蝙蝠伝奇。
試合の後、兎角は呆然自失のまま道場の休憩所に通された。
六畳一間の――何の風情(おもむき)もない部屋である。
ただ、一つだけの格子窓から斜陽がいくつかの筋となって室内に奔っていた。
「お泉さんがすまねかったなぁ。ほんと、いつも怖えんだぁ、あの人は」
と、目前で三千代が座る。丸く体がまとまっていた。
兎角も釣られて、腰を下ろした。しかし、心に生じた惑いはまだ晴れぬ。
相手の言葉を待たずして、兎角は前のめりに訊ねる。
「あの、お泉という女――何者だ? 凡庸な遣い手ではあるまいが……」
お泉は夢想願流の三番手だと自称していたが、肯けるほどの実力であった。
あんだも中々だったよ――と三千代は世辞を述べてから、少し困ったような表情をした。
そうして、おれもあんまし知らねんだが――と前置きをいれた。
「あの人ぁ、師匠(せんせい)がどっかの山に篭って修行してた時に拾ったんだど。んだがら、誰も事情は知らねぇ。お泉さんも話さねぇし、師匠なら知ってっかもしんねぇけど……んなの気にする人はいねんだ、おらだちの道場には」
見た目通り、おしゃべりな侍女である。語りは先ほど初めて会った間柄とは思えぬほどに流暢であった。
しかし、山で修行していた時に出会ったというのなら――なるほど、あの女も並みの事情持ちではない。あの重く沈んだ気配も、深き因縁あってのものなのだろう。
「お泉さんは関東から師匠について来た唯一人の門人なぁ――んだから腕っ節が違げんだ、これが。男どもを千っては投げ千切っては投げ。初日の騒ぎはもう、おれだぢの中では伝説だっちゃね」
「無雲斎秘蔵の直弟子ということか……。強いはずだ。打ち克つに難いに相違ない。だがあの為人(ひととなり)、凡そ回りに馴染めるものではあるまい?」
「んなことねぇど。あの人はおれと違ってめんこいからなぁ。男にゃ受けがえぇ」
と、三千代は兎角の方を微笑んで視る。
――あんだもあぁいう女が好ぐんだろう?、と。
兎角のそれは普通の好色(すけべえ)心とは違うのだが、三千代辺りから見れば同じなのだろう。なんだが座りが悪くなったので、話を逸らすことにした。
「……お泉殿についてはよう分かった。では、三千代殿は如何様な因果にてここに?」
「まっ!」
唖然とした声を出して、三千代が口元をおさえる。
何か――勘違いさせたようであった。
「おれにも興味あんだかぁ……照れんなぁ。剣の修行じゃねくて、女漁りにでも来たんだな、あんだ。んでも、見境ねぇのほどほどになぁ……?」
この侍女の調子に合わせていては進む話も進まぬ。
兎角は仕方なく、怖い顔をして話を促した。
侍女は其の顔の真剣さを男の熱意と感じてか、一層にへらへらと笑った。
「おれはなぁ、まぁ――師匠が仙臺に来てからの付き合いだけんど、武家の次女だから奉公に出されたんだな、これが――後は、うん。内証(ないしょ)だな。うふふ」
おれ、御淑(おしと)やかだから棒切れでひっぱだぐなんでできねぇんだ――と、売り込みまで入れる始末。
万が一、お泉と張り合っているのであれば見当違いも善い所である。
兎角はそれでようやく諦めて、話を道場の方に戻した。
ここで兎角は松林道場の成り立ちから作法、決まり等を雑多に尋ねた。どれも巷に数多ある武芸所とも相違は少ないが――やはり女子どもまでに剣を教え、身分を問わず町に根付く在り方は稀である。これは剣法の栄える関東やら西国には余り見られない風習であった。
松林の道場は町民からは身分の柵(しがらみ)のない、神社仏閣の如き扱いを受けてさえいるらしい。聴けば聴くほどに奇妙な話だが、意外なことに剣を学ぶ上では中中に良い環境のようなのだ。
そも、雄名を馳せた剣法家の多くは武士階級の外れ者や百姓町民の出であることから判るように、正当な武家の嫡男よりも下々の人間の方が膂力が強いのが実際である。鍛えずとも体付きが違うのだ。
武家などは刀という権威を纏わねば、各々の膂力は多寡が知れている。その実際を剣法を学ぶ武士は知らねばならぬのである。
技術(わざ)の根幹は肉体(からだ)。そして、その更なる根幹に精神(こころざし)が来る。この道場では、その流れを正しく知らんがために、この一見奇妙な構図を赦している。
伊達藩は他藩に比して武家が多いという話だが、この道場に通う者は確りとその理を弁えているに違いない。ここは剣のみならず人心を育てる場でもあるのだ。
廻国の者を快く歓迎するのも、仙台藩士の育成のために、外を知るが良し、と云う思惑があると云う話であった。
頭に花を咲かせそうな三千代がそこまでの事を語ってくれたのは意外であったが――兎角の中で色々と蟠りが霧消したのは確かである。階級意識の緩さは、無雲斎の道楽に依るものではなかったのだと安心して――なぜ己が安心したかもわからぬままに安堵の息を吐いた。
さて――と三千代の話も一段落したところで、兎角はもう一つだけ蟠りを尋ねてみた。
それは教導者としてではなく、剣豪としての松林無雲斎に対する懐疑の念であった。
「松林無雲斎は――真に、優れた遣(つか)い手なのか?」
彼は小背痩躯であり、歳も若くない為に、全盛の剣法は扱えないはずである。どう足掻いても人間である限り、気力体力は衰える一方なのだ。
くわえて、かの男からは積み重ねた年月から滲み出るような剣豪然とした圧もない。肚の底は知れないが、むしろ異様さでいえば手合わせした侍女の方が強かった、と兎角は考えているほどだ。
技法の練度が同等かそれに近ければ、夢想願流の二、三番手の方が打ち破るに難い、ともいえるだろう。
兎角の弟子入りを志願した分際とは思えない無礼千万な発言を――しかし、侍女は一笑した。顎肉が揺れるほどの大笑である。
「ぐふふふ。いやいや、おらだちの師匠は凄い人だど。あんだが想うよりもずっと、ずぅぅ~~っとなぁ。あの方は謙遜してんだ。お泉さんも嘉(か)っちゃんも……師匠には手も出ねぇのが本当だぃ」
「……どういうことだ」
そんまんま、と彼女は即答する。
絶対的信頼故か、一点の疑いない確信に満ちた言葉。眸子に虚はない。兎角の経験から類推すればこれほどまでの信頼は並々のことでは育まれないものだ。
ならば即ち、無雲斎を強者足らしめる出来事があったに違いない。
兎角がそのように尋ねると、三千代は鼻息荒くこれに応えた。
――まだ三千代が無雲斎の侍女に来て日の浅い頃のことらしい。
彼は初対面から侍女に対して『何時如何様な時でも善いが、己を驚かしむる事をしでかしたならば三年分の金子を渡して暫くの暇をやる』といっているそうである。
そして今年、正月のある日、無雲斎が泥のように酔って家に帰って来た。中中に酷い泥酔であったらしく、彼は閨に至る前に力尽き、障子の閾(しきい)を枕にして倒れて寝てしまった。
三千代はこれは善い契機だと思い――金子欲しさに、無雲斎を驚かすことに決めた。
その方法というのが――頭蓋を砕かんとする勢いで障子を閉めることであったのだ。
今にして想えば無茶したもんだ、と三千代も大笑しながら反省の意を述べていた。
反省の真意は兎も角として、無雲斎の頭蓋は実際には砕かれなかった。
驚くことに――この時、障子は固く動かなかったのである。
当時の三千代が驚いて動けないでいると、無雲斎が目を覚まし――そんな事ではとても暇は上げられぬよ、と赤ら顔に笑ったのだそうである。
実にこの無雲斎――閾の溝に鉄扇を挟んで寝ていたのだ。それで障子は止まってしまったのだと云う。
熟練の老剣士は、若い侍女の考えることなどお見通しだったのである。
正に一点の滞(くも)りなし。
海を往く者が風を知るように。
山を行く者が渡り行く道を違わぬように。
剣を征く者は己に降りかかる一切を制する。
全く剣豪として凄まじい逸話なのだが――。
「少し、やんちゃが過ぎるのでは……」
「だべ、ほんと凄げぇ方だっ!」
三千代の無邪気な言葉に兎角は慄いた。己の事だと自覺が一点もないのか、と顔を引き攣らせてしまう。
あの師にしてこの門弟有り。破天荒が過ぎる女である。
そして、もう一人の侍女もまた奇妙奇怪。
兎角にとって、此の道場は化生妖怪の魔窟に相違ない。
「恐るべし無雲斎! さらに恐るべしは侍女二人……!」
慄き震える兎角に対して、三千代は――その顔のあんだがおうか、と少々酷いことを言い放った。
兎角は反論もできずに唸ってしまう。
侍女との話はそれで終わり――三千代は特別に何をするでもなく部屋を出て行った。
己についてはほとんど何も語っていないな、と兎角が気付いたのは、正にその時であったのだが――何かできる訳でもない。
畳の上に体を倒し、夜に微睡んだ。
疲弊した心身はすぐに睡魔を受け入れて、いつものように、昏い夢に覆われる。
***
――兎角には毎日のように見る悪夢があった。
靄(もや)に隠された芒洋とした男が兎角に縁故のある人たりを撫で斬りに殺し尽くすという夢である。
場所は――兎角が江戸で学んだ剣の修行場――斜陽を越えた赤の世界。倒れ伏す人々は廻国の修行に賛同し、金子を都合してくれた多数の恩師たちであり、剣の師であり、一心に兎角を育てた母君である。
彼女らを演者にして露になるは阿鼻叫喚の地獄絵図。
斬り裂かれる痛みに藻掻き、血漿を撒き散らし、明らかに命は終わっているのに――絶叫は止まず、苦痛は終わらず。赤くなって地を這い回り、のたうっている。
この動きは、己が今まで殺した人間の動きを元にしていただろうか。
奇妙なことに地獄を戸の閾の向こうから眺める兎角はまだ赤子であった。
赤子の瞳から、壮絶な死相を見つめている。
そうして、もう一つ奇妙なことがある。
苦痛と怨嗟の絶叫を撒き散らす半死人は――どれも皆、今も生き存えているである。皆、江戸からの出奔を見送ってくれていたはずだった。
彼女らの血に濁った目は下手人ではなく、一心に年若い兎角に向けられている。 狂気の形相、人間の業の発露とも云うべき顔。故に、靄のかかる下手人よりも赤子兎角には、その見知った人間たちの顔が恐ろしかった。
そして、異口同音に母たちはいうのだ。
――己の仇を討てと、怨みを晴らせと、殺せ、殺せ、その為にお前は生まれたのだと。
なぜ、兎角がこんな夢を見るのか。
正答(こたえ)は、下手人の顔を見ればすぐ判る。
靄が晴れればすぐ知れる。
今までの夢ではその靄を見通すことはできなかった。
いつもならばこの場面で夢は終わっているのだが、今宵の夢には続きがあった。
憎悪の視線を受けた赤子は、急激に――山のような大男になっていた。今この時の兎角にまで成長していた。
瞳は嶮しく、そして、靄を見通そうと輝く。
――敵は、誰だ。
――仇とは、何だ。
刀で執拗に活きた死体を斬りつける男。
全身が赤く濡れて――黒髪の下に覗く口元が、嗤う。
虚と実が判然としない朧げな陰影。
改めて見れば、何故今まで気付かなかったのだろうか、と。
血に濡れたあの男は――ずっと前から、小柄で、鉤鼻で――蝙蝠のような着物をまとっていたというのに。
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