8.土俵の上の死体
「夜分遅くにすいません」
「はぁ、どうも……」
きょとんとした顔の鶴岡綾子が私を玄関先で出迎えた。もう夜の八時を過ぎていたけど、彼女の服装は今朝私と会ったときと同じだった。ただ今朝とは違いごてごてとした装飾品はつけておらず、化粧もほとんど落とされたあとだ。予想していた通り、化粧を落としたあとの彼女はこざっぱりとしていて素朴な顔立ちをしている。
「えっと、事件のことでしょうか?」
彼女は私の表情を伺いながら、おずおずと尋ねてくる。こんな奇妙な時間に警官がやってくれば当然の反応だろう。私は首を横に振って彼女に答える。
「いえ、実は旦那さんの事件とは別件でして」
「はぁ……」
鶴岡はますますわからないという顔になっていった。私はそんな彼女に「先日の一家殺人はご存知ですか?」と話を切り出す。
「えっと、家族の父親が妻と子供を全員殺したっていう?」
「はい。昨日盛んに報道されていたあの事件です。その報道の中で凶器が見つかっていないという話が出ていたと思うのですが」
「ええ。確かそんな話が……」
「実は……」
私はこの「実は……」を、重々しい声になるように努めて力強く言った。ちょっとやりすぎたかな? とも思ったけれど、彼女はうまい具合に耳をこちらへ傾けてくれる。
「京都府警の取り調べで、容疑者が凶器を捨てた場所を明らかにしたんです。それがこのそばにある小川なんです」
「え?」
「それで明日、捜査員を大勢派遣して大々的に捜索をすることになりました。そのことを予め言っておこうと思いまして」
鶴岡は私の背後、家のそばを流れる小川へ視線を向けた。目を二三回またたかせて、私へ視線を戻す。
「それを、わざわざ?」
「はい。普通であればいちいちこうして説明することはないのですが、鶴岡さんは別件とはいえ殺人事件に関わっていますし、何の説明もなしに警官が大挙して押し寄せたら不安に思うかもしれないと考えまして。念のために」
私が神妙な表情を作ると、鶴岡は納得したようにしかめ面を解いた。どうやら信じてもらえたようだ。彼女は穏やかな表情で「わざわざどうも」とお礼を言った。
用事を終えた私は鶴岡邸を辞し、そばへ止めてあった車に戻る。青いアクアの助手席に潜り込むと、運転席の優に親指を立てた。
「うまくいった」
「それは何よりです」
せっかく作戦がうまくいったというのに、優の声には不機嫌そうな響きが混じっている。彼は気分を表明するかのように素早く車を発進させた。
「なに? 機嫌直してよ。こうして捜査に連れてきてあげてるんだから。そんなに私とステーキ屋に行きたかったの?」
「いや、薫さんが忙しいのは覚悟してますから……でもまさか夕食時に僕まで付き合わされることになるとは……川島さんじゃダメなんですか?」
「川島は別件で忙しいの。今晩はちゃんと寝かせてあげないと。……ほら、ご飯買ってきたから食べて元気出しなさい」
「わーおしゃれなご飯ですねー。インスタ映えしそうですねー」
私からコンビニのおにぎり(ツナマヨ)を受け取った優が、気持ちのこもらない声で言ってかぶりつく。うん、さすがに可哀想になってきた。折角勇気を振り絞って誘ってくれたのに。この埋め合わせはきっとするから。
彼の運転する車は、川にかかる小さな橋を渡って対岸へ出た。あたりには街灯もなく、家々から明かりがわずかに漏れるだけだった。
「しかし薫さん、よく犯人が妻の鶴岡綾子だとわかりましたね」
「まぁね。でも優が散々言ってたことじゃない? 殺人の大半が面識のある者同士で起こる。既婚者ならまず配偶者を疑うべき」
「殺人の原因の大半は憎悪ですからね。一緒にいる時間の一番長い家族が加害者になる確率が高いのも当然です」
優が口をもぐもぐさせながら口をはさんでくる。私も自分の分のおにぎり(こっちは梅干しだ)を開封して噛みついた。酸味が一気に口の中へと広がっていく。
