夢想剣術物語 松林無雲斎

超獣大陸

一手の指南。


 無雲(むうん)。

 ――雲無く晴れ渡った心奥の境地。


 その名こそが、かの剣豪が自ら科した号であったか。

 松林無雲斎(まつばやしむうんさい)。諱(いみな)を永吉(ながよし)。

 文禄二年。一五九三年――永吉は常州鹿島の地で上杉家家臣永常(ながつね)の長子として生を受けた剣豪である。

 後に天下を分ける大合戦を待たずして出奔、廻国修行の野に放たれる。

 二十半ばに至り、彼は独自の刀法に槍術と長刀(なぎなた)術をも混淆させ造り上げた兵術一流――夢想願流(むそうがんりゅう)に開眼した。

 後の寛永二十年。齢五十となった無雲斎は伊奈氏の強い薦めにより仙台藩二代藩主の伊達忠宗(ただむね)が次男、光宗(みつむね)の剣術指南を拝命する。しかる縁により、仙台城下に剣法屋敷を構えるに至ったのだ。

 

 彼の剣名は若き青年の折より芽吹き、壮齢にして遥か遠く、東北の地に根を下ろす大木にまで育った。

 されど、光宗は無雲斎の士官からわずか二年後、十九の若年で早世してしまう。そこには彼が将軍家の血を引く世子で有り、江戸国家の中枢に関わる並々ならぬ裏事情があるようだが、今やその真実を知る術はない。

 何にせよ、仕えるべき主を失い、無雲斎は一時先が危ぶまれたが、その上で藩主の強い頼みに依り、その後も道場を続け、藩氏育成に尽力している。

 今やこの老師範は藩の武術指南役の中でも揺るぎなき磐石な地位に付くに至っている。

 藩士のみならず、気概ある町民や武家の娘にまで剣を教えていると言うのが世に伝え聞く専らの噂であった。

 

 剣法を女にまで教えるとは奇妙奇怪にして神妙奇特。

 しかして、かの無雲斎なら然もありなん。

 彼は過去、関東周辺では永らく変人奇人として風聞を立てていた。

 

 柔和(うらやか)に笑う。五十にして枯れ過ぎた剣気。血に濡れた相貌は苛烈さに欠け、冷徹が殺げている。

 虚と実が判然としない朧げな陰影。

 彼の剣は如何様な夢を想い、如何様な願いを立てるのか。

 昔日に聞く、わずかながらの話に曰く。

 

