剣豪勝負。天狗と蝙蝠。


 無雲斎の門弟となり、数ヶ月。

 兎角はひとが変わったように夢想願流(むそうがんりゅう)に打ち込んだ。

 膂力から来る奢りを棄て去り、力で捻り込むような刀法を改め直し、徐々にだが着実に技巧を重ねた。

 そのおかげか、季節が夏に入った頃には五に一はお泉に競り勝てるようになったのだ。

 一方で無雲斎は別段、際立った動きは見せていない。

 朝は庭を手入れし、昼は真剣素振りを千回と稽古の見廻り、休憩がてらに馬口取りや門下と茶を飲み、藩政を語る。

 時々どこかに出て行くことがあるが、それは仙台城に何かしらの勤めに行っているのだと三千代が語ってくれた。

  数ヶ月、兎角は剣の腕以外に得る物もあった。

 三千代や嘉兵衛、他の門下とも友好な関係を築いたのだ。

 嘉兵衛には藩士にならぬか、と誘われているほどである。

 ただ――お泉だけはいつも虚無の視線を向けて、兎角に下腹部の鈍痛を蘇らせてくるのだが――何にせよ。兎角はわずか数ヶ月のうちに、夢想願流の上手十本指に食い込むという破竹の勢いを見せていたのだ。

 しかれど、兎角は廻国修行の身。金子の手配はそろそろ怪しくなってきたところである。

 

 ゆえに――季節が夏に変ったある日、彼は次なる行動を開始した。


 夕暮れであった。

 夏らしく茹(う)だるような熱が空気を粘つかせるほどの猛暑。人が腐るほどの夏の日のことである。

 道場に残っていたのは、最後まで真剣で素振りをしていた兎角と嘉兵衛。庭で涼んでいた三千代である。

 大小の刀を腰に戻して、兎角が口を開いた。

「もう、夏だな」

 茜色の庭園を眺めながら呟く。角のある瞳からは邪気が殺がれている。彼が何とはなし、視線を下げると。

「あっつぇなぁ……」

  三千代が着物をはだけさせ、手で仰いでいた。

 うっすらと汗をかいただらしない体が嫌に目につく。兎角が慌てて視線を逸らした。

 逸らした先には嘉兵衛の強面がある。

 彼は身体中の筋肉をすべて駆使させたような声で――


「――熱くなどないっ!」


 叫んだ。兎角には、何が言いたいのか皆目検討がつかぬ。

 時折、この男の思考は常人の範疇を越えることも、しばらくのつきあいで理解はしていた。

「嘉兵衛殿は、今日も熱いな……」

 なんだか馬鹿らしくなって兎角は笑った。

 こうして笑えるのも、実に兎角にとっては奇妙なことなのだ。

  江戸で剣法をひたすらに学び、町を闊歩していた頃には考えられぬ心境である。がむしゃらに力を誇示して来た過去に比べて、明らかに心は凪いでいた。

 それは――このような生活に取り込まれてしまって良いと思えるほどに。


 ――だからといって、これは引き返せぬ旅路。

 既に、機は得たのだ。


 今の会話を反芻して、兎角は一つ、思い至る。

 彼は一瞬だけ表情に翳りを滲ませて――三千代たちに提案をした。

「夜の町に涼みに繰り出すのはいかがかな」

 これだけの猛暑である。自然な問いであるはずだ。

 二人は一度、たがいに顔を見合わせ、

「む。涼み、であるか――良い考えだ!」

「行ぐ行ぐ! 川さ行って、ひゃっこくなっちゃ」

 快く了承した。兎角は安堵の息を吐きながらもう一つ。

「ならば、染物町の川辺に繰り出そうぞ。蛍も今宵から舞うのではと聞いた次第」

 蛍狩りに誘う。

 そういう提案だ。

 実に、この仙台城下に染物町は二つある。

 初代藩主の伊達政宗(だてまさむね)公が米沢にいた頃からお抱えであった染師たちは寛永十三年、主の死去にともない墓所造営のために根を下ろした。その際、町は北と南の二つにわける頒(わか)れたのだ。北は都の中心に近く上級武士の染物を専門とし、南は木綿が主で足軽や町民を相手にすることが多い。およそ分業が進んだための町の形である。

 そして蛍の名所と言えば、南の染師町で使われる広瀬川七郷堀――名の通り、七つの郷に通じる水堀――のあたりを指しているのだ。

 蛍の淡い輝きが溢れるさまは、天之川に通じる絶景だともっぱらの噂である。これ目当てに涼み客と見物人が集まり、騒ぎはもう祭りに近いのだとか。藩政はなかば無礼講として、止める気もないほどである。

