おまけ 神園薫、機種変更する

「薫ってさぁ」

「なに?」

「その携帯いつから使ってるの?」

 十年来の友人から、唐突にそんなことを言われたのは、相撲取りが土俵の上で死ぬという奇妙な事件を解決してすぐのことだった。私は後輩の刑事からの電話を終えたばかりで手元にあった携帯へ視線を向ける。

 私が使っている携帯電話は、グレーの折り畳み式だった。いわゆるガラケーと言うやつ。ボタンの刻印は剥げて見えなくなり、二つに折れる機体を繋ぎ止める蝶番の隙間には埃が詰まって茶色く汚れていた。液晶には黒い筋が入ってしまっている。とはいえ、使用には何の問題もない。

「うーん。警官になってしばらくで買ってそれっきりだから、十年くらい?」

「そんなに」

 携帯電話が普及しはじめてもしばらくはポケベルで通していたような気がする。確か、京都府警捜査第一課の捜査官のなかでは二番目に遅い購入だった。ちなみに一番遅いのは警部。逆に一番早かったのは同期の鳥林と、意外なことに警部と同じ年代のベテラン平さんだった気がする。

 そういえば、その頃はまだ警部も警部じゃなかったはず。川島もまだ刑事になっていなかったから、私のコンビは鳥林だった。機械に強い奴がそばにいると、そいつに任せればいいかという気分になって自分から変わるきっかけを失ってしまう。平さんとコンビを組んでいた警部がずっとポケベルで通していたのもそのせいか。

 ともあれ。

 私が携帯電話を持ち出したのは十年くらい前の話で、それ以来変えた記憶もない。かなり激しく動き回る仕事であるため、周りの同僚たちのなかにはしょっちゅう携帯を破壊してしまう者もいるのだが、そう考えるとかなり物持ちがいい。

「え? 薫さんってまだガラケーだったんですか?」

 と、そんな無遠慮な突っ込みで会話に割り込んできたのは、京都府警の受付を担当する女性警官の一人だった。そう、いま私は府警の受付でだべって仕事をサボっている。捜査第一課の人間にしてはのんきな態度だが、刑事だって四六時中稼働状態というわけじゃない。とりわけ私のように扱いにくい人間になるとね。誰が始めたのかはいまとなってはわからないが、私と晶のような京都府警の女性職員が受付に会しておしゃべりをするのは日常の風景になっている。

「どうりでラインのIDを聞いても教えてくれなかったわけですね」

「うん……まぁ、ね」

 ラインってあれでしょ。スマホでメールを送れるアプリみたいなの。優がよく使ってるから知ってるぞそれくらい。

「でも十年なんてよく使えるね。いつ壊れてもおかしくないんじゃない?」

「えー大丈夫でしょ。うちの冷蔵庫も十年以上使ってるけどまだ現役だし」

「携帯って白物家電と同列にするものじゃないと思いますけど」

 らしい。そういえばスマホの機種が新しく出るたびに変える奇特な人もいるみたいだけど、私はどんな家電にせよ壊れるまで使い倒す派だ。

「そういえば晶はスマホなんだ」

「うん。去年変えた」

 晶が取り出したのは、彼女の小さな手に余るほど大きな板だった。極めて薄いが、そんな軽量化の努力を無に帰すかの如く幅が広い。晶が側面のボタンを押すと真っ黒な画面が光って待受を表示した。待受の画像は猫の写真だったが、液晶があまりにも明るいのでギラギラして見えた。

「いい加減薫も機種変しなよ」

「えー億劫」

 私は重たい声でそう言ってお茶をすすった。実際、機種変更なんて考えただけでも気が重かった。もちろん私だって十年前の携帯と添い遂げるつもりは毛頭ない。実際スマホの方が便利なのはよくわかっている。なので優と初めて出会ったとき(その時の私たちの活躍は『地上の星』を参照だ)、連絡先としてラインとやらのIDを渡されたからいい機会だと思ってトライしてみたのだ。

 だが撃沈した。

「意味わかんないんだもん。アイフォンとかアンドロイドとか、何が違うわけ?」

「そっからかー」

 晶が天を仰いだ。よくわからないけど、基本中の基本なのだろう。

「でもこだわりがないならそこはいいんじゃないですか、わからなくても。お店の人に適当に見繕ってもらえば」

「機種はそうだけどさ、わからないのはアンドロイド云々だけじゃないのよ。料金プランも意味不明で。聞いてるだけで頭が爆ぜそう。やれ二年間無料だの、かけ放題の範囲がどうだの……」

「あーわかるわかる。それは私もよくわからなかった」

 晶がお茶うけの煎餅をかじりながら頷く。鑑識官であり数字に強そうな晶がこういうのだから、やはり相当なのだろう。

「あっ、携帯鳴ってるよ」

「おっと」

 晶に指摘されて、机に置いておいた携帯が震えているのに気付いた。サブディスプレイに表示されているのは川島の名前だ。私はそれを取り上げて、勢いよく開く。

「もしもし……あれ?」

 しかし、電話に出ても彼の声は聞こえてこなかった。電波が悪いのか騒音がひどいのか、耳を澄ませてみるがノイズすら聞こえてこない。おかしいな?

