7.親方と助教と
「……もういいですか?」
「えぇ、大丈夫です」
人が近づいてくる前に消え去りたいのか、朝錦が早口で私に尋ねてきた。私が頷くと彼は立ち上がり、足音とは反対方向へ一目散に逃げ去っていた。巨体とは思えないほど素早い歩調だった。
私は朝錦を追い払った足音の正体が気になって、ベンチに座ってそれを待つことに決めた。自販機でブラックコーヒーを購入し、冷たく苦い液体を流し込みながら待つ。
足音の正体は、私がコーヒーを一気に半分ほどあおったときには目に見えていた。スーツを着た大柄な中年男性だ。白髪交じりの髪をオールバックにしている。強面で任侠物の映画に出ても違和感なく混ざることができるだろうと思われた。でも胸を張って堂々と歩く姿勢は暴力団員のそれではなさそうだ。周りを威嚇することも罪悪感から警戒的になることもない。明らかに堅気の人間の歩き方だ。
その男は、ベンチで休む私を見ると足を止めた。じっとこちらを見つめてくる。あれ、どこかで会ったっけと私が記憶を辿っていると、彼は再びこちらへ歩き出した。肩を怒らせた歩き方で。
前言撤回。少なくとも関わりたくないタイプの相手だ。逃げよっと。
「ちょっとそこの人」
「……はい?」
私がこの場から去ろうとベンチから立ち上がり、回れ右をすると同時に男が話しかけてきた。残念、逃げるタイミングは失われたようだ。声にも微かに怒気が籠っているように感じられる。私、何かしただろうか。
「あんた、今朝会場で土俵に上がろうとした人だな?」
「……えぇ」
スーツの男は名乗りもせずに、いきなり「あんた」ときた。私は観念して男を正面に見据えるように体の向きを変える。怒れる中年もまさか体格で私に負けるとは思わなかったのか、自分より頭一つ分も大きい相手に上から見下ろされるとたじろいだが、表情を固くしてすぐに持ち直した。
男は大きく咳払いをして続ける。
「それで、うちの天竺川を投げ飛ばしたってのもあんただな?」
「えぇ。公務執行妨害で逮捕するところでしたが、事件直後で気が動転しているのだろうということで水に流すことにしました」
私が懇切丁寧に説明すると、男の顔が露骨に歪んだ。残念ながら私は天竺川をぶん投げたことについては一切罪悪感を覚えていないのだ。正当な職務だからね。
しかし目の前の中年男は私が平然としていることにいら立ちを募らせているようで、小さく舌打ちをした。
「あんたが投げ飛ばしたせいで天竺川は怪我したんだ。これからの巡業に支障が出たらどう責任取ってくれるんだ?」
「ところで、あなたはどちら様ですか?」
怒れる中年と対峙するコツその一。会話をしないだ。見事会話のボールを大暴投された男はもう一度舌打ちをしてから、懐から取り出した名刺入れから一枚を雑に突き付けてくる。
上質紙で出来た名刺には「相撲協会 巡業部長 千代の川」の文字が。千代の川といえば朝錦や天竺川、そして鶴の山の所属する部屋の親方だ。なるほど、だから「うちの天竺川」か。
「千代の川さんですね……巡業部長ということは、この巡業の取り仕切りを?」
「あぁ。まったく、とんでもないことだが……」
いつの間にか会話の主導権を奪われていることに気づかないまま、千代の川が腕組みして嘆息した。しかし巡業部長か、ちょうどいい。警察はまだ誰も話を聞いていないはずだ。
「千代の川さん。少しお聞きしたいことがあったんです……いいですか?」
「……なんだ?」
彼は不機嫌そうにこちらを睨むが、案外素直に従ってくれた。おそらく若いころは天竺川のような跳ねっかえりだったのだろう。それが年を取って落ち着いたという感じだ。一応、最低限わきまえるべきところは知っているらしい。
私は手でベンチを進めるけど、千代の川は無言で首を振って拒否した。長居するつもりはないという意思表示だろう。私はそれにかまわず質問を始める。
「……では早速。千代の川さんは今日はいつからこの会場に?」
「朝の……八時すぎだな。朝錦が準備で七時半ごろ宿舎を出たあと、しばらくしてから電話があって、問題があったからすぐに来いと」
「朝錦も八時過ぎに着いたと言っていましたけど、どちらが早かったんですか?」
「朝錦だ。私はやつの直後に着いた。あっちは電車でこちらは車だったからな。追いついたわけだ」
朝錦が宿舎を出た時間は、二人の証言で一致している。綺麗なものだ。そして千代の川の行動も宿舎にいた力士と、会場にいたスタッフに確認されているわけだ。ここがネックだな……。
「鶴の山の死体を発見してから、警察への通報まで時間がありますね。どうしてでしょう? すぐに通報しなかったのはなぜですか?」
