一章
迷宮の扉
そもそもことの発端は、エーデム王・セリスが、ベルヴィンの姫、レイラとの結婚話を断ったことから始まる。
その話がはじめて出た時、セリスの目は一瞬宙をさ迷った。その迷いを使者に見られぬように、立ち上がると窓辺に歩み寄った。
執務室の窓辺からは、イズー城自慢の中庭が見える。
庭師たちが一生懸命、銀バラの世話をしているところだった。
エーデム族は、この銀バラのように棘をもたない。
血を嫌い、争いを好まない。戦う力など、持ち合わせてはいない。
それでも魔族同士の戦いから難を逃れてきたのは、王の力のおかげである。
王は、エーデムリングに眠る力を借りて、敵を近寄らせることのない大いなる結界を張ることができるのだ。
セリスの脳裏に暗い影がよぎる。
かつてウーレン魔族に攻められた時、前王の死が破滅的な事態を招いた。
十四年の長きに渡り、この地はウーレンの支配下となり、セリスは、はるか遠くガラル地区までの撤退を余儀なくされた。
その苦渋の日々を思えば、エーデム王族の血がどれほど貴重なものか、誰もが良く知っている。
エーデム王族のみが持つ銀の角に手をあてて、セリスはしばし考え込んでいた。
王族としてよりこい血を残すこと――これは当然のことなのだ。
「しばし……猶予を……」
セリスは、その時すぐに答えを出すことはできなかった。
古の時代、エーデム族は、空より降り立った神のごとき種族とされていた。だが、その王族は神その者だと言われていた。
エーデムリングと呼ばれる地に住み、荒れ狂う混沌から天と地を分け、生き物に言葉をあたえ、それぞれの種族にふさわしい力をあたえたという。
それは、既に歴史というにはおぼつかないもので、神話に近いものである。
しかし、実際にエーデム王族が平民とは違う能力を持っている事は明らかであり、時にその古の血が、強く表に出る者さえいるのだ。
古のエーデム族男性が皆そうであったように、王族には銀の角を持つ者がいる。そして、角を有する者の中には、エーデムリングの力を解放できる者がいるのだ。
――その血と力は、絶やしてはならぬもの。
セリスはエーデムの尊い血を大切にしている。
目立たない存在ではあるが、ベルヴィン公は、古くからブレインとしてセリスに尽くしてきた。王族としては、本流からずれているとはいえ、ベルヴィン家は残された数少ない貴族なのだ。
あのウーレン侵攻・エーデム陥落の夜、前王をはじめとする王族のほとんどが、残忍極まる殺され方をした。それゆえエーデムの大いなる血筋は、すでに途切れようとしている。
これを阻止しなければ、血は途切れ、エーデムに結界をはれる者はいなくなる。王は、王としての決断をしなければならなかった。
だから、この結婚は決まったも同然だった。
それにもかかわらず、王はこの話を断った。ブレインたちの驚きは、計り知れないものがあった。
数日間、さんざん悩んだ末に、セリスは自分の心に従ったのである。
セリスの決断は、内密にしていたにもかかわらず、あっという間に噂となり、イズーの街を駆け巡った。
「やっぱり、本命はエレナ様だよ」
「うん、やっぱりね。王家の血筋より英雄の娘ってところか……」
今やホルビンといえば、平民出身でありながら、王の信頼を得て将軍にまで上りつめた男だ。平民にとってみれば、憧れの的であり、貴族などよりも人気があった。
ブレインたちが気にとめるほど、平民は血統を重んじてはいず、むしろ王と平民の娘のロマンスをひそかに応援しているふしさえあった。
貴族には意外なことであっても、庶民には当然と受け取られたのである。
長年、ブレインとしてエーデムを支えてきたベルヴィン公は、人の噂など気にしない。しかも、王の気持ちをよく知っている。
そもそも、この縁談話がブレインの中で盛り上がってしまったのは、王が平民であるエレナとの結婚に躊躇し、迷い、先延ばししていたからなのだ。
これ幸いと、エーデムの血を重視する一派が気の弱いベルヴィンを説得にかかり、ついに断れなくなった。まだ娘に結婚は早すぎる、それに王妃とは荷が重すぎる、と思っていたベルヴィンにとってみれば、王の判断はむしろほっとしたほどである。
しかし、当の本人、レイラ姫にとっては屈辱的なことだった。
レイラ・ベルヴィン。
わずか十四歳。しかし充分に美しい。
砦生まれの砦育ち、エーデム陥落の苦悩など知らない。
砦の比較的上層に住み、何不自由ない生活をしてきた少女が知っていること。
それは、エーデム王がとても美しい青年であるという事実である。
レイラは、近寄りがたいほどの威厳を持ったこの青年に、幼い頃からあこがれていた。
砦の支配者であり、エーデムの摂政――常に従者を二人従えて歩く長身の青年、セリス・セルディン。
思い起こせば、七歳の頃。砦を視察する摂政の前で、道を開けようとした民衆に押されて、レイラは見事にこけて泣き出した。
当時二十歳そこそこの摂政は、自ら少女を抱き起こし、少女の涙をふいた。
鮮やかなほどの緑の瞳、少女の目線になろうとして膝まずいた長身、立っていても床に届きそうな銀髪は、少女の足元で波打った。
柔らかな微笑みに、レイラは自分の王子様をみつけた。
この時、摂政・セリスがどんな苦悩を背負っていたかなど、不幸を知らない少女が知りうるはずもない。
少女らしい純粋な心で、レイラは恋に落ちたのだ。
やがて時代は流れた。
摂政・セリス・セルディンは、前王・ファウルの子、セラファン王子を擁して決起し、砦を後にした。そして激しい戦いの末、長年ウーレンに支配されていた首都・イズーを奪回し、エーデムの地をエーデム族のもとに取り戻した。
晴れてここに、エーデム王国の復活を果たしたのである。
そして、憧れの王子様が王位に着いた後、父が一つの提案を持ってきた。
レイラは舞い上がった。
エーデム王妃となる。セリス・セルディンと結婚する。
少女は夢をかなえようとしていた。しかし……。
憧れの王子様は、なんとその話を断ってきたのだ。
レイラのショックは大きかった。
挫折を知らない貴族の姫である。レイラは、寝込んでしまった。
何日もベッドの中でぐずぐず泣いては、鏡で自分の顔を確かめた。
大きな緑の瞳。ちょっぴり鼻は低めだけど、何の非もなく愛くるしい。誰もがかわいいといってくれるし、充分自分でも見た目には自信がある。
――なのにいったいどういうわけ?