「せっかくだ。無雲師匠(せんせい)もお呼びするのだ!」

 嘉兵衛は楽しそうに言った。――当然の流れである。

 勤めのない日の無雲斎ならば、このような祭り事に飛びつかないはずはない。老師は落ち着いた物腰の割に存外、馬鹿騒ぎが大好きなのだ。

 これを聞くと三千代は勢い良く立ち上がった。

「だっちゃねェ。ちょべっと待ってけらいン」

 道場奥の住まいに向かってはたはたと駆けて行く。

 

 ――どうせ、己が行きたいだけに決まっておる。

 というよりも、侍女が主を置いたまま祭りに出ることを許されるはずはないのだ。

 ――これもまた、当然の流れである。

 背中に粘ついた汗をかきながら、兎角は三千代が戻ってくるのを待った。

 しばらくの間の後に、三千代に連れられて無雲斎が現れた。

 着流しの上に紫の着流しを纏い、手には鉄扇。腰に刀がないのは、藩の刀鍛冶に研ぎに出しているという話だ。

 ゆえに、今宵の彼は得物がない。

無雲斎は鉤鼻を扇で掻きながら呑気な声を出した。

「兎角よ。良いことを考えたな。私も少し、屋敷に篭るのに飽きていたところだよ」

 快諾。理由が暑いからではない辺りが無雲斎らしい反応である。

 しかし――普段もならば、影のように付随(つきしたが)う女の姿はなかった。

「お泉殿はいらっしゃらぬのか?」

 これは兎角にとって意外な流れであった。

 一番に面倒な相手であるが――いなければいないで張り合いがないというものである。

 そこには敵視以上に、彼の屈折した劣情があるのだが――それを抜きにしても兎角は少し口惜しかった。

 無雲斎は対して、苦く笑った。

「あの娘は蛍など見なくても、いつも涼しそうじゃないか。今宵は留守を任せるよ」

「なるほど――確かに」

 お泉の無表情を思い出して、兎角は納得することにした。

 確かに、あの白面が暑さごときで揺らぐはずもないか。

 むしろ、あの女が涼みにつかえるほどである。

「他に人はおらんようだね――早めに行って、場所を取ろう。あそこは人が賑やかだから」

 無雲斎はそう言って、懐から巾着を取り出した。

 ずっしりとした質感。少なくない軍資金である。

「今宵はね。私が奢るよ」

「なんと!」

 流石、一道場の師匠――太っ腹である。

 思わず、兎角も頓狂な声を漏らしていた。


「ハハハハッ――流石、天晴れ無雲斎!」

「うふふふっ――流石、アッパレ無雲斎!」


 三千代と嘉兵衛に至っては童子のような喜びようである。

「まったく元気だね、お前たちは……」

 なかば呆れたように無雲斎が言ったが――豪放な武士と破天荒な侍女に声はまるで届かない。

  二人はもう小躍りを始めていた。

 熟練の老師はこちらに困った顔を向ける。

 しかれど、二人がこれほどにはしゃぐのは兎角とて予想外だっだのだ。打つ手なし、である。

「失礼――これでは涼みにならぬやも……」

 ゆえに、この言葉だけは本心であった。


 蛍が見える染物町は此の片平丁から南東に行ったところで、それほどは遠くない。

 一刻もあれば、徒歩で行ける距離である。

 まず四人は広瀬川に沿った道に行き、そこから川下にくだるようにして歩き始めた。

 すると徐々に城下を離れるにつけ、人影が増え、騒ぐ気配が近づいてくる。

 兎角は町の情景に、今更ながら深い感慨を抱いていた。

「いやはや、いつ見ても凄いな。この仙台の賑わいは……」

「おや、お前は江戸人だろう」

 兎角の感嘆に、隣を行く無雲斎は意外そうな声を上げた。

「江戸は活きの良いので評判だ。私も何度か訪れたこともあるよ」

「無雲師匠。あの町は、活きは良いのだが――もっと殺伐としておるのだ。そこが違う」

 兎角は江戸生まれの江戸育ちだが、気持ちとしてはこの町の方が澄んで見えていた。

「江戸は町民も士族も、見栄を張らねば生きられぬ――しかし、仙台は……師匠の道場もそうだが、もっと心持ちが緩い気がする」

 仙台の町が栄え始めたのはほんの五十年前。江戸とほぼ同時期である。

 そも、『仙台』の名は元の地名『千代』の字を、政宗公がとある唐の漢詩を題材にして改めたもの。仙人が住まうような都にしたい、という願いゆえという話であった。

 仙台は四十年も前に一度大地震と津波に襲われた。其の天災によって身分を問わず、多くの者たちが死に、発展の途上であった町の景観も酷く荒れたという。

 だからこそ、政宗公を含めるすべての者が身分の差など気にする余裕もなく――この都を作り上げるために苦心を尽くしたのだろう。人々の強い一体感は、その艱難(かんなん)の歴史に由来するのだ。雑多な人間が入り乱れ、増築やら地権やらで騒いでいた江戸とはまるで違う。――真逆といっても過言ではあるまい。