「しかし確率だけで言えば、親族よりも単に面識がある人による加害の方が高いですよ? なんだかんだ言っても家族ですからね。どうしてほかの力士とかではないと?」
「死体が土俵の上にあったってところにやっぱり引っ掛かりがあったのよ。私が土俵に上がったときのあの慌てよう。力士が犯人なら土俵に死体を放置しないはず」
「しかし、そこを逆手に取る可能性もあったのでは? あそこまで土俵に固執するなら犯人ではないだろうと思わせることで……」
「それはないと思う。いくら力士でもそこまで角界の常識を汲んでくれると警察には期待しないでしょう……たぶん」
たぶん、というのはそのことについてはあまり自信がないからだ。実際に力士たちと相対した私にしてみれば、本気で彼らがそう思っている可能性を排しきれない。
「それに土俵が神聖云々の話を抜きにしても、力士なら土俵で殺人はありえないでしょう。自分がかかわってますよと宣伝してるようなものじゃない」
「その点、妻ならば土俵とは直接の関係がありませんね。警察の視線は奇妙な事件現場と相撲というキーワードに引っ張られ、自分からは遠ざかっていく」
優が車を止めた。私たちは川沿いの道をぐるりと一周し、元々いた場所へ戻ってきたのだ。鶴岡の動向を監視するために。
「ところで、優は何で妻が犯人だってわかったわけ? 学者の勘、ってわけでもないんでしょう?」
私が尋ねると、優が口の中のおにぎりを呑み込んで答える。
「もちろんです。僕は学者らしく、犯罪者の心理を考えたんですよ。これはいつも言っていることですが、犯罪者も我々と同じ人間です。犯罪という非合理的な行為に手を染めている一方で、その犯罪行為自体は極めて合理的な方法で実現しようとします」
私は彼の朗々たる説明を聞きながら、目では鶴岡邸を監視し続ける。彼女の家は居間に明かりがついているだけで、目立った動きはない。
「人々は犯罪者の行動を、全て狂気の名のもとに解釈しようとしてしまいます。しかし犯罪者も合理的な一個人です。一見すると常識では考え難い行動も、ある補助線を引いてみると実に常識的な目的をもって行われたものであることがわかるのです。例えば、お風呂場にバラバラにされた死体があるとしましょう。この光景は実に不愉快で、常識では考えられないものです。しかしここに『死体の血抜きをする』という補助線を引くと目的に対して合理的な行動であることがはっきりします」
「今回の事件で言えば……土俵に死体があったのがそうってこと?」
「はい」
優はにっこりと笑って頷く。幸い機嫌は直ったらしい。
「鶴の山についてちょっと調べてみたのですが、彼は大関になる直前、頭に大怪我を負っていますね。そしてそこを殴られたのが直接の死因であると。それこそが今回の事件を理解する補助線になるのです。……たぶん、薫さんではたどり着けないつけない真相です」
「どういうこと?」
優が今度は、仕返しとばかりににやりと笑う。そして私の頭を指さしてきた。
「薫さんほど身長が高いと実感がわかないと思いますが、たいてい人というのは自分より背の低い人と高い人が入り乱れて生活しているのです。そして僕のように背の低い人間が直面しがちな困難の一つに、高いところに手が届かないというものがあります」
「……優ってそんなに背が低い?」
「男性の平均よりは」
優はそういうとシートの上で胸を張った。彼の頭の位置が低いのは猫背が主な原因だと思うけど、本人は一応気にしているのだろうか。
「……それはともかく。薫さんに経験があるかはわかりませんけど、例えば手が届かないところに欲しいものが置いてあったりしたら、薫さんはどうしますか?」
「えっと、思いきりジャンプする?」
「あっ本当に経験ないんですねあなたは」
「ちょっと、何その呆れ顔は」
