北風路
迷宮は過酷だ。
地底湖のほとりで、エレナは倒れてしまった。
冷たい風が渡り、気がついて這うようにして、水を飲んだ。
水鏡に、やつれた顔が映る。このまま死んでしまうのだろうか?
いや、きっとセリス様は……きっと……。
エレナの意識はまた遠のいた。
***
その男は、やつれた顔をしていたのだ。
生きる気力がすっかり抜けていた。が、エレナの思うところ、砦の人々は皆、そうだった。日々の生活に疲れ果て、うつろな瞳をしていた。
セリスがやっと意識を取り戻し、王族としての勤めを果たしはじめた頃のことである。
ブレインが、全員一致でセリスをエーデムの摂政とした。
一部で王に……との声も合ったが、平民の血を嫌った一派の反対にあった。
いつまでも平民のホルビンに仕切られ、そのうち実権でも握られては、エーデムの貴族たちの力は弱まるばかりである。
多くの王族・貴族が失われた。エーデム族の結束力は弱まり、このまま衰退しかねない状態である。
魔力を持つ王族の血を守ることは、種を守ることでもある。
セリスを摂政としたのは、まとまりのない今の状況を打破するための、ブレイン達の目論見があった。
それは、とても効果があった。
少なくても、エレナはその話を聞いて、久しぶりに心から明るい気持ちになった。
お披露目を兼ねて、摂政が砦の村を視察するという。
エレナは心が踊った。エーデム陥落以来、初めてセリスの姿を見ることができる。
恐怖に震えながら外に出ていたのが嘘のように、その日の外出が待ち遠しかった。
「よし、肩車してやろう!」
ひさしぶりの娘の笑顔に、気分をよくしてホルビンが言った。
まだ、ほんの子供で背も低かったエレナが、この事件をつぶさに見るはめになったのは、この父のサービスのせいだった。
エーデム摂政・セリス・セルディン。
まだ幼さの残る十三歳の少年だが、王族の気品が漂う。人々の溜息が聞こえてくるように、エレナは感じた。と同時に、ヒソヒソと中傷も……。
「十三歳になって、まだ角が生えてこないとは……。もしかして、有角の者ではないのでは? やはり平民の血が混じっておられるから」
そのような言葉が聞こえているのか、いないのか、セリスはゆっくりとブレインを従えて歩いてきた。
銀の髪がまた伸びたせいだろうか? 痩せたようにエレナには見えた。
しかし、笑顔さえ浮かべるその表情には、病に伏していたような感じには見えない。
あれは、単なる噂だったのだわ……。エレナがほっとしたその時だった。
石がシュッと風を切った。
それは見事にセリスの顔をめがけて飛んできた。とっさに摂政は腕をかざして、直撃を防いだ。
大勢の見物人は、一瞬静まりかえったかと思うと、ざわざわと騒ぎ出した。
犯人はすぐに取り押さえられた。
やつれた男だった。目の死んだ男だった。
「何が、王族だ! 何が尊き血だ!」
近衛兵が男を殴ろうとした。
「待て! その者の言い分を聞こう」
セリスの一言に、衛兵は一瞬不満げな顔を向けたが、すぐに従った。
「は! えらそうに……。聞こうだって??? 本当にモノを言いたいやつはもう冷たくなったよ。エーデムの地で……」
男は吐き捨てるように言葉を投げつけた。
「王族がなんだよ! 俺の家族を返せよ! おまえら、エーデムリングの力で、守ってくれるのではなかったのか? え? 娘を返せ! 妻を返せ!」
男はそこまで怒鳴ると、衛兵をふりきり走り出した。
「止めろ! 止めろ! その男を止めろ!」
衛兵たちが群衆に向かって叫ぶが、誰もうつろな瞳で、見物人を決めこんでいた。
「生きていたって、しかたがないさ! え? 違うか? こんなところで何をすればいい? 何もできることなんかない!」
絶望が男の正気を奪っていたのだ。
「おめおめと生き延びて、おまえら、みんな愚か者だ! みんなで死ねばよかったのだ!」
男はあっという間にガラル川に身を投げた。
この時期、水かさは少ない。
グチャーーーン!
いやな音が響いた。人々の顔が硬直した。
衛兵が川原をのぞいて首を振り、男のその後を見ようとした人々を制止した。
「……丁重に葬るように。私は砦に戻る」
セリスは堅い表情でそう宣言すると、銀の髪を翻して砦に引き返していった。
砦ではブレイン会議が行なわれた。
亡くなった男のことを詳しく調べるよう指示し、セリスは自室に戻った。
独りになって、セリスはほっと溜息をつく。
わずかに手に血がついている。男の石つぶてをかわした時に、あたって切れたのだ。
血で汚れている……。
セリスは手を洗った。
しかし、血は落ちることなく、さらに真っ赤に手を染め上げていった。それは、幻だったのだ。
セリスは、何度も手を洗った。
幻の血は、何度洗い流しても落ちることがなく、セリスはさらに手を洗い続けた。
その夜、突然天候が変わり、夜半から激しい雨となった。
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