「時間があるって……一時間くらいだろう? すぐに通報したつもりだったが」
私が通報時間のギャップを尋ねると、意外な答えが返ってきた。一時間はすぐだったのか。初耳だ。千代の川は肩をすくめて見せるけど、その仕草は演技がかっていた。本人も本気でそう思っているわけではないのだろう。
「一時間あれば凶器を処分して一服してもおつりが来ますよ」
「なんだ? 私たちが捜査を攪乱したとでも言いたいのか? うん?」
とぼけが通じないとみると、今度は声を荒げて千代の川が反発してくる。とりあえず、あまり知られたくない事情がありそうなのはわかる。さて、どうやって引き出したものか……。
「いえ。ただ、事情を話していただけなければ疑わざるを得ないというのが我々の立場です。話していただければその必要もないのですが」
私はとりあえず立場を盾に迫る作戦を決行した。正直に言ってくれれば疑わないよという逃げ道付きだ。
「ふざけるなっ! まったく、そんな下らないことを探ってる暇があったら早く犯人を逮捕したらどうなんだ!」
しかし効果はなし。逆ギレする始末だった。埒が明かないので私はとりあえず話題を変えてみることにする。そんなに言うのであれば、すばりと聞いてみることにしよう。
「では……鶴の山殺害の犯人に心当たりがありますか? 誰かに恨まれていたとか……」
「恨み? あぁ……あぁっ! あったよ! むしろあいつが犯人じゃないほうが驚くくらいのがな!」
「ほう? それは?」
途中で思い出したかのような言い方だったのに、千代の川の言いようはやけに自信満々だった。
「豊野丸だよ。元力士だ」
「豊野丸……というのは?」
「はぁ? なんだあんた知らないのか? それでよくこの事件の捜査してるな」
千代の川はまるで、豊野丸という力士が総理大臣くらい有名かのような口調で言った。これは彼に角界が狭い世界であることを思い知らせないといけないかもしれない。
私は嘲笑するような千代の川に、にこりともせずに尋ねる。
「えぇ。初耳ですので。鶴の山とどんな関係が?」
「本当に知らないのか? ほら、六年前くらいにあった八百長騒動。豊野丸は鶴の山の告発で八百長がバレてそのときから恨んでるんだ」
「なるほど……それで」
八百長か。さっきの『かわいがり』の件を合わせて相撲を取り巻く問題勢ぞろいといった感じがする。そして全てに鶴の山が関わっているのか……やっぱりこの事件、土俵云々とは関係なくめんどくさくなってきた。
「その豊野丸は、いまどこに?」
「ちょうどこの京都で働いてるらしい。ちゃんこ鍋屋をやってると」
「京都でちゃんこ鍋屋を……」
なるほど。鶴の山を恨んでいる人が京都にいて、そこで事件が起こったと。確かにそれは疑わしい。一応調べないといけないか……。
一通り千代の川の情報をまとめていると、私のズボンのポケットで携帯が震えた。取り出してみると、サブディスプレイには優の名前が表示されている。
「もういいか?」
「えぇ、ありがとうございます」
私が携帯に目をやった途端、千代の川がこれ幸いと口をはさんでくる。もう彼には聞くこともなさそうだったし、昼間に珍しく彼から電話が来たのも気になった。いつもなら私の仕事に遠慮してメールで済ますところなのに。
私は時代遅れのガラケーを開き、優からの着信に応じた。
「もしもし、優?」
「薫さん、どうも。お仕事中すいません」
「どうしたの?」
「えっと、それは……」
電話に出た優の口調は、どこか判然としなかった。口ごもっているのか言葉が出てくるのが遅い。犯罪のことならマシンガントークな先生がこうなるということは、話題は犯罪とは関係がないってことだろう。
「当ててあげましょうか? 犯罪以外の用事でしょ?」
「それ、言っていれば九割くらい当たりますよね」
「そうでもないわよ? あなたとの会話の九割五分は犯罪の話だもの」
「チャンスレベル五パーセントですか。僕をどんな奴だと思ってるんですか?」
優は電話の向こうでひとしきり笑ったあと、口をつぐむ。私の軽い冗談は彼の緊張をほぐす役には立たなかったらしい。私は緊張しいの子供が口を開くのを待つ教師の気分で、彼の次の言葉を待った。
「実はですね……この前ゼミの学生からいいレストランがあると教わりまして」
「へぇ。それで?」
優が「ははぁ……」と困ったような息を吐いた。要件はもう予想がついているし、優もここまで言えば私が察すると思っているのだろう。でも私は度重なる力士たちとのやり取りで意地悪な気分になっていたので、わざととぼけて彼がちゃんと要件を言い出すのを待つ。
優は散々「あー」とか「うぅ」とか唸ってから、小さく「よし」と呟いてようやく本題を切り出し始める。