優に肩をすくめられてた私は抗議の声をあげる。私は垂直跳びなら六十センチくらいはいけるから、身長や腕の長さを合算すると三メートルくらいなんとかなるのだ。
「大抵の困難はジャンプで何とかなるでしょ?」
「そんなスーパーマリオみたいなこと言わないでください。薫さんみたいに背も高くて体力もある人ならいざ知らず、僕みたいに低身長で義足だからジャンプも碌にできない人間は高いところに手を伸ばしたいときはいつも踏み台を使うんですよ」
「え? そうなの?」
「え? って……」
優がいよいよ困った表情になってきてしまった。あー踏み台か。その発想は確かになかった。資料室とかによく、椅子にしては小さい台が置いてあるなとは思っていたけど。
「っていうか薫さん、僕より背の低い赤井川さんといままで一緒に仕事してきたんですよね? あの人が踏み台使うところ見てきたはずじゃないですか?」
「いやぁ、一緒にいるときはいつも晶を私が抱え上げてたから。晶だと台に乗っても届かないことあるだろうし」
「なるほど……」
晶は身長が優よりもさらに頭一つ低い。棚の一番上には踏み台に乗っても届かないということが往々にして起こるのだ。
しかし、この踏み台談義が土俵とどんな関係が?
「話を戻しましょう。鶴の山は頭の古傷を殴られて、それがもとで死亡しました。ところで鶴の山の身長がいくつかご存知ですか?」
「え? さぁ……」
優はスマートフォンを取り出し、画面を操作する。暗闇で青白い光に彼の顔が照らされる。
「鶴の山の身長は一七七センチです。ちなみに写真で見る限り、妻の身長は彼より十から十五センチ低いようですね」
優がこちらに向けてきた画面には、昼に私が見た新聞記事と同じ写真が写っていた。宇治新聞が事件に関して夕刊を打ったのだろう。確かに、妻の背は鶴の山よりも少し低い。
「妻であれば、鶴の山の怪我は当然知っているでしょう。傷の正確な位置も、そこを強く殴ればどうなるかも。しかし彼女は鶴の山よりも背が低く、頭の上を強く殴るのは難しい。普通の人が相手ならともかく、横幅のある力士では頭に近づけず凶器が届かない可能性もあった。そこで土俵です」
「あっ、もしかして……土俵を踏み台にして、上から?」
「おそらくは」
土俵は私が一息に飛び乗ろうとする程度には高い。そこの上から下にいる鶴の山めがけて鈍器を振り下ろせば、傷がどこにあったとしても力を込めて命中させることができるだろう。そして土俵の上に女性である彼女が立っていれば、彼は何事かと気にして彼女に近づくだろう。そこを上から思い切り……。
「そうか。それで死体が発見時には土俵際にうつ伏せに……土俵に近づいた途端に殴られ、そのまま前のめりに倒れたから」
「その通り。しかしこの推理には一つ大きな穴が開いています」
「凶器が見つからない……ってことね」
「はい。そこがネックでした」
優がスマホを閉じて、目の前をじっと見つめる。鶴岡の家には未だ動きはない。もしかしたら、私たちが一旦この場を立ち去ったと思わせてぐるりと戻ってきている間に用事を済ませてしまったのか? などと不安になる。私もシートから身を乗り出して、あたりの動きを見落とさないように集中する。
「しかし……薫さんは凶器の在りかに気づいたんですよね?」
「えぇ。たぶんここしかない」
作戦はシンプル。嘘の情報で鶴岡綾子をおびき出し、凶器を回収している彼女を現行犯で逮捕。
「ところで、まだ聞いていなかったと思うんですけど、凶器って何ですか?」
「岩塩」
「はい?」
「しっ、出てきたっ」
素っ頓狂な声を車内に響かせる優を、私は大慌てで制して黙らせた。ちょうど玄関から鶴岡が飛び出してきたところだ。動きやすそうなジャージ姿に着替えて、ロープを抱えている。彼女は川沿いのガードレールまで歩み寄ると、そこへロープを結び付けて川へ降りて行った。