 ――あの男は蝙蝠(こうもり)の如きであった、と。



***



 風に揺れ花が舞う。中春の小通り。

 東北の都、仙台城下の片平丁町――松林無雲斎の道場屋敷門前である。

 頭上の看板を眺めながら一人の男が道場主に想いを馳せていた。

 鋭すぎる瞳と大雑把過ぎる顔立ちを持ったその男は明らかに堅気ではなく、獣物(けだもの)の類であった。

 名を志乃田兎角(しのだとかく)。六尺に届かんばかりの巨漢である。

 毛並みは荒く山犬のごとき総髪。また、身体は猛熊のごとき剛健さを持っていた。

 風態だけ見れば野党や山人の類だが、その実、彼は大小二本差しの武家であり――齢二十六、諸国に人を斬る剣豪であった。


 そして廻国の剣士が道場の前に立つということは――唯一つの事を表していたのである。


 偶然か必然か。夕暮れの通りには人の姿はない。道場のある片平丁はそも、仙台藩の上級藩氏宅が多いという話だが、今は彼らの気配はなかった。

 一瞬だけ、兎角は醜顔に似合わぬ皮肉な笑みを浮かべる。

 遂にここまで来てしまった――と、暗雲の兆した相貌(かお)をしたのだ。

 嘆息し、顔を剣士のモノに変え、意を決する。

 大男の彼が見上げるほどの大門に向かい、嗄れた声を張り上げた。

「たのもぉぉォォ!」

 腹の奥底から、低く唸るが如き音。

 静寂の通りに、彼の言葉は嫌になるほど善く響いた。

 応えはすぐに門の向こうから。はたはたと忙しく近づく足元。

「はいはーい!」

 若い娘の声が聴こえ、四角い覗き窓が開く。大きく丸い二つの瞳がその空白からこちらを覗いた。

 娘がこちらを見つけたのを契機(きっかけ)にして、兎角は巨躯を不自然に曲げて礼をする。

「己(おれ)は――江戸で剣法軍学を積んでおった志乃田兎角と申す者にて」

 歯を見せ、醜怪に笑う。

 それは凡夫を慄かせるには十分の威圧を持っていたが、娘は――獣物の笑みを見ても動じた様子はない。

「そりゃまぁ天下の大江戸から……随分と遠くから来んなすったもんで。長旅お疲れさんがしたぁ」

 訛りに訛った仙台弁。覇気とは真逆の、春らしい和やかな声であった。

「んで、御用はなんでがすか?」

 軽く問われる。

 それでいて姿を見せないのは、隙のない証拠か。

 ――油断はできない。

 兎角の眸子が強い耀きを帯びた。

「己は無雲師匠(せんせい)に、一手の指南を願いに来た次第」

 彼は獅子奮迅の覇気を以て言葉を発っていた。

 ここに来た唯一つの目的――宣戦布告。

 この時代、修行者の指南願いとは道場破りや剣名剥奪と半ば同義である。

 というのも、この指南の内に道場の主を倒してしまえば名声は途端に逆に転ずるからである。道場破りは名を馳せた道場主を倒し、己を知らしめる手段なのである。

 即ち、士官を懸けた一大蹶起(いちだいけっき)。

「よろしいか?」

 兎角の険しい視線に、娘は――わずかにだけ瞳を細めた。

「いがす」

 応えの後すぐ、重い閂が外され、木門が観音開きに開いていく。

 地鳴りと共に、紫着流し姿の小柄の老人――おそらくは住み込みの小者であろうか――それと声の主である仙台訛りの女が姿を現した。

 茶と黒の錦織物(にしきおりもの)――肉付きの良い、丈夫な体(からだ)。

 歳は二十ばかり。丸顔に乳臭さの残る、晴れやかというより快活そうな女である。

「おれは師匠の侍女をしちゃる――三千代(みちよ)でがす」

 三千代と共に隣の老人も頭を下げる。慣れているのか、彼女らは修行者の来訪に驚いた様子もない。 

「んでは、こっちさ、あばい」

 兎角を手招き、三千代が奥の屋敷に誘う。

 ――あばい? 来い、と言う意味だろうか。

 兎角は仙台弁を半ばしか理解していない。

 それがまた、心に奇妙な蟠(わだかま)りをつくる遠因となっているのだが、相手はお構いなしに進んでいく。

 池のある庭園と眼前に見ゆる大きな稽古場。

 兎角の調べでは――松林の屋敷は大きく二つの建物からなる。

 縦長の敷地の手前にあるのが兵法道場。普段は百人もの門弟がいるだけ有り、小城の馬屋並の大きさがある。

 奥には庭園付きの書院造り。此方は松林と住み込みの侍女二人、馬口取り小者の住まいである。比較的に質素なもので、余り大きくはないらしい。

 兎角が三千代に連れて行かれたのは、両側の縁側が開けた道場である。

 奥には力強い筆使いで描かれた『夢想願立』の掛け軸と、木刀と木戟(もくげき)が掛けられている。

 昼間の内に数十の門弟が汗水を流していたであろうに床は鏡のごとくに磨かれ、斜陽を受けて赤く輝く。

 三千代たちは一度兎角を道場に残して、住まいの方に誰かを呼びに行った。その間に兎角は殺風景な道場を観察した。

 時の感覚が曖昧になる。

 長短の別が消え失せる。

 抑え難き期待と高揚が、彼の中に燻っていた。

 ただし、兎角とて初めから無雲斎と刃を交えられるとは想っていない。門下の一人でも完膚なきまでに叩きのめせば、本命である無雲斎を誘き出すことができる、と漫ろに考えているに過ぎなかった。

