2.塩漬けの死体
案の定、鑑識課の作業服を身にまとった小さい人影が見つかった。土俵のそばで力士に対して腕を振り上げて何かを訴えている。なにぶん中学生かと思われるくらいに小柄なせいで迫力はなかったけど、私のように大柄でもない華奢な体のせいでかえって威圧的な態度で応対しにくいのか、力士はバツの悪そうな顔であたりを見回して助けを求めている。そんな二人を一歩離れたところからほかの力士や鑑識の人間が、どうやって割って入ったものかと互いの顔を見合わせていた。
「何やってんの晶っ……ちょっとちょっとっ」
無理やり土俵へ近づこうとした晶に力士の手が伸びたので私は慌てて彼女の元へと走っていく。幸い手荒な真似はされず、力士は晶を抱え上げてちびっこ相撲で子供を土俵際へ寄り切るように着地させた。もっともそれが晶にとっては逆に屈辱だったようで、怒りはヒートアップしてしまっている。
「晶、何があったのっ?」
「あぁ薫っ! ちょうどいいところに! あいつ逮捕して! 公務なんちゃら妨害で!」
「執行妨害ね。そうしたいのは山々だけどあいにくサイズの合う手錠が……じゃなくて、警部の話を聞くに逮捕してもしょっ引くところまで行けないと思う」
「もうっ、何なのよっ! 現場に入れなかったら私仕事できないじゃない!」
晶は怒りに身を任せて地団太を踏んだ。フロアの床が軽く震える。確かに、鑑識官である晶の仕事は刑事の私とは違って、ほとんど事件現場で完結してしまう。その現場に入れないのでは怒るのも当然だ。とりあえず私は晶の手を引いて土俵から遠ざけ、どうどうと怒りを鎮めようとした。
「まあまあ、晶、あとは私に任せて……事件は一日に一件しか起きないわけじゃないんだし、こんなところで時間無駄にしてたらもったいないじゃん」
「それはそうだけど……あぁ、むかつく。死体があるのに穢れも何もあったものじゃないでしょう。血みどろよ」
騒動がようやく落ち着き、力士もほかの鑑識官も安堵した表情になって各々の仕事に戻っていった。京都府警の鑑識課は女性の割合が比較的多いらしいのだけど、土俵には男性の鑑識官しかいない。女性が上がれないせいで、普段彼女たちが行っているはずの慣れない作業を割り当てられてしまった鑑識官もいるらしく、カメラの角度をあれこれと変えながら死体を写すベストな位置を探すのに苦労している人の姿も見える。晶ならもっと手際がいい。
騒動から離れても晶の怒りは収まらない。土俵をちらちらと眺めながら歯軋りまでしている。私は彼女の炎に油を注ぐことになりませんようにと祈りながら自分の仕事を進めるために事件の話を振った。
「と、とにかく、こっちの面倒な事件は私に任せて。晶、鑑識で何かわかったことは?」
「それがまた信じられないことにね、薫、土俵を見て。なんか変なことに気づかない?」
「変なこと?」
私は晶に促されて、手帳へ落していた視線を土俵へとうつす。土俵の周りの力士もまばらとなり上の様子がよく見える。中央に倒れる死体、乱れた土俵の土。血は出ているけど大量じゃない。後頭部の髪の毛が乱れて血も付着しているから、撲殺かな? でもこれは変なことではない。
私の立ち位置も変わっているせいか、土俵が妙に明るく見えた。照明の当たり方が違う? 私は頭上に視線を向けて体育館の強烈な明かりを確認する。照明は真上からフロア全体を一様に照らしていて、場所によって光の加減が変わったりすることはなさそうだった。じゃあさっきは気が付かなかっただけか?