 それがそのまま、人の在り方にも通じていた。

 

 ――己も、この都で生まれたのなら……。

 

「お前は考えすぎだよ」

 乱雑な思考が表情に出ていたのか。無雲斎が軽く叱咤した。これに一瞬、兎角は驚いたが老師はすぐにいつもの善く判らない笑みに戻った。

「生まれも育ちも人は撰べぬ。あの川の巡りの如きものなのだよ」

 言って少し離れた水辺を指す。

 陽光は更に地に潜り、流れを朱く染め上げていた。――まるで血塗られた道ではないか。

 兎角の哀愁を他所(よそ)に、しかし――と無雲斎は続けた。

「水は流れる場所も、向きも決まっておる。でもね、この堀は――川の流れを人が曲げて造ったんだよ。それがまた、蛍を呼ぶ名所になりよった。結構なことだと思わんかね」

「……どういうことだ?」

 兎角には老剣士の意図が分からなかったが、相手は独りで満足したように肯いていた。

「人生もかくなるかな」

 うんうん、と唸る老師。

 兎角はさらに問おうとするが――その時、肩に手をかけられた。後ろを歩いていた嘉兵衛である。

 よくも邪魔をしてくれたな、と内心舌打ちをしたが――振り返るとその思考も吹き飛んだ。

 嘉兵衛の額には血管が浮き上がり、眸は強く燃えている。まさに死地に赴かんとするがごとき形相である。

「嘉兵衛殿――いったい何が……!」

「少し、お前に話がある!」

 若干の恐怖の為に、兎角は素直に従った。

 代わりに無雲斎の相手は三千代がすることになる。

 そのあとはしばらく、嘉兵衛の話に付き合うことになったのだが――頭の隅では、先の言葉が暗雲となって蔓延(はびこ)っていた。

 さて、四人がさまざまに世間話をしている間に、七郷堀の川辺に着いた。

 陽光は完全に伏し、灯りは町民の拵えた数多の提灯に替わる。既に初日の祭りは始まっていた。

 一番の蛍の見所は既に場所を取られてしまっている。

 そしてやはり町民に紛れて藩士たちが入り乱れていた。

 酒や肴の売り子が声を張り上げ、見世物(ほたる)はまだ疎らというのに酔った大旦那の大笑いが聴こえてくる。

 無雲斎は藩の知古の者や身分様々の門弟たちに挨拶をしながら、酒飲み、飯を喰い、練り歩いて行った。

 兎角はこれに供としてつきしたがったのである。

 ようやく蛍が水から湧き上がり、町の灯りが消された頃合い。

 無雲斎が腰を落ち着けたのは――人垣から外れた川上の方であった。

 祭り騒ぎから、遠く抜け出していた。

 人の音が遠くに響き、虫の声が近くに聴こえる。

 静寂の中。

 淡い光を弾けさせながら、蛍が散散(ちらちら)と飛び交い始める。

 川の上にもう一つ、光の流れが生まれていた。

 雑草の河原に座り込んで、老師は地上の天之川に光を見る。兎角は――その一間後ろに佇んでいた。

 わけはしれないが、無雲斎は唐突にこちらに足を運んだのである。廻りに人影はない。涼みという意味では、これ以上はないが――。

 蛍に魅入ったまま、無雲斎は口を開いた。

「三千代たちはどうしたね」

 しばらく前から三千代と嘉兵衛はいなかった。

 気付かなかったはずはないのだが、今更になって無雲斎はその事を尋ねたのだ。

「嘉兵衛殿が連れて行かれた。――何やら、一世一代の大勝負に出るとか」

「なるほどね。また勝ち目なき戦いに挑むのか……哀れ嘉兵衛。南無南無」

 そこで深く溜息を吐く。

 兎角もそのような予感はしていたが――師にまで言われるとは、ますますもって希望がないらしい。

「あぁ、やはり勝てませぬか」

「あの娘も少し事情持ちでね。武家に入るのは難しいと思うよ」

 そうだ、女は難しいよ――と呟いた。