「……なに」

 だが現れた相対者の姿を見て、その思惑は破綻することとなる。

 兎角はこれ以上ないほどに瞳の角を立たせた。

「いかなる戯れか! 己は無雲師匠に指南を申し込んだのだぞ!」

 だというのに――男が引き合わされた敵は、剣豪ですらない。

 奥から現れたのは、先ほどの二人の他にもう一人。


 ――女であった。

 全身に翳りを滲ませた――仄昏(ほのぐら)い女。

 

 一目見たとき、兎角には電瞬のごとき感覚があった。滲み出る気から、女がただの侍女ではないことを看破したのである。

 白磁器色の肌に目元の上がった器量良い相貌。色は薄く――確かにゾっとするほどに美しいのだが、三千代と対照の病魔の如き暗気を内包していた。

 髪を後ろに纏め、錦織の両肩口を縛った佇(たたず)まいは近寄り難さに加えて、棘のような攻撃性を彷彿とさせる。

 女人というよりは女の形をした陰にも見て取れる。

 女は思惑の知れない臈(ろう)たけた瞳のままに、兎角をじっと見据えていた。

「お泉(せん)に御座います。――道場では無雲斎の代わりとして、お相手させていただきます」

 その女は澄んだ鈴声でそう告げると、何一つ感慨もない足取りで――六尺の木戟を手に取った。

 余りに自然な所作であり、止める間もないほどであった。

「ま、待て! 女など相手にならぬ!」

 呆気を取られた兎角は暴言を吐いた。

 兎角にしてみれば女虐めで名を立てるのは御免だったのだ。

 およそ剣の道に於いて、彼の言葉は限りない侮辱を孕んでいたのだが――そこにはわずかに、女の容姿に心奪われたという負い目があった。

 されど、お泉は一寸も動じた様子はない。

 無情に。

 明瞭に言葉を返した。

「わたしは伊那氏の頃よりの無雲斎の門人。それに――わたしの初手は道訓(きまり)に御座れば」

 ゆっくりと歩を進める。迷いがない。気負いもない。

 影が揺らめく。

 剣法家めいた気迫はないが、心の知れない女である。

 三千代たちの方を見ると、二人ともまるで当然といった様子。三千代に至っては口元で笑んでさえいた。

 

 ――己は侮られているのか。ならば仕方あるまい。

 

 兎角は道場の木刀――二尺五寸のモノを取る。

 間合いの差は兎角なりの手心である。

「……傷を受けても、泣くでないぞ」

 それを眺めて女は――頬の陰翳が深くなる。

 皮肉なまでの艶笑。哂っている。

 女は長刀(なぎなた)の構えを取る。両の手が前後するように添えられ、刀尖(きっさき)が兎角の視軸(ひとみ)に重ねられた。


 ――む。少しは、やるようだな。


 一瞥して兎角は瞬時に考えを改めた。それほどの構えである。

 こうなれば最早、女は一つの鑓に同じ。存在はもう、得物そのものと渾然一体。

打ち倒すならば肉の部位だけでなく、その全体を崩さなくてはならない。

 流石、無雲斎直下の門人――相手にとって不足なし。

 無雲斎より先に、この女に一泡吹かせるのも良しである。

 仮令(たとい)、どれほどの使い手であろうと所詮は女。そして、兎角は野蛮過ぎるほどの撃剣使いである。勝てぬ道理はない。

 紛れもない上手の気配に対して、兎角は余裕の青眼に構えを取った。

 広々とした道場の中心に二人。

 立ち会いたちは累(るい)及ぶまいと壁際まで寄っている。

 兎角とお泉の間合いは三間――打ち込めば、討(と)れる。

 強く睨み、一瞬に流れる気配。

 風の全てを遁すまいと集中する。

 

 女は不動。

 鑓もまた不動。

 

 そうして、立ち会いに目配せをし、忽然とした態度で、兎角は名乗る。

「では――微塵(みじん)流、志乃田兎角、お相手願う」

「夢想願流――三番手、お泉――よしなに」

 女が言い終えた時、三千代が片手を大きく振り上げた。始まりの合図。

 否、その前に兎角は聴き捨てならない言葉があったことに気付く。

 ――この女が、

 惑いは確実に生まれ、三千代が手を振り下ろした時。

 

 いざ――始め!

 

 言い終りの刹那。

 兎角は反射的に踏み出していた。

 相手が想像を遥かに凌ぐ上手であるとするならば、間合いの差は恐ろしいほどに油断であったのだ。

 故に、心に残されたのは先手必勝の道。

 無策無謀とも見える一手。

 しかし、実に兎角は理知を以て動いていた。

 

 ――長棒の突きはまず引く動きを伴う。

 ――故に、この刹那の先を制する!


 女の鑓はまだ放たれない。

 心中で叫び、瞬間に兎角は太刀を振り下ろす。

 怒涛の一刀。

 致命的なまでに情け容赦ない脳天砕かんとする一撃。

 それは予想よりも疾(はや)く、兎角の腕から放たれ――木木が激しく拉ぎ合う。

「……っ」

 木太刀が迫り来る鑓を弾いた。

 全身の毛穴から、粘ついた汗が噴き出す。

 黒髪が揺れ、女の薄ら笑いが視軸に過ぎる。この時、兎角の胸中に奔ったのは真逆(まさか)の戦慄であった。

 ――先手を盗られたのだっ!

 先の一瞬、お仙は――突きを放っていたのである。

 尖によって、兎角の神経を知らぬ間に集中させ、その陰で右手は木戟の石突に添

えられていたのだ。

 鑓は掌の圧力をもって、引きを用いぬ当意即妙の突き技に転用されたのである。

正に、奇剣の類。

 これを捌けたのは兎角の僥倖であったが――しかし、まだ見積もりが甘過ぎた。

 ――侮っていたのは、やはり己の方であったか!

 瞬間にも、兎角は身を走らせていた。

 汗も流れきらぬ間の攻防。

 眼前に木戟が滑り込む。遁れるように兎角は跳ねる。

 続けて襲い来るは突き薙ぎ払いの連舞。

 刃を幻視するほどの勢いを去(い)なしながら、兎角は倍を越える距離を動かされる。

 ――なんと流麗な足運び!

 肚裏(とり)の呻きは最早隠せるものではない。

 兎角が持ち前の怪力で得物を弾き近づこうとも――次の一仭には無為に帰する。

紛れもなく刀の間合いではあるというのに、一向に攻め込む理には至らない。

 弾き、躱し、弾き、躱し、躱し、躱し続ける。

 岩のような獣物が、うら若き娘に翻弄されている。

 およそ、刀で鑓に勝つには数倍の実力を要するとされる――たとえ両者が同等であってもこの戦況を打破することは難しい。間合いとはそれほどの差であり、何よりその利点を知り尽くした相手は質が悪い。

 相手の女は早く――何よりも疾(はや)く鋭いのである。

 彼女の長刀術は、たとえるなら機を写し取る流水。

 流れる動きは一様には捉えられず、尚かつ獲物の動きの全てを自らに写し取る。後手でありながら先手に至る。

 兎角は差し詰め、流れに捕われる大魚であった。

 思考に焦りが滲む。

 彼は己の剣法にかなりの自負を抱いていた。江戸では剣術を深く研鑽し、他流道場もいくつか潰してきた。

 市中荒らす破落戸(ごろつき)共を撃ち続けた事から『下り天狗』と称されたこともあったほどの男なのである。

 それほどの自分が――女一人に敗れることなど、あって然る道理はない。

「ならばっ!」

 強引に太刀を弾き、女が間合いを開こうと離れる。

 同時に、兎角もまた大きく離れた。

 長大な空白が生まれる。木太刀の間合いは既に消え失せ、鑓の絶対的な優位が生まれてしまう。

 然れど、心身を正す余裕は生まれた。

 荒い息を整えて、女(ヤリ)を視る。

 女は、あれほどの壮絶な技を放っておきながらも涼しげな顔のままであった。隙など一寸もありはしない。わずかに胸を弾ませ、頬を上気させているが――表情は相変わらず。

 相も変わらず――

「――少しは心得がお在りのようで。……貴方ほどの方はそうはおりませぬ」

 その表情のまま、賞賛した。何処までが本心で何処までが世辞なのか。思惑が全く知れない。

 ――本当の相貌はどんなモノなのだろうか。

 兎角の肚裏に、渦巻く情動があった。

「お前は今までに、廻国修行者に破れたことはあるか?」

「……おおぅ」

 問いに、女は――いえ、と小さく返す。その事実に、兎角は疲弊も消し飛ぶほどに昂った。

 ――ならば己が勝てば、忘れようとも忘れられまい!

当初の目的とは明瞭に異なる。

だがもうそれで良かった。

兎角が久しく忘れていた剣の道に封じられた感情――情慾に思考を支配されていたのだ。

 問答を終えて、確りと木太刀を構える。

 合わせて、鑓の尖もまた兎角を狙う。

 兎角の心構えは歪んだ方向に整えられたが、それが故に生来の野蛮な男は真の実力を発揮できるのである。

 畢竟(ひっきょう)、本心(かんじょう)の発露こそが彼の剣の真実なのだ。

 その圧を、女もまた見て取っているに相違ない。

 無言の相対――三回目の息が吐き出され、兎角の瞳が嗔(いか)る。対照に、女の瞳が昏く沈む。

 全くの同時に、両者は一歩――体を引き、突きを放っていた。

 間合いの差を考えれば、当然だが兎角の胸が先に打ち抜かれるのみ。

 だが――違う。

「ッ!」

 その真実に気付き、女の瞳が僅かに振れる。

 然れど、刻既に遅し。

 尖と尖が咬む。

 兎角の突きは――刀反りを上にして、執拗なまでに鑓先を狙って放たれていたのだ。

 荒波を風が切り開く。――刹那の拮抗。

 木太刀は長刀に深く滑り込み――跳ね上げる。

「打(ダ)ァッッ!」

 

 気迫。

 気合。

 一刀入魂。


 劣る流れ(わざ)、及ばぬ勢い(はやさ)は圧倒的な風(ちから)で以て弾き飛ばす。

微塵流――否、兎角の繰り出す剣法とは詰まるところその一念であった。

「――っ!」

 驚愕の息は女のモノである。白面に罅が奔っていた。

 兎角もまた高揚に破顔する。

 戦況は一気に移ろい流れる。双方得物は天を仰ぎ。

 一瞬のわずか――勝利の確信。長短の境が消え失せる。

 兎角は見かけに似合わぬ俊敏さをもって、間合いを詰めた。

 一歩。間合いは無に帰す。

 女は遁れることはなく――同時に一歩。

 女が何かを呟き――その声を掻き消す剣豪の咆哮。

 

 振り下ろされた二つの凶器。

 巨躯の獣物が、女を襲う。

 極近でぶつかり、弾ける。

 

 両者の視軸は――絡み合い。

「――痛(ツ)ぅっ!」

 悲鳴と共に身をわかった。

 尋常を越える激痛が兎角に襲い来る。

 継続的な痛み。

 彼が離れたのは獣物の本能に危険を察知したからであるが――遅かった。

 兎角は呻きながら、数間も後ろに跳ね飛んでいたのだ。

 苦痛によって、野蛮過ぎる相貌がさらに歪む。

「ひ、怯ものめ!」

 声はわずかに震える。

 ――なんと己を殺める気かっ!