「あー、薫さん……今晩、どうですか? お時間があれば一緒に」
「えぇもちろん。いいわよ」
「……よかったです」
私が快諾すると、優が詰まった声で言って大きくため息を吐いた。スピーカーから安堵がどろどろと漏れ出している。
「っていうかね、優。いい加減慣れなさいって。恋人を食事に誘うのにたっぷり五十四秒使う人がどこにいるの?」
「数えてたんですか? 人が悪い……」
ちなみにこれでも最短記録だ。初めてのときは五分近く汗をびっしょりとかきながらもじもじしていたのを昨日のことのように思い出せるけど、いまそれを蒸し返すのは止めてあげよう。
「まったく……犯罪のことなら聞いてないことまで喋り倒す癖に」
「仕方ないじゃないですか。犯罪について話すときとそれ以外の話題では文法から違う気分ですよ。まるでフランス語です」
「フランス語で誘ってくれてもいいのよ? 私、日常会話くらいならわかるから」
「生憎ですけど僕はわからないものの例えとして出したんですよ」
優が力なく笑うのにつられて私も笑った。親方との会話で腹の底に溜まっていたもやもやが晴れていく気分だ。
「それで、じゃあ僕の得意なフィールドに話を捻じ曲げますけど、例の土俵上殺人事件の捜査は進んでいますか?」
「土俵上殺人事件?」
「いまさっき命名しました。世間の耳目を引く犯罪はまずキャッチーなネーミングから始まるんです。サカキバラ然り、グリコ森永しかり。まぁ事件の本質とは一切かかわりませんが」
優の口調は、もうはきはきとして早口ないつもの調子に戻っていた。こうなるといらない話まで延々とされてしまうので、私は適当なところで彼の話を遮りつつ会話する必要が出てくる。確かに、文法が違っている気分だ。
「被害者の妻とか、同じ部屋の付け人とか親方に話を聞いた。情報の集約はこれからね」
「ほう。ちなみに、薫さんは話を聞いた中で犯人のあたりはついているのですか?」
「うーん。まぁ予想はついてはいるんだけど、証拠はまだ何もって感じ」
私は優の質問に口ごもりながら答える。今日話を聞いてきた中ではこの人かな? というあたりはついているけれど、確固たる証拠がなぁ……。
「刑事の勘、という段階なわけですね」
「まぁね」
私はベンチに腰を下ろし、足をぶらぶら振って弄んだ。優は考え込むような声を電話口で上げている。
「ほかに何か分かったことがありますか?」
「あー、あと検視の結果が出たって晶が。案の定死因は撲殺で、傷口に塩と土が」
「土俵と、そこにまかれていた塩でしょうか」
「それもあるけど、それとは違う塩と土の成分も見つかったって」
「へぇ、不思議なこともあるもんですね」
優は嘆息して口を閉ざした。いままで数多くの事件で役立つ助言をくれた彼でも、これだけの情報では犯人を言い当てることはできないだろう。彼は名探偵ではなくて、あくまで犯罪学者なのだ。拾った帽子から持ち主を言い当てるなんて芸当はできない。
「まぁ、いままで明らかになった状況から僕も予想はできているんですけどね」
できてた。
「え?」
「まぁしかし、決定的な証拠があるわけでもない、単なる想像なので披瀝することは避けましょう」
「……そう」
優は事も無げに言う。私はベンチに放置していた缶コーヒーを飲み干し、話題を変えた。
「……ところで、誘ってくれたお店ってどんなところなの?」
「ステーキのお店ですよ。これがちょっと変わっていまして、大きな岩塩の上に肉を乗せて出すそうです」
「岩塩の?」
私はざらざらごつごつした岩石の上に平べったいステーキ肉が乗っかっているシーンを想像する。どんな石器時代の料理だ?
「……大丈夫なの? それ?」
「たぶん薫さんが想像しているだろう野性的な見た目ではありませんよ。ピンクソルトという岩塩をプレート上に加工したものを使ってますから。インスタ映えすると若者に人気だそうで、その関係で学生が知っていたんです」
「岩塩のプレートねぇ……」
ステーキが乗せられるほど大きな岩塩のプレートか。どんな物体なんだろうそれは。
うん? 大きな岩塩?
「あっ!」
「どうしました、薫さん?」
「ちょっと待ってっ」
私は優の言葉を遮って、頭の中に浮遊する情報をかき集める。土俵の死体。傷口の塩と土。未発見の凶器。新聞記事。そして……。
そうか。
「ごめん優! 食事はまた今度になりそうっ!」
「え? ちょっと薫さ」
私は優の言葉が終わるのを待たずに電話を切ってしまった。そして川島のいる控室へ向かって全力で駆け出して行った。
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