▷6歳 天使のように無邪気な息子
和室の布団に潜り込んでいたあたしの耳に、ぽんぽんと襖をノックする音が聞こえてきた。
「史桜、帰ってきてるんだろ? 病院どうだった? ギプスは取れたのか?」
うたた寝から目覚めた昂輝さんがあたしの帰宅に気づいたようだ。
「うん……。取れました……」
「ならちゃんと腕を見せろよ。リビングで待ってるぞ」
スリッパの足音が遠のいてから、あたしは布団からのそのそと這い出た。
鏡で自分の顔をチェックする。
泣いた目元はまだ少し腫れぼったいけれど、これくらいならごまかせるかな。
それから、仏壇に飾られた写真の女性に頭を下げる。
優香さん、あなたになりすましてごめんなさい。
あなたのことはよく知らないけれど、昂輝さんが大好きだった人だもの。きっと彼の新しい恋をあなたも応援していますよね。
▷
「あっ! しおちゃん、ただいまー!」
「澄晴くんおかえり! 遠足楽しかった?」
リビングに入ると、リュックの中身を出していた澄晴くんが顔を上げた。
「うんっ! めっちゃ楽しかったー!」
「澄晴、汗や土で汚れてんだから、さっさと風呂入れよ」
「はーい」
「史桜、ギプス取れてよかったな。けどまだ右手はあんまり使えねーだろ? お前も澄晴と風呂に入って背中洗ってもらえ」
「はーい」
「俺は今から夕飯の買い物に行ってくる。風呂から出たらそこの洗濯物を二人でたたんでおけよ」
グリーンのエプロンを外しながらキッチンから出てきた昂輝さんが指をさす。
その指の先には、三日分の洗濯物がこんもりと山積みにされていた。
「えー? ギプス取れた途端にこき使うんですかあ?」
「リハビリさせてやるんだから人聞きの悪いことを言うな! 上手くできないところは澄晴に手伝ってもらえよ」
お財布を持った昂輝さんが玄関に向かっていく。
さっきの寝言はまるで覚えていない様子にほっと息をつき、あたしは澄晴くんと浴室へ向かった。
▷
夜、澄晴くんと一緒にゾロリを読んでいたらいつの間にか寝落ちしていて、ふと目が覚めたあたしはそっと子供部屋を出た。
真っ暗な廊下に、昂輝さんの自室の明かりだけがドアの隙間から漏れ出ている。
ノックをすると「はい」と返事が聞こえたのでゆっくりドアを開けた。
「澄晴の部屋で二人して寝てたみたいだな」
「うん。本を読んでたら寝落ちしちゃって。コーヒーでも淹れてきましょうか?」
「ああ、サンキュ」
PCの画面のライトが昂輝さんの顔を照らし、くっきりとした陰影が彼の顔の端麗さを強調している。
その横顔をずうっと眺めていたいと思いつつも、コーヒーのマグカップをデスクの隅に置いたあたしは黙って部屋を出ようとした。
「珍しいな。今日はおとなしく出て行くのか」
「昂輝さん、仕事に集中してるみたいだし、邪魔しちゃ悪いかなって思って」
彼が本気で迷惑がらないのをいいことに、あたしはよく昂輝さんが仕事している横でたわいもないおしゃべりをして過ごすことが多い。
そんなひとときが大好きなのに、あんな寝言を聞いてしまったら、あたしのことはやっぱり迷惑なんじゃないかって遠慮してしまう。
「あの……。ギプスも取れたし、少しずつ手も動かせるようになるはずだから、来週くらいには自分のアパートに戻るね」
「……そうか。まあ、俺たちに甘えて何もやらないよりは手を動かすようにした方が回復も早いかもな」
「ほんとに色々助かりました。どうもありがとう。……それじゃ、おやすみなさい」
ドアを閉めようとした時、「なあ」と昂輝さんがあたしを呼び止めた。
「今日俺が昼寝してた時……、俺のこと抱きしめただろ?」
その言葉に、口から心臓が飛び出そうになる。
昂輝さん、あの時目を覚ましてたんだ……!
「優香の代わりにでもなったつもりだったのか?」
「…………」
「お前は優香の代わりなんかじゃ……」
「わかってる! わかってるってば!」
「史桜!」
バタン! と大きな音をたててドアを閉め、あたしは和室へと逃げ込んだ。
頭から布団をかぶって丸くなっていると、すうっと襖の開く音がした。
「史桜……」
「あたしは昂輝さんよりもずっと子どもで、澄晴くんのママにもなれなくて……。そんな中途半端なあたしが優香さんの代わりになれないのなんてわかってるもん! 」
「……お前はほんっとガキだな」
「ガキで悪かったわね! 昂輝さんは澄晴くんのママにもなれるような、もっと大人の女性を好きになればいいよ!」
「馬鹿。そういうことじゃねえって」
あたしの掛け布団を昂輝さんがめくった。
泣き顔を見られたくなくて寝返りをうって背中を向けると、布団の中にするりと入ってきた彼が腕を回してくる。
「俺は優香の代わりも澄晴の新しい母親も求めてなんかいねえよ。俺が求めてるのは……史桜、お前だけだ」
「…………え?」
言葉の真意をつかみかねて顔だけを昂輝さんに向けようとしたら、ぐりんと体ごと向かされた。
そのまま彼の胸に顔を埋めるように抱きしめられる。
「俺自身もさ、澄晴には母親が必要なんじゃないかとか、でもそれを求めるのは優香に悪いんじゃないかとか、いろいろ迷いがあったんだ。けど、史桜と一緒に暮らして、家族の形にこだわる必要なんてないんじゃないかって思い始めたんだ」
「昂輝さん……」
「父親がいて、母親がいて、子どもがいる。そんな
「あたし、昂輝さんや澄晴くんとこのまま一緒にいてもいいのかな……。
あたしの肩を優しく掴んだ昂輝さんの手が、密着していた体をそっと引き剥がした。
至近距離で瞳をじっと見つめられ、抱きしめられていた時以上に鼓動が強く早くなる。
「澄晴の気持ちも同じだろうが、何より俺が史桜の傍にいたい」
「あたしも。ずっと昂輝さんの傍にいたい……」
「史桜。お前が好──」
「あー! ずるーい! パパがしおちゃんと添い寝してるー」
不満を漏らす舌足らずな声に、あたしも昂輝さんも布団を跳ね除けて飛び起きた。
「すっ、澄晴っ!? 目が覚めたのか!?」
「うん。だって、ドアがばったんって鳴ったり、『しお!』って声が聞こえたり、うるさかったんだもん」
「ご、ごめん……」
「ねえ、ボクもここで一緒に寝てもいい?」
「「へっ!!?」」
トコトコと歩み寄ってきた澄晴くんが、二人の間にするりと入ってきてあたし達を交互に見上げた。
「三人いっしょに寝れるなんてうれしいね! てんごくのママもニコニコしてるよ」
澄晴くんの無邪気な言葉に、あたしと昂輝さんは顔を見合わせてふふっと笑った。
それから、仏壇へと視線を移した。
澄晴くんの言うとおり、写真の中の優香さんはいつにも増してにこやかな表情であたし達を見つめているようだった。
▷おわり▷
▷横向きトライアングル▷ 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます