目覚め。


  

 ――兎角は悪夢から不意に目覚めた。

 

 原因は音である。

 わずかに風を切る音が、兎角を狂おしい地獄から呼び覚まさせた。

 響いていたのは木太刀の風である。

 

 陽の登り始めた朝に、兎角はゆったりと身を起こす。

 血腥(ちなまぐさ)い夢を見た直後だったからか自然に太刀を手に取っていた。 その瞳は血走っていた。

 興奮していたのだ。

 飢えていた。

 夢想の血に酔っていた。

 

 ――この振り音は、並々の剣筋ではあるまい。

 ――真逆あの無雲斎であろうか……?


 奇妙な期待とともに道場へ続く戸を開ける。

 途端、兎角の殺気は急激に落ち着きを見せた。

「……む」

 拓けた視界の中心に、男が一人。

 振りかざす木太刀を止めて、兎角を見据える。

 浅黒い三角の顔。顔の部位がいちいち大きく派手であり髪はひどく傷んでいる。

 歳は三十ばかり。背は兎角より頭一つ低いが、無駄のない引き締まった肉体を持ち、黒鉄のごとき磐石さを滲ませている。――何よりも剣豪然とした気迫や生気に満ちた男であった。

「お前は……いや、貴方は、もしや二番手の…」

 突然現れた遣い手に、兎角は瞬時に素性を悟った。

 この男は――自分と同じ、剣豪であり――そしてまた、あるいはお泉よりも強い。

 ならば、未だ見ぬ夢想願流の二番手に相違ない、と。

 さらば剣士として兎角の上をいく遣い手である。

 無雲斎やお泉のような異質ではなく、正当でまっすぐな強さが、彼にはあった。

 相手もまた、兎角の正体を察してか快活な――故に奇怪な――笑顔を浮かべる。

「応(オウ)。お前が例の新入りか。ならば、名乗らねばならぬな」

 堂々と胸を張って、彼は宣言する。

 語尾を異様に際立たせる奇妙な語り方であった。

「拙者こそは佐藤嘉兵衛(かへえ)。ここでは、無雲斎師匠に継ぐ二番手――元はお前と同じ廻国修行の剣豪である」

「己は志乃田兎角――江戸で剣法を学んでおった者だ。今は士官の道を閉し、今一度剣の道を究めんと想い、この道場に厄介になった」

「三千代殿に聞いたがな。お前様は何でも、あのお泉殿と一進一退、猛る龍虎の戦いを演じたそうだが、中々どうして骨がある!」

 ニッカリと笑いながら嘉兵衛は言い放ったが、兎角の表情は対照に昏く沈んだ。自身で想っているよりも、昨日の黒星が尾を引いていたのだ。

「己は初め、無雲師匠を倒してやろうと意気込んでおった。されど――三番手の侍女に完膚なきまでにやられて、心改めてここに残ったのだ」

「であろうな……しかし気に病むな。拙者も、初手のあの娘にはしてやられたものよ。一刀流皆伝と謳われた拙者も、志断たれんと想ったほどだ」

 と、いってから自身の下半身を見た。なるほど――本当にしてやられたらしい。

 彼の無念は、海よりも深く理解できた。

「拙者もそれが悔しかったのだ――だがしかぁし! 仙台藩士として伊達公に任をいただき、この二年で漸く二番手の座に登り詰めたのである! ふははははっ!」

 だからお前も精進するのだぞっ――と、男は明快に笑う。

 お泉を越えるということは、最も無雲斎に近い剣豪が彼ということに相違ない――のだが。

 想うに、彼は並々ならぬ精進の果てに夢想願流の極意を引き継いだのだろう。一見して為人の平常である佐藤嘉兵衛もまた紛れもなく、この魔窟の住人なのである。

「ぬぅ……ところで、嘉兵衛殿」

「何かね」

「三千代殿から聞いた話だが――無雲師匠は不意打ちを何時でも受け入れる心構えでいるとか」

「たしかに――侍女たちだけでなく、我ら門下一同も如何なる時も無雲師匠を驚嘆せしめよ、といわれておるぞ」

 此れは兎角の予想通りであった。

 実に無雲斎受身の修行法は全ての門下にも課せられている。

 なればこそ、兎角にも不意打ちを試してみたい気持ちが沸き上がってきたのも無理からぬことであった。

 腕試しである。昨日は測れなかった無雲斎との実力差を知るのも悪くない。

 