 私の正面にいる晶が、ポカンと口を開けて私を見ていた。

「薫、携帯が」

「え?」

 私は携帯を耳から離して目の前に持ってくる。折り畳み式の機体が、折れてはいけない方向へ百八十度以上曲がっていた。

「な、なんじゃこりゃー!」


「というわけで、機種変に来たんだけど」

「はぁ」

 携帯電話殺人(殺電)事件から二時間後、私は優と一緒に市内にある携帯ショップへやってきていた。携帯が崩壊していると連絡もままならないということで、警部が珍しく物分かりのいいことに半休をくれたのである。私が被害者の携帯電話を見せたとき、警部は「俺のも変えどきか……」などとしみじみつぶやいていたのだった。

「……で、なぜ僕が」

「だって、機種変とかわかんないんだもん」

「わかんないんだもんって、四十路のいい大人の言葉ですか」

「まだ四十路じゃねー!」

 とはいえ、わざわざ仕事中だった優まで引っ張り出してきたのにはきちんと訳がある。私がもらえたのは半休なので、明日にはまた仕事へ行かなければいけない。きちんと携帯を手に入れて。現在時刻は十六時二十三分。スマホとやらの理解に手間取り、もたもたやっている間に閉店時間になっては目も当てられない。いわば背水の陣だった。

 こういうわけで、晶に頼んで優とコンタクトをとり(つーかあいつら、いつのまに番号交換してたんだ)、いまに至るというわけである。優は事情を説明すると授業がないからと二つ返事で来てくれた。普通の会社員ではこうはいかない。ありがとう裁量労働制。

「さて、薫さん」

 と、優は呆れた視線を真面目モードへ直しつつ切り出す。

「事情は伺っています。最優先事項は明日までに使えるスマホを手に入れることですね」

「うん。それがクリアできれば細かいことは最悪なんでもいいや」

「ではさっそく店員さんにお話を……」

 優はそう言いつつ、店の入り口に設置されていたタッチパネルを操作して何やら紙切れを引っ張り出してきた。一二三と数字が書いてある。順番待ちのためのものだろう。それくらいわかるぞ。

「一二三番か。いつ呼ばれそう?」

「六十分待ちですね」

「ディズニーランドか!」

 思わずツッコミを入れた私を、優がまぁまぁとなだめる。

「携帯の契約には時間がかかりますからね……本当なら予約するとスムーズだったんですが、今回は急なので仕方ありません。先に機種を見ましょう」

 私は優と一緒に、店の壁際に陳列されたスマホの前へと移動する。ずらっと並んだスマホは大きさがいろいろあって、色も色々で、えっと、つまり。

「どうですか?」

「うん、全部同じに見える」

「でしょうね」

 優にまたため息をつかれてしまった。彼は気を取り直して、まずは、と口を開いた。

「薫さんはアンドロイドとアイフォンのどっちがいいですか?」

「そもそもさぁ、そのアンドロイドとアイフォンって何が違うの? 同じスマホでしょ?」

「作ってる会社が違うんですよ。ほら、ヤマハとハーレーみたいなもんです。あれも同じバイクですけど、特徴が大違いでしょう?」

「あーなるほどね」

 自分の好きなもので例えてもらったおかげで、なんとなくわかった。バイクと一緒か。そう考えると目の前に並ぶスマホにも個性があるように……は見えないけど、まぁ理屈はわかった。

「で、薫さんはスマホに何か要望はありますか? スマホにしたらあれをしたいとか、これをしたいとか」

「うーん、特にないけど……強いて言うならデカすぎるのは嫌かな。鞄とか持ち歩かないし、ジーパンとか革ジャンのポケットに入るくらいのがいい」

「なるほど……」

 優はそう呟いて、見本の中からいくつかスマホを見繕ってくれた。彼が選んでくれたのは、どれも画面が小さめで取り回しの楽そうなものだ。機体が薄すぎると変なところで折れてしまいそうな不安があるけど、本体が小さくなると厚みはかえって増す傾向にあるのか、どれも安定感があっていい。