 武器が交わり視軸が交錯した刹那に、兎角は人体の急所を蹴り抜かれていたのである。

 極限まで接触した押し合いの中で――要はを喰らったのである。

「夢想願流は、女に卑怯を教えるかッ!」

 叫んだ声は虚しく、斜陽の道場に響く。

 三千代と小者は苦く笑い、お泉は再び、顔に無表情を貼り付けていた。

 緩慢に、裳から露になる青白い大腿を下ろし――

「足業は外物(とのもの)なれば――教えもしましょうぞ」

 厚顔無恥に言い放った。

 こうも堂々とされては――剣豪は返す言葉がない。

 確かに、股を蹴ってならぬという道理こそない。

「卑怯卑劣と泣き叫ぶとは――それでよく剣豪を名乗れましょう。それでは――もう」

 再び、女の蔭りが皮肉に歪む。

 影絵の女が覗かせる感情。弱者を嫐(なぶ)るような――苛虐に満ちた相貌に兎角は目を奪われた。

 事実はどうあれ、この刹那に――兎角はどうしようもないほどの敗北感に支配されてしまったのだ。

 この敗北感と下腹部を襲う激痛は――更に兎角の倒錯した劣情を煽る。

 心を占める感情――疾く、一秒でも疾く、此の女の頭蓋を砕きたいと――無表情が苦痛に歪み、怨嗟を撒き散らしたとすれば――

 疼(じく)、疼(じく)――下肚から、理性が蝕まれる。



「もう、殺す」



 兎角はもう、獣物の顔を隠していなかった。

 理性の全てを投棄て、抱くは一念。

 暗雲は容を変え、逆巻く。

 構えは自然流麗な円の動き。左手が脇差しの鞘に触れた。対照に、右手の木刃は上段に掲げられる。

 右に天を衝(つ)き、左に地を圧(おさ)える。

 奇しくもそれは兵法の境地が一つ――

 場の誰も知らぬ異形の構えに空気は一変する。

 膨れ上がる緊迫。

 渦巻く血の匂い。それは武人の剣気などではなく――もっと静かに粘ついた殺気。

 兵法ではなく――紛れもない殺法。

「……貴方……」

 女は言いかけて、止める。言葉ではこの獣を止めることはできないのだと悟ったに違いない。

 わずかに警戒色を増し、両の手が武器を強く構えさせた。

 惜しみない否定の感情が向けられる――女の瞳にもようやく嫌悪に近い鈍色が滲んでいた。

 その感情が向けられていることが、今までのどんな目合(まぐわ)いよりも、兎角には刺戟的な官能を与えてくれる。

 総身が粟立ち、獣物は喉を鳴らした。


  ――っ!


 兎角が大きく息を吐き、全身の筋肉が脈動し、絶頂――絶叫を以て踏み出さんとした。

 瞬間――、と。

 静寂の中、声が響いた。

 嗄れた、それでいて圧を持った冷然とした声。

 その音で――理性の耀きを取り戻した。

 そうさせるほどの何かを声は持っていたのである。

 

「木剣の試合に小太刀を使うのは――それこそ卑怯卑劣の所業ではないかな」


 正に、その通りであった。

 獣物は理性に依って、牙を覆い隠す。兎角は武器を下げ、構えを解かない女に頭を垂れた。

 参った、と。

 片膝を付いて、素直に負けを認めたのだ。

 その総身からは一瞬前の気迫は霧散霧消に失せている。

 合わせて、その場の者からも圧力が消えた。


 ――口惜しいが、勝てぬ。


 正気に戻った兎角は、心の底から反省した。冷静さを失い、奥の手を三番手に使おうとした自身を恥じた。

 彼の最終的目標は、門弟を倒すことではないのだ。

 冷静に、頭を冷まして、事態の収拾を思考する。

 志乃田兎角はこの時にはもう――自らが無雲斎には遠く及ばないことを悟っていたのだ。

 故に、下げた頭をすぐに立ち会いの二人に向けた。

 そこには手を口に当て驚いた顔をする三千代。そして先ほどの声の主、に視線を向けた。

 兎角にとって真に敗北を認めるべきは、この男に対してなのである。

 稀代の剣豪、蝙蝠。

 曇りなき境地の男。

「御見逸れ致した――無雲斎殿」

 この小者が無雲斎だと、兎角は見切っていた。

 否、小者と称したのは兎角自身であり、実際――彼は名乗ってもいなかったのである。

 初めこそ見た目に騙され気付くこともなかったが、先の打ち合いの中で、老師は凡人とは思えぬほど泰然としていたのだ。

 ただの小者であろうはずもない。

 つまり、端から――量(はか)られていたのである。

 この予想を証明するように、二人の女は肩を竦めた。

「――あれれ。気づいたかぁ」

「やはり、貴方の謀(はかりごと)は上手くありませぬ」

 そうして、二人もまた小者風の老師――松林無雲斎に目を向けた。

 小さく息を吐いて、老人は背筋を正す。

「如何にも。この私が松林無雲だ」

 肯定。

 やはりである。

 改めて見る無雲斎は白が混じりの蓬髪に三角の顔、曲がった鉤鼻、瞳は小さく判別し難い色を持っていた。

 噂に聞くほど異様の風体ではない。

 ただ、紫の着流しが――空気に揺らぎ、羽を想わせるか。

 兎角は再び無雲斎に平伏し、叫んだ。

 

