雨の街
三津凛
第1話
冬のアイルランドは雨の国になる。ダブリンは雨の街になる。
私は灰色にけぶった街を歩いていた。ここはひどく寒い。足先と指先に血が通わなくなっているようだ。私は末端から氷漬けにされていくようだった。
だが私はこの陰気な街が好きだ。
最期を迎える刻は、ちょうどこんな風に陰気な街が良いと思った。
人々は傘を差さない。冷たい雨にほしいままにさせている。現世の罪に耐えるように、柔肌を穿つ雨を赦している。
それはどこか美しい。
だから私もそのままにしていた。傘を持たず、歩き続けた。
真っ黒なギネスビールと同じように、この街も、人々も、どこまでも暗い。
だがついに、私は動けなくなった。寒くて寒くて、どうしようもなくなった。
雨はまだやまない。誰も振り返らない。東洋人はどこまでも孤独だった。
ヨーロッパがEUになって、財布の中がユーロに変わってもつなぎ合わされるものは何もない。
私は神を持たない。それだから、畏れずに教会の門をくぐった。祈りも救いも何もない。
私の財布にはハープが刻印されたユーロ硬貨があるきりだった。それと引き換えに巨大な門をくぐることを赦される。
滴を垂らしながら、私は橙色の蝋燭の合間を縫う。誰かが祈っている。同じ唇で誰かを呪うこともあるのだろうかと、考えてみる。
そうして、神は等しく裁くことはあるのだろうかとも考えてみる。
私にはわからない。祈りは遠い。聖書は遠い。ラテン語は遠い。そして、神はもっと遠い。
ひと通り巡ったあとで、私はふと地下に続く入口があることに気がついた。
何人かの黒い人々がそこに入って降りていく。
雨音はまだ続いている。
私も傍を通り過ぎて行った一人の後に続いて石段を降りて行った。
橙色の蝋燭が揺れている。古い童話を思い出す。死神が地下で蓄える無数の蝋燭の群れと、哀れな男が向かい合っている。今にも消えそうな蝋燭が男の生命だった。男は寿命を延ばすよう死神に嘆願する。死神は一旦は願いを聞き入れるが直前でわざと蝋燭を取り落す。哀れな男は死神の足元に斃れるのだ。
暗いはずなのに明るく、明るいはずなのにどこまでも暗い。天使や悪魔はこういう所から産み落とされるのかもしれない。さながらここは一つの子宮のようだと私は思った。
地下墓地なのだろうか。それなのに、小さなレストランがあった。橙色の灯りがその一角だけ絵葉書に写される景色のように美しい。
私はそこでギネスビールを一杯だけ頼んだ。暗闇から伸びてくる蝋のような色の掌に、ハープが刻印されたユーロ硬貨を幾つか適当に渡した。
お釣りは返ってこない。
ギネスビールは美味しくなかった。
私は拒絶されていると感じた。
まだ半分ほど残されたギネスビールの暗闇を見ていると、石段を降りてくる無数の足が見えた。
そして、私は気がついた。降りてくるばかりでまた上がっていく人は誰もいなかった。
私にギネスビールを出した蝋のような掌がまだ私の方に開かれている。
私は急に恐ろしくなった。それなのに妙に落ち着いて不味いギネスビールを全て飲み干してしまった。ギネスビールの苦味が私の背中をここに留め置こうとするようだった。
あの掌がもう一つのギネスビールを出す前に私は地上に還らなければならないと思った。
ここは死者の国だ。冷たくて孤独でも、私は生者の国へ還らなければならない。
私は残りのユーロ硬貨を叩きつけて、一目散に石段を駆け上がった。
振り返ると、地下への入口などどこにもなかった。
掌に氷のように冷たく硬い感触があった。ギネスビールに支払った硬貨が還ってきていた。駄賃が足らなかったのか、多すぎたのかどちらだろう。
私は不意に身慄いをして、大きなくしゃみをした。
近くにいた白髪のアイルランド人が振り向いて、「Bless you」と呟いた。
雨音はまだ続いている。
雨の街 三津凛 @mitsurin12
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