 そうして蛍をしばらく見つめていた老師は、感極まったように咽喉を鳴らした。


 物おもへば 沢の蛍も 我が身より

     あくがれいづる 魂かとぞみる


 風情を込めて、流れに紛れる詩(うた)。

 無雲斎が小さく口走ったのは、懐かしい古き世の恋歌である。

 届かぬ想いがゆえに己の魂が身を離れ、焦がれる相手に向かう様を蛍の光の中に重ねた、というような意味であったかと憶う。

 兎角にとってはその昔、母に枕で語られたものでもあった。

「和泉式部(いずみしきぶ)……か」

「お、分かるかね。少し意外だよ」

 私はこの詩を好んでいてね、と続けた。

 意外と言えば、意外である。心枯れている無雲斎が、恋の詩を好むとは――焦がれる相手でもいるのだろうか。

 否――、恋心ではないのやもしれぬ。

 しばらくの無言。仮初(かりそめ)の静寂。

 研ぎ澄まされた感覚の中で兎角もまた淡い光を観る。

 輝いて消え、消えては、輝く。

 蛍光が人の御魂であるとして、世に尊いものであったならば――果たして、この造られた流れとは何ぞや。

 古詩と老師の言霊が響く。

 時代を越えて――兎角は深く、思惑の暗雲に囚われた。

 そうした感慨の中に――ひとつ。

 天啓のごとくに閃いたものがある。

 

 ――川が人の生きる流れならば、剣豪とはつまり……!

 

 兎角は得心し、感銘に打たれた。

 それは正に――雲無く晴れ渡った心境である。


「無雲師匠――貴方は今まで斬った人間を全て覚えておるか?」

「いるよ」

 即答。

 想像した通りの応えに、兎角は柔らかく口元を緩ませた。

「そうか――己(おれ)は覚えておらぬ」

 今まで斬った人の数さえも分かっていない。

 必要に迫られたことも多く、そうでない場合はさらに多い。兎角は幼少より、剣法の修行と無為の殺しは矛盾せずに成り立つものだと思っていた。そう教えられてきた。

 だが、それは違うと――今、悟ったのである。

「生きる道を川に喩えるなら――何者かを殺すというのは、流れを堰止めると云うことに他ならない。ならば、それは人の手によって流れを変えることに同じ」

川の喩えに対する己なりの思順(こたえ)を兎角は一方的に語り始めた。老剣士は無言で――まだ、美しい世界のみを見詰めている。

「しかれど、ただ人を斬り、川を堰止めるには大義なし。川の名もその行き着く道も知らぬのは――余りに正道から外れている」

 意味を求めて殺すのならば――川の行き着く先を知り、自らの利を見定めなくてはならない。

 そして斬った人を知るとは恐らく、そういうことなのだ。

 無雲斎と自身の絶対的な壁を、兎角なりに悟ったのである。

「だから、己は剣豪ならば――人を斬るに真摯でなくてはならぬと思う。そうでなくては、野蛮の徒党と一寸も違わない」

 殺しに真摯も何もあるまいよ、と無雲斎は虫の啼くように言った。

「ある」

 兎角はその声を聞いても、揺るがない。

「誰を斬ることで己(おのれ)があるのか、噛み締めて生きる。前も後ろも、四方来世に至るまで――血塗られた道ではあるが、一条の星光のように特別なモノであると信じるが故に」

 言い切って、大きく息を吸い込んだ。

 はるか高見に至る老剣士はもう何も応えない。

 応えなくとも、兎角は覚悟をもう決めている。

 あとは――ずっと、修行前から考えていた通りにするだけなのだ。

 あたり一帯の人影はなく、また、彼を守る者たちもいない。

 前方は川という要害。後方の理を得るに至る。

 敵の刀法を知り、己が心身を鍛え、絶好の機を図った。


 ――必殺の布陣は、この地に既に敷かれている。

 

