り、僕は、僕は君を――」


 でも、英雄になるなんて、結局叶わない夢なのだ。英雄には程遠い、自分のような怪物にんげんに出来ること。


「殺さなくちゃいけない」


 止めなくちゃならない。

 例え命を、奪ってでも。


「……そっか。うん、そうだよね。玄崎くんがレイブンなら、しょうがないか。だって私が、そうさせたんだもの」


 全てを諦めたような表情で、翔は自嘲気味に笑った。

 もし本物のヒーローがいたならば、そんな彼女のことを救ってあげられたのだろうか。正義の味方は悪を倒し、世の中に平和の光をもたらす。でも、現実にヒーローなんて存在しない。彼女の元には英雄は現れなかった。救われなかった彼女だから、せめて最後くらいは、僕がやらなければいけない。


「じゃあ、早く終わらせないと」


 天塚翔は玄崎明に薄く、微笑んだ。


 明は強く歯を食い縛ると、学生服の内ポケットをまさぐり、戦闘前に晴臣に渡されていたペン型注射器を取り出した。 


『対レイブン用細胞死アポトーシス促進剤の開発過程で生まれた細胞賦活剤だ。これを投与すれば通常時のおよそ二倍以上の時間、君のレイブン化能力を維持出来る。けれど副作用は甚大だ。これを使えば最後、きみはもう、人間ではなくなるかもしれない』


 ――それでも、君が戦うと言うのなら。


 警告する晴臣の声が、脳裏に響いた。

 賦活剤が充填された注射器を震える手で握り、剥き出しの針を勢い良く腹に突き立てる。どくん、と鼓動が大きく鳴り響いた直後、体の内側が燃えるような熱を放つと同時に、全身の傷が瞬く間に治癒していく。急速に潮が引いていくかのように痛みが掻き消され、頭の中が透明クリアになっていく。


 瞼を閉じ、再び開く。

 空になった注射器を、無造作に投げ捨てた。

 これは覚悟だった。


 目の前の少女を、忌まわしき運命の歯車から解き放つ為の決意。


 例え自分が終わってしまったとしても、せめて彼女だけは、天塚翔あまつかつばさだけは、何としても止めなくちゃならない。


 彼女を彼女として、化け物レイブンでは無く人間として終わらせる為に。


 もうこれ以上、罪を重ねさせないために。


 殺さなくちゃいけない。

 ――救わなくちゃ、いけない。


 勝ったとしても、負けたとしても。いずれにせよこれが、最後の変身になると理解していた。ならばせめて、君にだけは見ていてほしい。


 僕の――


「――装殻レイブン


 常夜の闇全てがヒトの形をした影に凝結し、玄崎明を再び、漆黒の騎士と変化させる。明の変身を見届けたつばさは、全てを理解したように微笑んで、


装殻レイブン


 片翼の天使へと、姿を変えた。


 漆黒の影ブラックシャドー純白の雪スノーホワイト


 互いに見つめ合う琥珀色の眼球が、赫色あかいろに塗り変わる。

 交錯する二人の目線が人であることを喪くした瞬間が、即ち始まりだった。


EPISODE:13


You are (not) HERO.

 

 それは、戦いというより、もはや潰し合いに近かった。


 玄崎明/ブラックシャドーの刃は中心から折れていた。

 天塚翔/スノーホワイトの片翼は既に羽ばたく力を無くしていた。


 互いに刀折れ矢尽きた満身創痍の状態で、陰陽相克する両者が、冷たい雨が降り注ぐ中でただ、殴り合っていた。


 身に纏った甲殻が弾け飛ぶ度に、地面に鮮血が飛び散った。もはや干からびた井戸から無理矢理に水を汲み出そうとするように、二人はもはや、自らの内側から湧き出てくる本能のみを昂らせ、相手の存在を否定し合う為に殴り合っていた。


