朝陽と月と。蝙蝠と。


 ――月影もうすく消え果てた、草木も眠った夜の終わり。

 

 一つの紫影が闇から溢れたのは、子(ね)の刻を回った深夜の事である。

 影絵の女はその男の帰還を道場の縁側にて、長らく待ち続けていた。

 夏の粘ついた空気など受け付けぬ白肌の上には秋の華をあしらった衣。表情は儚(くら)く、憂いが滲む。

「……」

 果たして、待ち人の姿をみとめて、女は口元に寂しげな笑みを浮かべる。

 その男は紫の衣を――血に濡らして帰ってきたのだ。

「御無事で何より」

 言葉を受けて、待ち人である老人は苦く笑う。

「やはり老体には堪えるね」

 自身の腰を叩きながら深く腰を下ろした。

 そして深い嘆息をする。

 女から見ても、男が無理をしていたのは明白であった。

 細脚はわずかに震え、吐息は粗い。

「仕様のないお方ですね……」

 女もまた嘆息して、膝の上を二度叩いた。

 いつもすまないね、と言って男は女の膝を枕にした。

 

 ――こうしていれば歴戦の剣豪も、一人の小柄な老人と違わない。

 

 荒れた蓬髪(ほうはつ)を女が撫でると、血の匂いが漂った。

 女は哀しそうに顔を歪める。

「何も貴方が無理をなさらずとも……」

「それでは意味があるまいよ。命は軽い、私もお前も――

誰であれ同じなのだからね」

 言われて、女は沈黙した。

 実にその言葉は――この男の真実であると分かっていたから。

 命は軽い。

 心持ちはどうあれ、どうしようもなく、それは軽いのが現実。

 そして――その真理を知らなければ、命の尊さは語れないのだ。

 彼は廻国の修行に置いて、多聞に漏れず、余りに多くの敵を斬り続けた。


 斬って斬って斬り続けて。

 殺して殺して殺し続けて。

 

 手にした剣名は甚だしく、手にした絶技はおよそ比するに及ぶ者少なく。

 だがそれ故に彼は誰よりも近しく、愛おしい女(ひと)を失った。

 何のことはなく、

 彼が留守の間に犯(ころ)されたのだった。

 剣士としての絶対の自負はそのまま、彼を損なわずに彼を貶(おとし)めるように因果せしめたのである。

 その時に彼は、命の軽さに気付いてしまった。

 人は斬れば死ぬのだから――背負う命もまた、同様に軽い。

 軽いが故に――尊いのだと。

 その真理(こたえ)に至ったとき、既に余りに多くの因果(ながれ)を造り、

余りに多くの宿業(いんねん)が彼の周りに渦巻いていた。

 彼が死ぬまで、延々に刺客が現れるであろうことはもう疑いのない事実だったのである。

 だから彼は意図的に己のみが狙われる布陣を創り出すことに決めた。

 それこそが常に門弟たちに襲われるという道訓(きまり)の淵源(はじまり)。

蝙蝠は己(いのち)の軽さを知るが故に、飛び続ける。

 そうでなくては――いられない。

 女はそれが判っていたから哀しみも憂いも、彼に漏らすことはしない。

 しかしね、と不意に彼は口を開いた。

「あの男は――変わった奴だったよ。業を継ぐを善しとしながら、しかし、己の在り方を量りかねていたのだろう」

「端から、わたしはあの男が知れませぬ」

 お前がそれを言うかね、と彼はまた苦く笑った。

 女には相手の言いたいことが良く判らなかったが――それを無視して、彼は神妙な口振りで続けた。

「ただの仇討と言えばそうだが――あの男は最後まで剣豪として生きた、と云ったところだよ」

「剣豪……ですか……」

 剣豪など野蛮だと、女は想っている。どう言葉で飾ろうと人殺しで金子を得ているのに違いはないのだから。

 それを道だとか、尊いとか――はなはだ気に入らない。

 だからそのまま、想っている事を告げた。

「剣豪は好きませぬ。あの男も、嫌いに御座いました」

「おやおや、淋しいことを言うね……」

 それきり、彼は沈黙した。

 きっと、今宵斬った男の事を想っているのだと女には感じられた。

 果たして、わずか二カ月の間だけ弟子だった剣士を彼自身はどう考えているのだろうか。

 容赦なく殺しておいて、哀しいとさえ想ってしまっているのだろうか。

 

 ――淋しいのは彼か。それとも、貴方か。

 

 言葉を飲み込んで――女は庭の水が光るのを見つける。

 初めは地上に星の光でも溢れたのかと思ったが、違う。

 善く見れば、いつからか迷い込んだ一匹の蛍。

 淡い光を放ちながら、虚ろな庭園を鈍く照らす。

 女は小さく――小さく微笑んで、鈴の音のように咽喉を鳴らした。

 

 おく山に たぎりて落つる 滝つ瀬の

          玉ちるばかり  物なおもいそ 

 

 風情を込めて、闇に流れる詩(うた)。

 女が優しく口走ったのは、彼の好むという古き恋歌の――返歌(かえしうた)。

 はっと、驚いたように彼は顔を上げる。

 瞳と口を不自然に開けた、本来ならば三年分の給金と暇を貰えるほどの表情。

 彼は女の薄い顔を深く覗き込んで、返す言葉を探し――結局はいつものように、うらやかに笑った。

 彼は存外に、意地を張る男だった。

「なんだ。慰めてくれるのかな?」

「えぇ」

 女が答えると、そうかそうか――と彼は繰り返す。

「ふふ、らしくもないよ」

「貴方こそ――無理をした顔など似合いませぬ」

 もう一度、白髪の混じった髪を撫でる。

 馬鹿を言うな、と小さく呟いた後。

 彼は顔を庭に逸らしてしまった。

 

 朝陽が何をするでもなく、昼の星は光を奪われる。

 

 故に必然。

 夜闇が明けるにつれて、蛍光もまた消えていった。

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夢想剣術物語 松林無雲斎 超獣大陸 @sugoi-dekai-ikimono

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