 臨む者は卑しき天狗――挑むは高貴なる蝙蝠。

 息を緩慢(ゆるやか)に吐き出して、殺すべき男の背を睨んだ。

 兎角の眸が、嶮しいほどの角を取り戻す。

 そうして、最後に――礼を拝した。

「――微塵流、志乃田兎角は松林無雲斎の名を、生涯、墓場まで背負って逝(ゆ)く」

 剣豪であらんがために。

「最後の指南を――頂きたくば」

 宣戦布告。

 初志を貫徹しながらも、兎角の心にはある種の敬意が芽生えていた。そして、その敬意を踏まえた上で――この卑怯卑劣とも取れる布陣を作り上げたのである。

 言葉を聴き終えた無雲斎は、やはり、と言うように息を漏らし。

「――まぁ、善し」

 と、嘯いた。

 はじめから此の時が来ることを知っていたような口振り。

 だが、この男なら――さもありなん、か。

「己で己を決める。大事なことだ。夢想願流はお前には必要ないよ。お前はやはり微塵流だ」

「ありがたき御言葉」

 兎角はわずか数カ月ばかりの師の背中に頭を下げて、自然流麗な動きで――抜刀した。

 太刀が緑光を受けて、絶妙な彩を闇に浮かばせる。

 無雲斎はまだ動かない。

 蛍を見ている。蛍光に照らされた水流を観ている。

 遠くから囃子の音が届いていた。

「できれば復讐者としてではなく、剣豪として貴方を打ち取りたかったが――今となっては詮無きこと」

 心からの賛辞と伴に、兎角は刀を構える。そして、素早く間合いを詰めた。

 草の乱れる音を聞いて無雲斎は――まだ、動かない。

 深く屈んで、水面の鏡を見つめたままだ。

 

 ――一体、どんな表情をしているのか。

 

 余裕か。諦観か。苦渋か。

 それともやはり、

 

 ――どれにしても、変わらぬ。


「松林無雲、覚悟ッ!」


 兎角は二足を踏み込み、太刀を無雲斎の頚椎(うなじ)に向けて振り下ろした。

 それは初日に見せた全力の一撃と同じだけの膂力を込めて打ち放たれたが――右に跳ねて躱される。

 されど――次の蝙蝠の動きを兎角は既に、見ていた。

 兎角は瞬時に、刀を右に跳ね上げる。

 次の一手は打たせない。

 同時に無雲斎は一回転するように振り返り――何を為すよりも早く、刃は紫の右腕に吸い込まれた。

 獲った、という兎角が確信を。

「――何の、まだ」

 という無雲斎の呟きが絡め取る。

 刃は宙に静止し、金切り音が鳴った。

 鳴ったが、刃は止まったのだ。

 兎角の腕には力強い圧が加わっている。

 刀と鉄の拮抗。

 由縁は、無雲斎が逆手に掴んだ――


「鉄扇かッ!」


 ――刀はなくとも武器はまだ残っていた。

 真逆、そんな小道具で一刀を防ぐとは――奇怪な護りに一瞬だけ兎角の意識は取られる。

 その失態に気付いた時、兎角の顔面に飛来する黒塊があった。片腕で顔を庇うが、わずかに遅い。

「っぅ」

 半固形の泥塊が眼前で弾けたのだ。

「……覚悟など、既に済ませておるよ」

 老剣士の言葉が聴こえ――腹を一発殴られていた。

 抉るような衝撃に、兎角の胃液が競り上がる。

「ぬぅぅぅお!」

 されど、兎角とて剣豪の端くれ。

 痛みに耐えて、片腕で刀を振り回す。草木を切り裂き、一帯を屠る――無雲斎は後方にのがれざるをえない。

 兎角の視界が正常を取り戻した時、敵はやはり数間先にはなれていた。後方に川。左右に草木。僅かに荒れた息を整え、刀を直す。

「流石は無雲斎……さらば」

 刀尖(きっさき)を地に向けて、ツツと前に出る。

 正面から潰す。

 磐石な動きをもって徐々に間合いを狭め――その慎重さ故に、またも敵の後退を赦す。

「――ッ!」

 強く息を吐いた無雲斎は踵を返し、蛍光(ほたる)の中を跳んでいたのである。

 純粋に、兎角はその絶技に呻いてしまった。

 正に神速軽易の妙用。

 讐(かたき)うるに値するものなし。

 真に飛翔。あるいは、義経八艘飛びと称された業も、これと同じ光景であったに相違ない。

 彼は川に浮かぶ僅かな石の凹凸の一つのみで跳ね飛んでいたのである。

 川幅を考えれば、異様な脚力であることは明瞭。

 またこの際、老師は水飛沫の一つも浴びていない。

 

 ――蝙蝠とは、こういうことか!

 

 肚裏(はら)で呻き、遠くの敵を睨む。河の先で夜怪の瞳が鈍く光る。相手はたしかに、細目で兎角を見据えていた。

「覚悟を決めたのは――お前の父を斬った折よ」

 それは虫の鳴くような小さな声であったが――確かに、兎角の耳に届いていた。

 ――やはり己を知っておったか!