これほど長い間、あこがれて思いつづけてきたのに。
……あなたへの思いは誰にも負けないのに!
何がいったい悪かったの?
泣いても泣いても答えは出ない。
そこに聞こえてきたのが、セリスとお付女官・エレナとのロマンスだったのだ。
プライドが高い少女の悲しみは、あまりにも簡単に憎しみへと変化した。
エレナは質素で目立たない存在だが、すらりと背が高く、長身のセリスとはバランスがとれている。みかけでは、確かにセリスとつりあうかもしれない。
でも、所詮は使用人の分際。
レイラには納得できなかった。
エレナの父親のホルビンも、今は将軍と言われているが、もとをただせばたかが平民。家柄ではまちがいなく見劣りする。
そもそも、数少ないエーデム貴族の血を引くベルヴィン家と比べるほうが間違っている。
しかも、エレナはエーデム族の女としては晩婚の二十四歳である。
いったい、この後何人の王子を生めるのか? 平民の血であるから、もしかしたらリューマ族のようにぽんぽんと子供を生めるのかも知れない。だが、有角の王子が生まれる可能性は極めて少ない。
それに、王族ほどの寿命もないはずだ。平民は王族と比べると、半分ぐらいしか生きられない。子供を為せる時期は短い。
――それに、貴族としての振る舞いだって。
レイラは、一度だけ公式の場でエレナを見たことがある。
セリスの誕生日を祝う会だった。当時、政治的な意味合いもあって、セリスにしては珍しく、派手なパーティだった。
各国の重要人が招かれていたのに、エレナは隅で小さくなっていた。父親の影に隠れるようにして……。
エレナには、貴族らしい振る舞いのひとつも身に付いていない。ダンスひとつさえ踊れない女なのだ。背が高いだけに、余計惨めに見えた。
レイラのイライラはつのる。
なぜ、セリスが彼女を選ぼうとしているのか、レイラにはまったく理解できなかった。
そんなレイラの一途な心が、今回の事件の発端だった。
レイラさえも、こんな大騒ぎになるとは思っていなかったのだが。
「これは、テストよ! 私、あなたのような平民とセリス様が結婚するなんて、絶対に許せないの!」
無理やり呼びつけられたイズー城の地下で、エレナはすっかり困り果てた。
少女の気分が晴れるならお付き合いしましょうと、気乗りせずにもここまできたが、レイラのテストは、大変危険なものだった。
「あなたが王族としてふさわしかったら、この黒曜門を開けられるはずだわ。 私が開けてあなたが開けなかったら、あなたは身を引きなさい! いいわね!」
「レイラ様、いけません! 万が一、開けられたとしても引き込まれて戻って来られるとは限らないのです。エーデムリングは迷宮です。止めてください!」
エレナの懇願を、レイラは意地悪に笑って聞いていた。
勝負をかける前に相手は降参したのだ。意気地のない女である。
レイラは、黒曜門に手を掛けた。
――私なら、この門は反応してくれるわ! 王妃にふさわしい女性として……。
そうしたら、セリス様だってあやまちに気がついてくださるわ。
とたんに門が開いた。
開いた……というよりは、門は黒い闇になって、レイラの腕を飲みこんだ。
勝ち誇った少女の顔は、みるみる恐怖に染まっていった。
「レイラ様!」
エレナは叫ぶと、少女の腕を掴み、引き戻そうとした。
しかし、エーデムリングの迷宮が、少女をとりこむ力のほうが勝っていた。
あっという間に、レイラとエレナは、エーデムリングの迷宮に引き込まれてしまった。
エーデムリング。
古代エーデムの首都と呼ばれる地。
未だ古代からの魔力に満ちた世界……。
この遺跡に入れる者は、エーデム王族のみ。
そして迷わず進める者は、中でも選ばれた者のみ。
我こそはエーデム王!
そう叫んでエーデムリングに飛びこみ、何人の有角の者が戻らなかったことだろう?
エレナの知っている者で、エーデムリングに選ばれた者は、今はただ二人……。
行方知れずのセラファン王子と、エーデム王・セリスのみであった。
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