二章

陥落路・右


「セリス様……」

 エレナはじっとその場に座り込んでいた。

 エーデムリングの迷宮は、選ばれぬ者を受け入れない。もうこれ以上動けない上に、気が狂わんばかりの寂寥感が襲いかかってくる。

 迷宮は、精神的にも肉体的にもエレナを追いつめ、やがて死に至らしめるのだ。

 エレナは流れる涙をぬぐい、薬指に光る指輪に目をやった。

 セリスが、エーデム奪回の時の功績をたたえて、エレナに贈った指輪だった。

 それは、元々はセリスの母・フィラの指輪だった。

 落ち葉が舞うイズーの中庭の思い出を、エレナは忘れたことがない。セリスはエーデムリングの彼方でこの指輪を失うことを恐れた。

「……だから、私もこの指輪をこの迷宮で失えない。だから……」

 エレナは、よろよろと立ち上がった。

「セリス様は、必ず私を見つけてくださる」



***


 

 エレナが二度目にセリスにあった日。

 それは忘れもしない恐ろしい夜――


 糸のように細い月。風もなくどこか不気味な闇の夜だった。

 いつもの時間に父は帰らない。

 静かすぎる。エレナは、何度も窓から外を見たが、暗闇以外何もなかった。

 母・ベルがため息をつく。

「あの野郎、何回シチューを温めなおさせる気だい! もう先に食べちゃおうか?」

 この異様さを感じていないはずはないのだが、母はいつもと変わらなく、明るかった。

 時間はどんどん流れていく。

 エレナはもうおなかがすいたを通り越して眠たかった。もう、そういう時間だった。

 突然、激しくドアが叩かれた。

「ンも! そんなにしなくてもいいじゃないか! ジェイのやつ、さては酔っ払っているな!」

 ベルは、イライラとドアを開けた。

 一人の女性が倒れこむように、家に入ってきた。

「フィラ!」

 ベルが驚きの声を上げた。

 ベルの義妹にして、アル・セルディンの妻、セリスの母でもある女性である。

 続いてセリスが入ってきた。腕に一歳になったばかりの妹を抱いている。

「城が落ちた」

 暗闇から父の声がした。

「ベル、私はアル様を探しに城へ戻る。誰がきてもドアを開けるな! 命に代えてもこの方々をお守りしろよ。万が一の時は……わかるな?」

「あいよ! あんた、まかしときな!」

 頼もしい母の声に安心したのか、家に入ることなく、父の姿は闇に消えた。


 ベルはかつて食堂をしていたこともあり、料理の腕は確かだった。

 しかし、この夜の食事は誰もなかなか進まなかった。

 フィラは泣いてばかりで、食事どころではなかった。

 母親の精神状態を察知して、赤子のフロルが泣き出すと、口に運びかけたスプーンをおいて、セリスがあやし始める。

 エレナもなんだか食が進まない。

「フィラ、あんたしっかりしなきゃ……」

 義妹を励ましながらも、ベルのお皿もまったく手がついていない。

 重たい空気が流れていた。


 どうにかこうにか食事を済ませ、あと片付けをしていると、誰かが激しくドアを叩く。

 エレナは震えた。ベルが様子をうかがう。

「静かにするんだよ……!」

 母は小声で命令した。

「ふぎゃ……」

 と、フロルが声を上げた。

 フィラは慌ててセリスから赤子を受け取ると、あやし出した。

 子供を抱くことで、フィラのほうがかえって勇気がわいたようだった。

「……! 焦げ臭い」

 セリスが小さな声で叫んだ。

 敵兵が火を放ったらしい。ドアの下からかすかに煙が上がっている。

 ベルが悔しそうに拳固でドアを叩いた。

「くっそぅ! 万が一だね、これは……」

 ベルはテーブルの下にもぐり込んだ。

 エレナは、初めてそこに抜け道なるものがあったことを知った。

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