 片方は生きるため。

 もう片方は殺すために。


 本来ならば同一であるはずの両者にも関わらず、一体どうして、殺し合わなければいけないのか。そんな疑問は、既に二人にとってはどうでも良かった。


 もはや痛みなど感じない。全身に響き渡る激痛さえも無視した状態で、ただ盲目的に潰し合った。生きたいと純粋に願う彼女を否定してでも、悪夢の連鎖を止めなければいけないという明の信念が、彼の体に、何度でも立ち上がる力を与えた。


「――っぐ、あ……!」


 明が苦悶の声を漏らす。スノーホワイトの拳が、ブラックシャドーの顔面にめり込んだ。左頬に命中した拳は、もはや強固さを失った甲殻を易々と砕き割り、その下にある明の素顔を露出させた。一方で、自らの顔を打たれながらも即座に反応した明がクロスカウンターの要領で放った拳も、同時にスノーホワイトの顔面を穿っていた。


 互いによろめき、ふらついて後退する。頭部甲殻が破壊され、兜の下の素顔を曝け出した二人が同時に浮かべた表情は、不思議なことに笑顔だった。額から血を流し、見つめ合う赫色の死線。一歩引き下がればその先に明確な死が待ち受けているにも関わらず、二人が口元から漏らしたのは、


「――は、は」

「ふ、ふ……っ」


 笑い声だった。


 今まで、誰にも理解されなかった。これと言った取り柄も無く、人に好かれる愛嬌も無い。肉親にも見捨てられた無価値な子供が、唯一手にした存在理由レゾンデートル。化け物に変異しつつある自分の肉体に怯えながら、怪物レイブンとして戦う能力を、誰よりも自分たちが必要としていた。


 解ってくれる人なんて要らない。必要としてくれる人が居ればそれでいい。結局、自分たちはどこまでも孤独な存在だと思っていた。でも、それは違っていた。何度も命を遣り取りし合った二人だからこそ、生と死の狭間で分かり合える何かがあった。


 ――僕たちは/私たちは。

 互いを理解しているがゆえに。

 互いの存在が、赦せない。


 二人は満身創痍の状態で、再び面と向かって見つめあった。


 息も絶え絶えの死に体で、お互い最後の気力だけで立っている状態だった。


 翔の拳が、明の下腹部にめり込む。大量に血を吐き出しながら、もんどりうって地面に倒れこむと、変身が自動的に解除された。全身の甲殻を喪失した、もはや剥き出しの生身に防御手段は無い。咳き込みながら何とか立ち上がる明だったが、翔はこの絶対的な好機を見逃さなかった。


 これで終わりだと、翔は最後の全力を振り絞り、崩壊寸前の肉体に鞭打った。

 片翼の天使が、急速に迫り来る。


 しかし。


「か、は」


 玄崎明は、最後まで立っていた。


「――僕の勝ちだ。天塚さん」


 明の右腕から伸びた刃が、深々と翔の左胸を貫いていた。心臓を寸分違わず穿った切っ先は、彼女の背中から黒光りする先端を露出させ、鮮やかな紅色に濡れていた。


「……ああ。これは私の、敗北まけ、かな」


 敢えて変身を解除した状態で、残った体力全てを遣い放った捨て身の一撃。全身の甲殻全てが凝結した剥き身の刃は、確かに天塚翔の心臓を、迷いなく貫いた。


 拍動と同時に漏れ出る血液が、明の体を暖かく濡らす。明は深く息を吸い、更に傷口の奥へと、捻るように右腕を突き刺した。漆黒の怪人ブラックシャドーの手ではなく、他でも無い、玄崎明じぶん自身の手で。


「か、はっ」


 翔の口から、赤黒い血が吐き出された。力を無くした彼女がよろめくと、突き刺した刃がずるりと、血の痕を残し引き抜かれる。地面に倒れ込んだ翔の身体を、明はそっと受け止めた。想像よりもずっと軽い彼女の体重を感じながら、命の灯火が消えゆく様を、抱きとめたこの身で直接感じていた。