「うーん、じゃあ……これかな。色の感じが私のバイクとおんなじだ」

「薫さんって黒好きなんですね。結構要所要所でこだわっているような」

「まぁね」

「あとは、在庫があることを祈るだけですが……」


 機種を選んでからしばらく待って、ようやく私たちの番が回ってきた。カウンターへ着くと、化粧の濃い愛想のよさそうな女性がにっこり笑って出迎えてくれる。優が、私の決めていた機種を伝えると、彼女はそれなら在庫がありますと微笑んだ。第一関門突破である。

 しかし本当の地獄はここからだった。

「ではプランなのですが……カケホーダイとカケホーダイライトのどちらに」

「それは何が違うんですか?」

「ライトのほうは五分以内の通話のみ無料になります」

「え? じゃあ一か月で五分しか無料にならない?」

「いや、一度の通話が五分以内だと、です。累計じゃありません。薫さんは仕事でよく通話するでしょうから、カケホーダイにしておいたほうが」

「じゃあそうする」

「パケットは何ギガにしますか?」

「パケット?」

「スマートフォンでインターネットを利用できる、上限のようなものです」

「この……なに? 三ギガってのを超えると使えなくなるの?」

「上限を超えても、通信速度が遅くなるだけですよ。まず少ないプランから初めて、必要があれば増やしましょうか」

「そうね。じゃあ一番小さいので」

「では、この二つとインターネット接続オプションを併せてこの金額に……」

「え? なにそのオプション」

「ネットの接続に必要な基本料金ですよ」

「へぇ……」

「それと有料のオプションなのですが、健康管理用のアプリと、動画視聴サービスと……」

「いや、それはいらないです。使わないし」

「しかし、こちらはいったん契約していただかないと機種代金が割引されませんが」

「でもお金かかるんでしょ。月額……えっと、三百円とか」

「最初の三十日はお試し期間なので無料です。いったん契約していただいて、三十日以内の解約していただければ」

「またこなきゃいけないの?」

「来店していただければこちらで処理しますが、アプリ内から契約の解除もできます」

「えっと、どういう?」

「あとで僕がやっておきますよ。すいません、とりあえずそれで」

「はい、ありがとうございます。ちなみにお客様は、ご自宅のインターネットはどちらで?」

「え? パソコン? ウインドウズですけど」

「いえ、インターネットのプロバイダの契約がどちらの会社かなと」

「すいません、その話はいまはいいです。たぶん会社わからないので」

「そういうことです」

「そうですか? セットで契約していただくと利用料金にさらに割引がつきますが。ご自宅でWi-Fiを利用されれば、パケットの利用も抑えられますし」

「ワイ、ファイ……」

「いえ大丈夫です。タブレットも使いませんし」

「タブレットをお持ちではない? ではご一緒にいかがでしょうか」

「しまった。余計なことを」

「タブ、レット……なに?」

「大画面で動画も見られますし、お仕事にも便利ですよ。ちなみにご職業は」

「ええっと」

「いえ、タブレットは大丈夫です。スマホ初心者なので。それで契約は……」

「そうそう、まずはスマホ」

「そうですか……ではお客様……電気はどちらで契約されていますか?」

「だぁぁもう!」

 限界が来た。私は勢いよく立ち上がって叫ぶ。店内の人が一斉にこちらを向くが、知ったことか。

「なんで携帯屋で電気の話が!? ここは関西電力か!」

「落ち着いてください、薫さん! もうちょっとですから」

 優も立ち上がって、私をどうどうとなだめようとする。こんなシーン、ジュラシックパークとかで見たな。

 私の爆発に恐れをなした店員は、体を引きながら強張った笑顔で言葉を続けた。

「で、ではお客様……お子様はいらっしゃいますか? いまならキッズケータイの基本料金もゼロ円ですが」

「蛮勇」

 優が思わず呟いていた。ある意味、セールスの鏡かもしれなかった。


 ともあれ、ひと悶着以上の騒動を乗り越えて私はスマートフォンを手にすることができた。契約をひとしきり終え、品物を受け取って店を出たときにはすでにあたりは真っ暗になってしまっていた。

 私は、書類でパンパンに膨れた紙袋の中からスマホを取り出した。真新しい黒のボディーが街灯の光を反射している。画面保護用のフィルムも張ってもらったし、プラスチックのカバーもつけてもらったのでもうこのまま使える状態だ。

「あ、そうだ薫さん」

 優が道を歩きながら、口を開いた。アスファルトにかつかつと杖を突く音が響く。

「せっかくですからLINEのIDを交換しておきましょうよ。電話やメールよりはそっちのほうが簡単ですし。アプリはもう入れてもらってましたよね?」

「そうね。せっかく買ったんだから、さっそく使いこなさないと」

 私は手に持ったスマートフォンの、真っ暗な画面をじっと見つめた。そして大事なことを思い出した。

「ねぇこれ……どうやって電源入れるの?」

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土俵上の殺人/アラフォー刑事と犯罪学者 新橋九段 @kudan9

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