 ――やるか。


 兎角が決心を定めた時、嘉兵衛は眉根を寄せて、腕を組んだ。

「心に留めておけ。拙者も正面から――それも同尺の木太刀と云う条件がなければ、無雲師匠に競り勝ったことはない。否、むしろ」

 と、嘉兵衛は難しい顔をした。

「不意打ちに対してこそ、老剣は照り輝く。あの方は――隙がない。それが故に、隙を衝かんとする意が攻める側の隙となってしまうのだな」

「なんと――」

 嘉兵衛のいう通りならば――彼を相手取るならば正面から、真剣で、正堂を以て勝敗を決するのが最善と云うことか。簡単なようで、一番に難しい方法である。

 兎角の思惑を察してか嘉兵衛は――それでも強いぞ、と念を押した。

「しかし、これは善い機会であるな。ならば無雲師匠の手並みがどれほどか。――拙者が示して置こうぞ」

 そうして、彼は勢い善く振り返った。

 すると丁度、道場に上がり込んだ影があった。

 豊満な躯をした侍女――三千代である。

「よっ、嘉っちゃん。今日も早ぇなぁ」

「むむ。三千代殿。今日もめんこくていらっしゃる!」

 兎角がいることも無視して、嘉兵衛は三千代を褒め千切った。

「――むぅ」

 本当に突然で、兎角は呆気に取られたのだが、千代はまたまた揶揄(ひじ)ってやぁ、と相手にしない。二人に流れる空気を見るに、常日頃の挨拶のようなものらしかった。が、

「……無念である」

 沈んだ表情の嘉兵衛にとっては、冗談ではなかったのかも知れないが――希望を棄ててはいないのだろう。

 兎角にはなんだか不意に悲しい気持ちになった。

 続いて、三千代の後ろにある戸から門弟たちが現れる。朝の稽古に来た五人である。侍が三人。若い娘が一人。凛とした少年が一人。

 皆一様に嘉兵衛に同情の視線を向け、兎角には好奇の眸子を向けてきた。

 兎角の風態はどう見ても野蛮者なのだから仕様のない話である。

「昨日、夢想願流の門を潜った――志乃田兎角という男だ。見た目通りの剣法上手である。皆皆、この新入りに遅れを取らぬようにな」

 嘉兵衛の紹介に合わせて頭を下げると、門弟たちも各々に名を名乗り、素性を明かしてくれた。

 ――驚嘆すべきことに、彼らは兎角の巨躯に怯んだ様子はない。同郷の者のように快く受け入れてくれたのである。其れは自らの醜態を自覺する兎角にとって、少なからぬ衝戟を与えた。

 天は尊く地は卑し、天は高く地は低し。

 上下差別があるごとく、人にも又君は尊く、臣は卑しきぞ――と、豪語したのは江戸朱子学者の林羅山であったか。されど、そのような上下定分の理などここにはない。

 ここは神君摂(おさ)むる江戸ではないのだ。

 ようやく兎角は、その実際を感じたのであった。

 しばらくして――素振り稽古する門弟たちを横目に、嘉兵衛と兎角は静かに縁側を出た。

 眼前には良く手入れされた小庭園がある。

 池には小さいが赤い欄干も付けられており、都にある公家の庭園を極限まで縮めて、植木を自然に任せたような眺めである。

 その景観の一部を嘉兵衛は指す――自然に紛れて、紫の着流し姿が座り込んでいた。

「あ、あれは……!」

 池の前に座り込んで魚に餌を遣っている老人。

 誰がどう見ても、隠居の爺であった。

 言われなければ気付かぬほどの調和。

 兎角は逆に冷や汗をかきながら、嘉兵衛の方を見た。

 彼は木刃の凶器を握っている。顔は先ほどと同様に――快笑。視線が合うと、彼は一度頷いてから庭に降りた。

 普段と変わらぬであろう歩調で隠居爺――無雲斎の背後に立つ。違和感はなく、殺気もまた皆無。

「無雲師匠。今日もまた、空が美しいですな!」

 声に反応して無雲斎が腰を上げようとする。

 彼が、そうだねぇ――と返し終えるより早く。


「――隙有りぃィィィ!」


 嘉兵衛は木太刀を振り下ろした。

「あっ――この外道っ!」

 叫んだのは無論、兎角だ。

 しかし、この心慮は全くの無為であった。

「っ、ぐ……ぬぬ」

 叫んだ途端に――呻いていたのはむしろ嘉兵衛の方だったのである。

 無雲斎は無傷。泰然自若として動じない。

「二日続けるのはいかがかね――驚かせるなら、日を改めた方がいいよ。やはり、お前は正直が過ぎる」

 風に笑って、翁は再び座り込む。餌遣りを再開したのだ。

 嘉兵衛は耐えるようにしてそこに立ったままである。

 驚嘆すべきことに、無雲斎は木太刀を躱すように横に動いた後、一拍の瞬間に地を強く蹴り、全力の肘鉄砲を嘉兵衛に叩き込んでいたのだ。

 何よりも――それを敵に一瞥もくれずに行う辺りが達人の業たる由縁であろる。

 兎角が呆然と関心したのは必然であった。


 ――おのれ、無雲斎め!