「うわぁ、思ったよりアクティブな人ですね」
「そばに川へ降りるための階段とかなかったからじゃない? でもうまくいきそう……」
「というか、え、凶器は岩塩なんですか? それが川に捨てられていると?」
「そう。あなたのステーキ屋がどうこうって話を聞いてピンときたの。でかい岩塩の塊なら殴って川に捨てれば溶けてなくなる。時間はかかるけど」
優はははぁ……と息を吐いてシートに身を沈めた。全てを見透かしたような彼が犯罪の真相で驚くのは珍しいから、そんな顔を見れただけで今回の成果は上々に思える。
「そういえば、彼女は岩塩に凝っているとかそんな話もありましたね……」
「えぇ、家には岩塩を詰めたボトルもあった。それでちょっと調べてみたんだけど、岩塩って砕いたやつだけじゃなくて塊でも通販で売ってるみたいなの。きっと彼女はそれを買って、犯行に使った」
「なるほど……いや、今回の犯人はかなりクレバーですね。凶器は通常、入手と破棄の二時点で犯行が露見しやすいものです。しかし、岩塩なら入手しても調理用だと言い逃れられる。破棄しても自然に無くなって、証拠として機能しなくなる……仮に、万が一溶けきる前に川から回収されても表面が溶けてさえいればその岩塩が犯行に使われたと確定は難しい。ははぁ……今回は土俵に注意が向いてしまいましたが、もしかして危うく迷宮入りだったのでは?」
「迷宮入りまでいかなくても、決定的な証拠が皆無で泥沼まではあり得たでしょうね。幸い検死で見つかった塩と土の成分があるし、それを使えば同じ岩塩か確かめることはできるけど……」
しかしそれを使っても、わかるのはあくまで拾い上げた岩塩と犯行に使われたものが同じ種類であるというところまで。同じ種類の別の岩塩が使われた可能性を否定できない以上、裁判ではそこが争点になって最悪突破される可能性もある。
だから彼女が岩塩を拾い上げているその瞬間に捕まえてしまう必要があった。警官が大勢やってくるといえば、念のために証拠品を回収しておこうと思うだろう。警官の来襲に備えてそんなことをするということは、その岩塩が事件とかかわっていたといういい証拠になる。
もちろん、彼女が覚悟を決めて静観を貫くという可能性もあった。でもその賭けに勝ったのは私たちだ。
……冷静に振り返ってみると、なかなか冷や冷やさせられる展開でもある。まさしく土俵際の攻防。
「……でもなぜ、岩塩がこの川に捨てられたと?」
「魚が死んでたの。そのときは水質汚染だなぁとしか思わなかったけど、川の塩分濃度が高くなって淡水魚がくたばったと考えれば辻褄が合う。そこで晶を呼んで調査してもらったら……ビンゴ」
川は常に流れているから、溶けた塩も薄くなると考えたのだろう。しかしこの川は手入れが行き届いておらず雑草だらけだ。そのおかげで水流が停滞する場所ができてしまい、鶴岡はそこへ岩塩を投げ入れたために塩分が溜まる結果となった……というのが、事件解決に貢献出来てホクホク顔の晶の見解だ。
私と優が黙りこくって、車内の静寂が流れる。私はペットボトルの蓋をねじ切ってお茶を流し込んだ。
「でも……なんで妻は夫を殺害したんだろう。あんなに献身的だったのに」
「献身的だったから、かもしれませんね。鶴の山に何か裏切りがあったか、少なくとも妻がそう受け止める何かがあったか……」
「あっ、上がってきた」
暗闇の中、鶴岡は登りにくそうにロープを伝っていた。脇に濡れた岩のようなものを抱えているせいだ。手も濡れていて滑るのか、動きが危なっかしい。
「手を貸しに行きましょうか。ついでに動機も聞きにね」
「なんか海外ドラマのラストみたいなシーンですね」
私と優は同時にドアを開き、車外へ躍り出る。川沿いの春風はちょっと寒かった。
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