「どうか――己を夢想願流の門下にしてくだされ!」

 

 誰かが言葉を挟むよりも夙く、兎角はまくし立てた。

「己は自身の腕を過信して無雲師匠に挑まんとしたというのに、遣い手とはいえ女にさえ破れる始末。これでは剣法家として己の未熟に耐えられるはずもなし! 郷里に合わせる顔もない。無論、己の研鑽の為なら我が流派の敗北も認める覚悟!」

「……何を馬鹿な」

 背後から、お泉の冷たい一声がかかる。それを三千代は、まぁまぁと宥めている。

「ぐっ」

 兎角はそれでも平伏した。

 剣豪としてせめて夢想願流の剣法を学ばねばならなかったのだ。そうでなくば兎角が態々(わざわざ)東北にまで来た意味がないのである。

 屈辱のままに顔を上げ、無雲斎を観る。

 彼は別段――負の感情を抱いた様子はない。

 苛烈ではなく冷徹でもなく、菩薩のごとくの微笑。

 判然としない朧げな表情を湛えたままだった。

「私は別にかまわぬよ。学ぼうとする者を拒む道理はない」

「有り難く」

 松林無雲斎――懐の深い男である。これに気を悪くしたのはお泉であった。彼女は明らかに不機嫌な声で、

「全く、貴方と云う人は……後はもう、知りませぬ」

 吐き捨てるように言った。そして木戟を戻し、道場を足早に出て行ったのだ。

「お泉さん、ちょべっと待っちゃ――おーい! おーい!」

 三千代の声も虚しく、足音は段々と小さくなり、消える。

 住まいの方に戻ってしまったらしい。無雲斎は困ったように笑いながら、兎角の方に向き直った。

「あの娘のことは、まぁいい。気にするな。……ところで、お前は――兎角といったか」

「はっ」

「江戸微塵流か――歳は幾つかね?」

「……今年で、二七に成り申した」

 兎角が神妙な顔で答えると、無雲斎は少しだけ眉を顰(ひそ)めた。何か、考える所があるような素振りであったが、彼の表情はすぐに柔和なものに戻る。

「ふむ……まぁ、いいか。金子の方は己で手配してもらうことになろうが、廻国者ならば文無しではあるまい。しばらくは剣を鍛えて行かれるが良い。使い物になるようならば、伊達の者たちも放っておくまいよ」

 突然の光明。

 無雲斎の言葉が一気に兎角の士官の道を開かせたのだ。

 廻国修行者としては、あまりの厚遇である。

 然れど兎角は歓びの半面、芒洋(ぼんやり)とした負の感情を抱いた。

 それはしかし、歴戦の剣豪を以てしても量り難い僅かのものだったのであり―――無雲斎の次の言葉は、兎角の心奥を読み取った気配はなかった。 

「ところで。今宵、泊まるところはあろうかね?」

 否、と答えると無雲斎は道場の奥にある一室を指さした。

「今日はそこに泊まって行くが良い。三千代。次いでだから、この男の世話を恃むよ」

 三千代はこれに軽い調子で肯いた。

 無雲斎はといえば、それで語ることは終わりと言う態度である。そのまま彼までも道場の出口へと歩を進めた。

 優しげな語り口から一点した浅薄(あっさり)とした応答に、兎角は呆気に取られて動けなかった。

 無雲斎が何を考えているのか理解が及ばなかったのだ。

 すると――

「あ、それと一つ」

 と、出口近くで無雲斎が思い出したように振り返る。

「あの娘に勝てなんだのは、その、あれだよ。そんなに気を落とすこともないよ」

「……慰めは無用で」

 老剣士の言に兎角は気を悪くした。愚弄ではなかろうが――剣豪に対してその言葉は励ましにはならない。

 兎角の複雑な想いを察してか彼はそこで初めて、明瞭にわかりやすい顔をした。

即ち――苦く笑ったのである。

「だってあの娘――

 今度こそ、兎角の瞳は見開かれた。

 この道場に来て驚き通しだが、初めて息を忘れた瞬間であった。

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