▷18歳 上京したての女子大生

「しおちゃん、今日はびょういん行く日?」


 小学校で初めての遠足に参加するべく大きなリュックを背負った澄晴くんが、マンションのエントランスを出たところであたしにそう尋ねてきた。


「そうだよ。今から大学に行って、帰りに病院に寄るつもり。いよいよ今日ギプスが取れるんだ!」

「そっか……。よかったね」


 父親譲りの淡褐色ヘーゼルの瞳を細めて微笑む澄晴くん。

 けれどその天使の微笑みが今日はどこか寂し気だ。


「澄晴くん、どうかした……?」

「あのさ……。手が治ったら、しおちゃんは自分のおうちに帰っちゃうんだよね?」

「え……っ。そりゃあ、昂輝さんや澄晴くんにいつまでもお世話になってるわけにいかないし……」

「ねえ、しおちゃんはパパが好きなんでしょ? パパのどんなとこが好きなの?」


 メジャーリーガーばりに破壊力のある直球にたじろいでしまった。


 出会ってすぐにわかったことだけれど、昂輝さんはかなり口が悪い。

 息子の澄晴くんにはもちろんのこと、あたしに対しても同居翌日くらいからすでに容赦がなくなった。

 けれども、エクスカリバーも真っ青の切れ味鋭い毒舌は、不思議なくらい嫌な気持ちにならないのだ。

 それはきっと、言葉とは裏腹な優しさや愛情の豊かさが彼の態度からあふれ出ているからだと思う。


 今朝だって、目玉焼きの最後のひと切れが左手のフォークで上手く刺せず悪戦苦闘していたところ、向かいに座る彼がそれをひょいっと自分の箸でつまんであたしの口に入れてくれた。

「もどかしくてこっちがイライラするんだよ」って言いながら。


「うーん。口は悪いけど、すごく優しいところかな……」


 小学一年生相手にコイバナするのもハズイけど、直球には直球で返さなきゃね。

 あたしが正直に答えると、澄晴くんはくすくすと笑いだす。


「パパの口の悪さってね、ボクやしおちゃんみたいに、パパとすっごくなかよしの人しか知らないんだよ。ほかの人には、パパはぜったいそういうとこ見せないもん」

「そうかなあ? 昂輝さん、あたしとも仲良しって思ってくれているのかなあ?」

「うん! ぜったいおもってるよ! だからさ、しおちゃんはずっとうちにいていいんだよ!」

「澄晴くん……」


 無邪気な澄晴くんの提案にのる形でマンションに転がり込んできたあたしを昂輝さんは受け入れてくれたばかりか、利き手の使えないあたしの世話を文句を言いつつとてもよくしてくれている。


 けれどそれは、彼が澄晴くんの父親としてあたしの骨折に少なからず責任を感じているからだ。

 昂輝さんに恋をしたあたしが毎日のように気持ちをぶつけているのに、彼はまったく取り合ってくれないもの。

 十二歳も年上の昂輝さんからすれば、あたしなんてガキすぎて恋愛対象として見れないのかも。


 それに────


「昂輝さん、まだママのことを好きなんじゃないのかな……」


 あたしが寝泊まりさせてもらってる和室には、小さな仏壇がある。

 毎朝あたしを起こす前に、昂輝さんはそこに飾られた綺麗な女性の写真を手を合わせて見つめているんだ。

 彼がその笑みを向ける相手を、あたしは他に澄晴くんしか知らない。


 愛する者だけに向けられる彼の微笑みはとびきり柔らかで、胸がきゅうんって締めつけられて……。

 布団の中で切なくなってぎゅうって目をつぶり、あたしはいつも見なかったことにしてしまうんだ。


 四つ角で立ち止まると、あたしは精いっぱいの笑みをつくって左手を振った。


「ここでバイバイだね。澄晴くん、遠足楽しんできてね!」

「うん!」


 天使の笑みを満面に浮かべた澄晴くんも手を振る。

 リュックを担いだ背中をこちらに向けた澄晴くんが、ぴたりと動きを止めて振り返った。


「しおちゃん、たしかにパパはまだママのこと好きだとおもうけど、しおちゃんのことも好きなはずだよ。パパもぜったいさびしがるし元気がなくなっちゃうから、うちに残ることかんがえてみてね!」


 そう言って走り去る澄晴くんの上下に揺れるリュックを見つめ、あたしはため息をつく。


 そりゃあ、あたしだって昂輝さんや澄晴くんとこの先も一緒にいられたらどんなに幸せだろう。

 けれど、昂輝さんの愛情が家族にしか向けられないのなら、あたしにあの柔らかな微笑みを見せてくれる日は永遠に来ないのかもしれない。


 三十歳と十八歳と六歳。

 縮められない、引き離せない、十二歳差の三人構成。

 それはきっと家族としては不自然な、横向きのトライアングルになってしまうのだから──


 ▷


「ただいまー」


 病院から戻ったあたしが靴を脱いでリビングに入ると、昂輝さんがソファに座ったままの姿勢でうたた寝をしていた。

 病院で診察を終えたあたしが「帰ります」コールをすると、仕事で不在の時以外はいつもこうしてリビングで待っていてくれて、ケガの経過を気にしてくれている。

 ここのところ毎日夜遅くまでオフィス兼用の自室にこもって仕事をしていたみたいだから、待っている間に睡魔が襲ってきたんだろう。


 ギプスの取れた手を昂輝さんに見せたかったけれど、今起こすのはかわいそうだもんね。


 あたしはその場に荷物を置くと、昂輝さんの隣にそうっと腰かけた。


 綺麗な淡褐色ヘーゼルの瞳は瞼が被さって見えないけれど、長い睫毛をしげしげと見つめながらそろそろと腕を伸ばす。


 今はどうか目を覚ましませんように。


 規則正しい寝息を立てている無防備な姿が愛おしくて、ずっと触れてみたかったさらさらしたチョコレート色の髪をそっと指で梳いてみた。


「優香……」


 ほんのりと桜色をした薄い唇が僅かに動き、甘く低い声が漏れる。


 ぎくりとしたあたしは、昂輝さんの髪をすくい上げたまま息を止めて彼の顔を見つめた。


「いいのか……? 俺…………になって……」


 睫毛が小刻みに震えるけれど、瞼が開く気配はない。

 奥さんの夢を見ているのかな。


 起きたときに目の前にいるのが優香さんじゃなくあたしだってわかったら――――


 昂輝さんの落胆する顔を見るのが怖くて、あたしは身じろぎもせずに固まっていた。


「他の女を好きになっても……お前を思い出にしても……」


 震える睫毛に滲んだ涙が、つうっと一すじ頬をつたった。


「いいのか……?」


 消え入る声に応えるように、あたしはそっと昂輝さんを抱きしめた。


「いいよ。もう苦しまないで。あなたは澄晴くんにふたりぶん以上の愛情を注いで頑張って育ててきたんだもの。もう前を向いて進んでいいんだよ……」


 昂輝さんが好きになったひとをあたしは知らない。

 けれど、それが誰であろうとも、優香さんならばきっとそう言ってあげるに違いない。


 耳元で囁いたあたしの声に安心したのか、昂輝さんは浮かびかけた意識を再び沈めるように深い息を吐いて、そのまま眠り込んでしまった。

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