花迷路・左


 ――あの時も走っていた。


 セリスは血にまみれていた。

 氷竜達が恐怖におののいて、騒いでいた。

 心臓が激しく脈打っていた。それは走ったからだけではない。

 たった今、犯してきた恐ろしい出来事に、心が耐えきれなかったのだ。

 体に突き刺さった矢羽を抜くことさえ堪えきれぬ自分が、なぜあのような恐ろしい行為を行なえたのか? 

 まったく考えられなくなっていた。

 選択肢は……なかった。そうするしかなかった。


 でも、したくはなかった! 父上! なぜ、なぜ、あなたは……。

 あなたは、あなたは、あなたは……。

 エーデムを裏切るのですか?

 ファウル王を裏切るのですか?

 私を……裏切るのですか?


 セリスは冷たい地底湖に身を投げた。

 熱くたぎった血が、激しく打たれていた心の臓が、急激に冷やされてゆく……。

 凍りついた竜の爪に握りつぶされるように、心が……止まる。


 父上、私もあなたのもとに参ります。

 私はあなたと共に死にました。

 この迷宮で……もう誰に会うこともなく、忘れられて……。


 願わくは……。

 願わくは……。


 このような血にまみれた身であろうとも、我がエーデムリングの力となって、祖国に捧げられることを……。

 美しいイズーの中庭には、今ごろ多くのエーデムの血が流されていることだろう。


 あの日……。




 あの日、父はホルビンと密談していた。

 父は、ウーレン宰相・モアと、密書を何度もやり取りしていた。

 すでに、父は危ない橋を渡り始めていた。王にはすべて秘密であった。

 セリスは、中庭を煮えきらない想いでうろついた。

「父は、王になるべきだった」

 とげのない銀バラを、セリスは握りつぶしていた。

 身を守るべき力のないバラは、手の中で崩れて蝶のようにハラハラと散った。

 庭の美しさなど、少年の目には入らなかった。


 アル・セルディンは、エーデムリングに属する者だった。

 ファセラ・エーデムが、エーデムリングを目指して命を失ってからは、ファイガ王の弟であるセルディン公が王位を得るのは、まちがいないと思われていた。

 しかし、父は平民の母と結婚した。

 これは、当時、王族としては信じられないことだった。

 それでも民は父が王になることを望んでいたという。しかし、父はファセラの弟・ファウルを王にすることを支持した。

 ファウルは、当時わずか十五歳。やっと成人を迎えたばかりである。

 民の支持を確実にするため、彼はエーデムリングの金剛門を目指し、たどり着いた。そして、王位を確実にした。

 だが、まだ若い彼が金剛門にたどり着けたのは、セルディンが導いたからと噂されていた。


 そのファウル王が、アル・セルディンを追い詰めていた。

 セリスは歯がゆかった。

 ファウルは、確かに力のある王である。エーデムの血を濃く表している。

 だが、父はさらにエーデムの血を……いや、まさに古のエーデム王族そのものであるのに。

 若さゆえか、ファウル王はセルディン公の意見よりも、無難で保守的な年配のブレインの意見を重視するようになったのだ。


 ――誰のおかげで王になれたのだ?


 けして人前では言えない言葉であることを、子供といえど賢いセリスは知っていた。だから、余計に口惜しいのだ。

「私は、父のように間違えない。父が王になっていたなら、このような苦もなく、平和を維持できたはずだ」

 王にならなかったばかりに、父は今、自らの理想を貫くことができないでいる。

「私は、王になる。王になって、エーデムの民を守ってみせる」

 父の血。

 アル・セルディンは、エーデム王・フィオラの息子だ。しかも、エーデムの歴史に残る名君セルディ・エーデムの生まれ変わりではないか? とすら言われている。

 セリスは、その父を誇りに思う。

 しかし、母の血は――捨て子であった平民の母の血は……。

 母を愛している。

 でも、この平民の血だけは、自分には許せない。

 父が、エーデム貴族の女性と結婚しなかったこと。


 ――それが、すべての間違いの始まりだ。

 セリスは、その思いを打ち消す事が出来なかった。


 もやもやとした気分で歩いていると、どこかからすすり泣く声がした。

 みると小さな少女がベンチに腰掛けて泣いている。金色の髪が平民らしい血を表している。

 自分の中に混じった平民の血を嘆いていたはずなのに、セリスは少女を無視できなかった。

 泣くには泣くなりの理由があるはずだ。そう思って、セリスはあたりをきょろきょろと見渡した。

 だが、それらしき要因はない。

 エーデム王家の花である銀バラが、ベンチを飾り立てていた。

 背後には紫色の小さな花が、ツルをからませて伸び上がっている。

 さらに向こうには色とりどりの花々が、少女を庭に誘っているかのように、風になびいている。

 セリスは初めて庭の美しさに気がついた。

 まるで、楽園のような場所だった。

 だが、少女ははじめての場所におびえて泣くばかり……。

 まるで臆病なエーデムの民そのものだ。


 ――なぜ、あの子は泣いているのだろう?

 恐れずに手を伸ばせば……美しい花に手が届くのに……。


 セリスは、少女に声をかけた。

 それがエレナとセリスの出会いである。

 泣き虫の少女を慰めようとして、手を引いて庭のあちらこちらを案内して歩いた。

 そして、昔母が教えてくれた花冠を作ってプレゼントした。

 うれしそうな彼女の姿を見て、セリスもうれしくなった。

「え? いいの? 私がもらっても……」

 はにかみながらも、やっと口を開いた少女に、セリスは目を細めた。

「もちろん。私は、いつか本当の王冠を手に入れるから」

 その言葉は、セリスの誓いでもあった。

 

 エーデムの民すべてに、花冠を授けるがごとく、国を治める王となろう。

 そして、父のなしたいことをなそう……。

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