 兎角は夢雲斎にならうように駆け出し、川に飛び込んだ。当然、軽易の跳躍などできぬ兎角は膝近くまでの水に呑まれる。

「遁さぬ!」

 咆哮を上げて、兎角は強引に川の中を駈けずり進む。

 心を支配するのは心地善いほどの殺意。

 兎角は興奮していた。

 実に無雲斎の言う通り、兎角は仇討(あだうち)のために来たのである。

 

 兎角の父は信太(しのだ)微塵流の落子で、名を一波(いっぱ)と云う道場の三代目であった。父は長子ではないが先祖の剣法と強靭な肉体を引き継ぎ、江戸の剣法家として地位を確立し、流派も隆盛を誇ったものである。

 だが二十六年前。道場主である父は廻国修行の身である松林無雲斎――当時の名を左馬助(さまのすけ)――により討ち果たされ、また、仇討に出た十数の門弟たちをも皆殺しにされたのだ。

 当時、無雲斎は二十八にして大剣士。

 兎角はまだ宿

 兎角は生まれてこの方、その仇討ちのためだけに育てられたのだ。

 それは公ではないにしろ、風習として確立された人人の見栄(ありかた)に依る必然だったのである。

 この呪詛は近隣の者が金子を与えるに惜しみなく、また、仇を討つまで帰ることは赦されないほどであった。

 だから父の仇である無雲斎を殺せ、と。

 母や生き残りの門弟はそれこそ悪意に依って彼を育て上げたのである。

 それは廻国する兎角を毎夜、狂おしい地獄に陥れるほどに。

 兎角の肉体は母の執念と父の怨念により鍛え上げられた凶器に他ならないのだ。

 下り天狗の剣豪は――要は、その為の皮である。技はその上に生じた上澄みである。

 

 ――故に、この天狗には帰る場所はなく、帰る意味もない。

 

 流れを決められた血河。

 仙台に来た兎角の根底には、そのような自暴自棄な心があったのだ。

 剣の道に、精神(こころざし)が伴っていなかったのである。

 だが――仇討の他に、兎角は殺しに尊さを見出すことができた。殺すべき仇との邂逅がその深理に至らしめてくれたのだ。

 ここに至って漸く、剣の根幹を身に付けられたのである。

 その男が兎角の意志を汲み、仇討の機会を与えてくれている。

 ならば――心の底から、彼を討ち果たしことを是とするより他はないではないか。

 今や意志は強く、岩の躰には力が漲っている。

 本能と決意。

 心、技、体。

 今宵の兎角は其の全てが一致している。今までの人生に一度として現れなかった、真の全身全霊を解き放つ時が来たのである。

 兎角もまた、尋常では考えられないほどの短時間で川を渡り切った。

 敵の影は丁度二つの建物の間に消えていった。

 幅三間ほどの小路がある。

 濡れた半身をそのままに、兎角は駆ける。鬼のような相貌だが、同じ天狗の異名に違わぬ疾さで以て無雲斎に追い縋った。

 河原の傾斜を上り切り、通りに身を滑り込ませた瞬間に――急襲はあった。

「さてっ」

 音よりも速く、眼前には三尺ばかりの木材が突き出される。後ろに下がり尖を避けると、老剣士はわずかにも揺るがぬ姿で佇んでいた。――手にした得物は町屋の廃材か。

 老師は軽軽(けいけい)と問う。

「兎角――ここから先に策はあるのかね」

「ない!」

 快活に叫んで、兎角はまたも身を退けた。

 無論、既に迫っていた次の一撃を避けんとする為である。間合いは約一尺五丈。

 白刃に怯むことなく、無雲斎の得物は完璧な円閃を描き迫り来る。

 一撃、二撃、三撃――鉄玉の転がり、車輪の駆け巡るが如く。上下左右、十方に至るまで、一寸の隙もなく無雲斎を中心した境界が生じている。

 この五丈一尺の境界内に取り込まれれば、瞬く間に脳髄を叩き割るに相違ない。

 これは夢想願流の表の刀法。

 刀の扱いの初歩である。

 されど、開祖のソレは他の上手を見てきた兎角をして、畏怖(おそれ)させるに十全であった。

 真に恐るべきはやはり、この男だったのである。

 兎角は後ろに退きながら、円閃の間隙を見定める。

 元の傾斜に追い込まれんとするこの刹那にも、頬はキツく釣り上がり、瞳は嗔(いか)りを失うことはない。

 微塵流に立ち返った兎角の刃は―――腰の脇から跳ね上がる刻を待つ。

 両者真剣であれば縦横を奔る速度に差が有り、縦の一刀が勝となるのが自明の理。

 しかして相手は木塊。疾さも威力も刀に劣る。

 

 ――胴を凪ぐっ!