 

 思った通り人身に非ず。獣のごとき俊敏さである。

 人知れず慧眼を強め、思慮に耽る兎角。

 背後で見物に出てきた三千代や門弟たちが、嘉兵衛の健闘を讃えるように野次を飛ばしている。

 当の嘉兵衛は苦痛にも動じず、声を張り上げた。

「と、このように――無雲師匠には、不意打ちは通じぬ! このままでは勝てぬ。勝てぬほどの相手である。たとえ勝てぬとも――拙者はめげないが――なっ!」

 他の門弟たちが冷やかすのを聴きながら嘉兵衛は高笑いに笑い出した。

 この男もまた、様々な意味で遥か常人ではないようだ。

 されど彼の無謀により兎角には得た情報があった。

 三千代や嘉兵衛の話と今の所作を観察することで、無雲斎の強さの一端を読み解くことに成功したのだ。

 

 兎角が察するに――松林無雲斎の強さの淵源とは即ち『受け』である。


 本来、刀法は『攻め』についての深く学び、術とするのが常だ。剣術は殺す為の術故に、これは至極当然である。 

 例外として、江戸の柳生新陰流なる剣術流派は受け太刀に重きを置くようだが――聞く限り夢想願流の稽古はこの例外とは違う。正当な剣術の強みを持っている。

 だが、夢想願流にあっても無雲斎は例外に近いのだ。彼は常日頃から自らを狙われる身に置き続けている。わずかの緊張も緊張とせぬことによって、極限までに油断を殺ぐことを可能としたのである。いついかなる状態でも持ちうる技を遺憾なく発揮することが出来るのであれば――技術(わざ)、肉体(からだ)、それ以前の精神(こころがまえ)に置いて優っているのは道理である。

 お泉――あるいは夢想願流――の俊敏な動きは流水に例えられたが、この無雲斎に至っては流水が入り込む隙間もない鉄球といえるか。形状(かたち)からして既に間隙がない。

 故に無雲斎の自分より強いという言葉は、攻めにおいては門弟に一歩譲るという意味に違いないのだ。

 ならば実際は、無雲斎の方が打ち勝つに難(かた)い。

 少なくとも兎角にとっては、仕合には勝てても、死合に勝てねば意味がないのだ。兎角の驚愕は――至った答えのみではなく、無雲斎のそこに至るまでの人生全てである。

 果たして――そこまでの受け手の経験を積むのに、どれほどの修羅場を越えなければならないのだろうか。

 門弟を相手取った修行だけでは足りないはずだ。

 寝食、常時――呼吸一つ吐く間に死するかもしれない狂気の果て。殺し殺されることを公然とした地獄のような日々の結実。

 戦国の剣鬼ですら、このような境地に至った者は少ない。

 兎角は一人で納得して、深く肯いた。

 

 ――積み重ねたて来た人生(おもみ)が違う。

 ――今の己では、確実に……勝てぬ。

 

 思い至って逆に笑みが溢れてしまう。

 角のある細目が更に細まり、奇怪さを増した。

 その表情たるや縁側に戻ってきた嘉兵衛が――随分と楽しげであるな、と心配したほどである。両者を賛辞する言葉を述べながら――兎角は笑顔のままに、途方に暮れた。

 彼は無雲斎を越える為にと仙台まで来たのだ。

 夢想願流の門に下ったのも、手の内を暴いてやろうという意気込みあってのものだったのだが……。


 ――さていよいよ以て、帰陣は遠く。


 敵は遥か雲の上の住人。

 夜天の蝙蝠。

 生半の兵法では同じ土俵にも立てぬ。

 兎角は深く、沈み込むような溜息を吐いて――まずは、道場の住人に馴れることから始めることにした。


 ただ、その獣物の心に爽やかな春風が流れ込んできた事実を、彼自身は自覚しつつあった。

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