「……最後まで優しいね。玄崎くん。さすが、私を倒すだけ、ある」


 翔が伸ばした手は行き場をなくし、力無く虚空を彷徨う。

 明はその手をそっと握った。


「違う、僕は、優しくなんか、ない」


 右手の刃を血で濡らし、左手には君を抱いて。

 怪物でありながら正義を気取る自分を、彼女は優しいと言ってくれた。せめて死に際くらい、呪い言葉の一つや二つ吐いてくれても良いのに。こんな優しい君が、どうして僕なんかに殺されなければいけないのか。


「……今度はその優しさを、みんなの為に使ってあげてよ。私なんかじゃなくて、もっと、もっと沢山の人を救ってあげて。玄崎くんの、力で」


「違う。僕はただの偽善者だ。誰かを助けるだなんて出来やしない」


 君ひとりの命を救えない僕が、一体誰を救えるというのか。


「ううん。玄崎くんなら、できるよ。だって、私が見込んだ人だもん」

 怪物レイブンではなく、人間ヒトとしての手で。誰でもない玄崎明ぼくが、君を救ってあげたかった。


「僕は、僕はただ」


他の人間なんてどうでも良かった。

きみだけの英雄になりたかった。

それはあまりに純粋な、単純すぎる理由で。


「僕は、きみのことが――」


 もう届かないと知りながら、最後の想いを翔に告げた。もう耳が聞こえていないのか、彼女からの返事はなかった。代わりに、薄紅色の唇が、ほのかに蒼白く色褪せる頃、確かに彼女は、明の目を見てほんの少し口角を上げた。


 瞼を閉じた翔に、明はそっと口付けた。失われゆく彼女の温もりを感じながら、もはや届くことのない想いを込めた接吻は、儚げな鉄の味と、冷たい死の香りがした。


 一番大好きな人に向けた、最初で最期の口づけファーストキス


 唇を離すと、彼女の鼓動は、終わりを告げた。


 天塚翔はもう目覚めない。彼女の声は、もうどこにも聞こえない。


 翔の体から、最後の甲殻が剥がれ落ちた。


 白雪姫の寝顔のように、再び瞼を開けて話し出しそうな、安らかな死に顔だった。これがおとぎ話なら。王子様が居たのなら。果たして彼女は救われたのだろうか。


 ――分からない。何が正しかったのか、どこで間違えてしまったのか。


 いつまで経っても、答えは出ない。


 せめて、冷たい雨に天塚翔の優しさが奪い去られてしまわないように。


 明は傷だらけの体で、もう一度彼女を抱き寄せた。


 永遠に降り止まない雨が、二人の温もりを奪っていく。いつしかずぶ濡れになった明の背後で、バイクのエンジン音が響いた。


「――玄崎、くん」


 全てが終わったことを察した飛鳥は、何も言わず、その場に立ち尽くしていた。


「……飛鳥」


 最早物言わぬ少女を抱いて、明は憔悴しきった表情で振り向いた。


「ごめん。もう少し、私が早く気づけていれば」


 自分の言葉に、もはや意味などないと分かっていた。それでも飛鳥は、玄崎明をこのような結末に陥れてしまったことの責任を、痛いほど胸に感じていた。


 彼の一番大事な人の命を、他でもない彼自身の手で、奪わせてしまった。


 自分が持つべき十字架を、玄崎明という少年に背負わせてしまった。


「――あなたに、こんな辛いことを、させる必要はなかった」


 喉を震わせる飛鳥の声も、今の明には届かなかった。


「もう、分からないんだ」


 既に物言わぬ骸と化した少女を抱きながら。


 あまりにも無感情な声色で、明は呟く。


「一体、何が正しかったんだろう。僕は、どこで間違えてしまったんだろう」


 ――僕はどうすれば、彼女を救えたんだろうか。


 不思議と、涙は流れなかった。悲しみを挟む余地もなく繰り返される疑問が、ただ頭の中で廻り続けている。


 降りしきる雨の音だけが、冷たい沈黙の中で聞こえていた。


EPISODE:13 End.

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