 

 振り下ろされた木太刀に躯を晒し――兎角はその場で胴を廻す一刀を放った。

 それは瞬く間に銀光となり、風を倦む。

 骨肉を纏めて切り崩さんとする斬り払い一閃。

「今度こそ、捕ったぞ」

 確かな手応えと伴に、兎角は宣言した。

 一瞬の静寂の後、二つに断たれた木片が舞う。

 地に墜ち、無情な音を鳴らした。

「……ほぅ」

 無雲斎は――関心したように息を漏らす。生きている。

 当然、兎角が斬れたのは得物だけであった。

 尋常ならざる老剣士は先に兎角の思惑を悟り、直前で足を止めて木塊を振り下ろしていたのだ。此の僅か数寸が蝙蝠の生死を頒けたのである。

 それが上で、老師は関心の一息のみ。

 また、兎角も得物を斬っただけ僥倖であると考えていた。

 刀尖を敵の視線に重ねるようにして、兎角は構えを正す。

 前に出ると、呼応して無雲斎は一歩下がった。

「さて、老師殿にはまだ策があるか」

 兎角は同じ言葉を以て、挑発する。

 相手は――別に変わった様子もない。

 窮地にあっても、温和しく笑いながら、老師は瞳を輝かせた。

「さてね。ただ……私の考えは違うよ」

「何……」

 不意を衝いたような言葉であった。

 いかな意図が在りや、と蝙蝠の姿を睨む。

 睨むが――芒洋(ぼんやり)とした輪郭は魔形めいて見える。

 灯りは遠く、月光のみが容を縁取る。

 老年にして満満ちる妖気。

 影に覆われた相貌は虚栄に欠け、真実が殺げている。

 それが、片片(かたかた)と異形に笑う。

「人を斬るのは、河川(ながれ)を堰止めるに非ず。凡そ殺された者

の流れ着く果てが――そこであっただけに過ぎぬ」

 こうして見れば老師はいつもと変わらぬまま。

 

 

 ――なぜ今まで気付けなんだ……。


 夢の地獄に嗤う男は浅慮(あさはか)な幻影に過ぎなかったのだ。

 兎角は居縮み(金縛り)の術を喰らったように動けない。

 芒洋とした蝙蝠の口元が――夏の夜をも凍えさせる不気味さを湛えて歪む。

 

「所詮――命は軽い」

 

 底知れぬ気に、兎角の理解は追いつかない。

 剣豪として更なる高みに居る男が人の命を軽いと言ったのか。

 誰よりも命の重みを知るはずの男がそう云ったのか。

 剣の道など尊くないと。剣豪の悟りは無為であったと。

「そんなことは――認めぬ」

 あれば、それは兎角が只の復讐の徒に立ち戻ることを意味するのだ。

「軽きに非ず! その重みは――ッ!」

 縛りに弾かれるように兎角は跳ねた。

 太刀を大きく振りかぶる。

 目の前の老剣士は、瞬時に手にした鉄扇でこれを受け止めた。鋼と燐光が弾ける。

 だが、いかに無雲斎とはいえ、膂力では若き兎角が圧倒する。

 勝負は決したかに見えたが――兎角はそのまま、前のめりに倒れ込んだ。

 しくじった、力みが過ぎたのだ。

 老剣士は衝撃の瞬間に鉄扇を離し、後方に退いた。

 今度こそ、虚を衝かれた。

 体勢を立て直しながら、追撃に備えるが――既に、無雲斎は通りの向こうまで走っている。

 ――また遁げるか……!

 地に墜ちた鉄扇を道の脇に蹴り飛ばし、兎角は一度息を整えた。

 完全に今――心を乱された。

 言葉そのものもそうだが、滲み出る妖気に呑まれた。

 それが動きを読まれた一番の原因である。

 無雲斎の策略か、それとも彼の真実があの姿なのか。

 兎角は未だ理解は及んでいない。

 されど逃げ続けるというのは、利は未だ兎角に有る故のことなのだ。

 ――勝てる。その確信がある。

 兎角は素早く、無雲斎の入った通りに足を踏み入る。

 二階屋に挟まれた通りはさらに狭く――踊り出た兎角は瞳を強く絞った。

 闇が続く。

 月に照らされた道は遥か向こうまで。

 人の姿は雲一つ視えぬ。

 道の隅には染屋の樽やら木箱やらが雑然としていた。

「隠れ身の――乱破の術……」

 無雲斎の痩躯であれば、どこにでも顰みえる。

 

 耳を澄ませても、聴こえるのは川向こうの騒然(ざわめき)のみ。

 後は――虫と川の和流(せせらぎ)。

 

 蝙蝠が潜むのは一体どこか。一歩一歩、着実に進む。

 キィキィ、と。蝙蝠が啼く声。

 

 ――幻聴か。


 否、木が軋む音である。

 気配はすれども兆(きざ)しは視えず。

 蝙蝠は夜闇を闊歩し、命を刈り取る刻を待つ。

 おそらくは次の不意打ちが無雲斎の全霊であろう。

 気力体力にしてみても、老体が劣るのは道理なのだ。躯の酷使は着実に、老剣士の実力を殺いでいるのだから。

 故に――兎角もまた、全身全霊を次の刹那に篭める。

 兎角はいつかと同じように、あらゆる激情を冷然とした圧に練り込んだ。暗雲は晴れ、殺気は極限にまで澄み渡る。

 敵を斬る剣法ではなく、人を殺す殺法――兎角自身がそれを善しとしたのである。

「無雲師匠――今宵は大変良い涼みであったな」

 闇の全てを見通しながら、再び一歩。

 表情からあらゆるものが殺げて、殺す意志だけが残る。

 正に、お泉に放たんとした狂気の刃を更に研ぎ澄まし、真の仇に放とうとしていたのだ。

 兎角には凡そ一対一では不敗(まけなし)の奥の手がある。父の受け継いだという微塵流。

 そのさらに源流に当たる新当流奥義――『一之太刀(ヒトツノタチ)』。兎角が生み出した奥義はその名を借りて『一塵之太刀(イチジンノタチ)』という。

 極近からの脇差しの投擲――それに依って敵の動きを回避・防御からなる十の『型』に判別し、天に上げた一刀の下に斬り棄てるという絶技である。

 相手の『受け』の選択の余地を極端に絞ることで、振りかざす太刀の道筋を定めるが故に、どのようなモノでも刃から逃れることはかなわない。

 殊に無雲斎のように『受け』に馴れている敵は必ず最適な回避を選択する。それが命を刈り取る罠だと知らずに。

 技の間合いは、最低五歩。最高九歩。

 この眼前に現れたら最後――確実に首を刎ねる。

 右の太刀を天高く掲げて、半円を描く。

 左の手もまた、半円を描く。

 自然流麗な動きで以て左の腰に添えられる。


 そして、兵法至極に達し、円満つる――――――


「――っ」

 兎角の驚嘆の声は、世に生まれて嘗てないほどの混乱に塗れている。

 彼の左手は、虚しくも空を掴んだのである。

 見れば、鞘はあれど刀はなく。刃を収めるべき孔は、昏く、何も咬むことはない。

 

 ――消えた!? 否、稽古後は確かに……!

 

 混乱はわずかに刹那。

 その刹那の熟考で解に至る。

 瞬間、背後から声がした。

 何か失せたか――と。

「莫迦(ばか)なッ!」

 

 ――真逆、あの刹那の一合に……!

 

 川辺での邂逅。

 泥に紛れ、腹を打ち据えられたのは目晦まし。

 あの時既に、無雲斎の策は打たれていたのだ。

 

 ――

 

 振り向き様に紫電の一閃を放つ。

 音もなく寸断される紫の布。兎角が斬ったのは――小判の詰まった囮であった。

 刀身にかかる圧で、それに気付き。

 溢れ出る黄金。弾けた光の先。

 月明りを満身に受ける、蝙蝠に魅入る。

 空を舞う獣物は――小太刀一つで、二階の壁に張り付いていた。

 

 サカヅキに笑う。

 失せ物はこれかね――と。

 

 言霊が脳髄(あたま)に響いた刻、兎角は瞳を限界まで見開き。

最早、呼吸(いき)を止めていた。

 

 空を仰ぐ。

 雲無く晴れ渡った――夜天。

 なるほど、晴れ渡る空は陽のある内とは限らない。

 この虚心(そら)こそ、無雲。

 あの男の憧憬であったか。

 突き刺さった刃が喉元から溢れ落ちて、虚ろな響音を鳴らす。

 

 ――宜(むべ)なるかな。

 と、ここに至って納得した。

 

 ――たしかに、人の命はかくも軽い。

 

 されど口元の歪みから漏れるのは赤い流れのみであった。

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