「なんか……土俵ってこんなに白っぽいんだっけ?」
「そう、そこなのよ! この白いの何だと思う? 塩よ塩!」
「塩って……ソルトの?」
まさか殺人現場で調味料の名前を聞くことになるとは。晶は首をこくこくと縦に振ると、一緒に後ろで結んだ髪も一緒に揺れた。
確かに、目を凝らしてみると土俵の上に白い粒のようなものが落ちているのがわかる。それも満遍なくだ。死体の上にも薄っすらと積もっているように見える。
「ほら、お相撲さんが土俵入りするときに塩をまくでしょ? あの塩」
「あぁなるほど……いや、でもなんで塩が。ぱっと見死体にもかかってるように見えるけど、誰がそんなことを?」
「それがね、なんと死体の発見者。正確には発見者が呼び寄せた巡業の関係者ね」
「発見者の……関係者?」
「うん。私も詳しくはわからなかったんだけど、どうも彼ら、警察に通報するよりも先に土俵から死体を降ろそうとしたみたいなのよ」
「土俵からねぇ」
まぁ、ここまではまだ理解できなくもない。土俵よりもフロアに降ろした方がいろいろ都合がいいだろうし、目につく高いところに死体があったら目立たない位置に移そうと考えるのが人情だ。動転した発見者が死体の移動と警察への通報の順序を前後させてしまっても責めることはできないだろう。もちろん、捜査する側からすれば現場に手を付けないでくれる方がありがたいけれど、一般人に完璧な対応を求めるもの酷だ。
しかし、死体はいまも土俵の上にある。ということは死体の移動には失敗したらしい。あの巨体で、力の一切入らない死体では無理もない。引きずるのも心理的な抵抗が大きい。あるいは急な連絡で死体を動かせるほど人が集まらなかったか。どちらにせよ死体を動かせなかった彼らは次善の策として塩をまいたということか。
いや、なんでだよ。どういう回路を辿ればそこへ到達するんだ。
「それと塩に何の関係が?」
「ほら、さっきも聞かなかった? 土俵は神聖な場所で、穢しちゃいけないって。そして死は穢れの中でも最大級」
「あっ、もしかしてその穢れを払うために塩まいたとか?」
「そうみたい」
私と晶は同時にため息をついた。今日は朝から怒ったりため息ついたりと忙しい。どういう文化圏なのだ? 死体の上から塩をまけば穢れって上書きできるんだっけ? ゲームのセーブデータか?
「そんなに穢れるの嫌なら岩塩を土俵にしたらいいのに。ピンクソルトとか使って可愛くしてさ」
「そうなったら土俵じゃなくて岩俵だし、頭打って死体が増えるだけじゃない?」
「別にいいわ。土俵に入れない私には関係ないし……シロくん!」
警察職員にあるまじき発言をした晶は、手を挙げて土俵にいるほかの鑑識官を呼び寄せる。シロくんなるあだ名に反応したのは、死体のそばで地面に這いつくばって血痕を凝視していた若い男性だった。黒縁眼鏡をかけた顔がすっと上がり、彼はたっぷり十秒近く時間を使って立ち上がると背筋を反らしてからようやく土俵を降りる。
「はい……赤井川さん?」
「シロくん、何かわかったことある?」
「そうですね、えーと……」
シロくんとやらは眼鏡をはずし、小さな目をごしごしと擦りながら土俵に視線をやった。昨今の若者らしさなのか、よく言えば気負わず、悪く言えば覇気にかけたところがあり、いまにもあくびをしそうなのんびりした空気を身にまとっている。上司が警部なら間違いなくどやされるところだけど、鑑識課はそこまで体育会系に染まっていないらしかった。
シロくん(本名不詳)は眼鏡を掛けなおし、私の顔を見上げて、その背の大きさにちょっと驚いたような顔をしてからようやく口を開く。
「あっと、まず……被害者の死因ですが、あぁまだ検視してないので確定ではありませんけど、おそらく撲殺です。頭蓋骨に陥没がみられますね。何か固いもので殴られたと思いますけど、現場にはそれらしいものはなかったそうです」
「凶器は何かわからないの?」
「いえ、まだ何も……詳しく検視すれば、傷口に手掛かりが付着しているかもしれませんが」
シロくんは肩をすくめて質問に応じる。そして思い出したように口を開いた。
「あぁでも、塩を思いきりまかれたので無理かもしれませんね。顕微鏡で見るまでもなく、傷口も塩まみれです」
関取って刑事ドラマとか見ないんですかねーなどと暢気に言う鑑識官の後ろから、川島が再び姿を現した。早くも疲労困憊の顔だ。
「神園さん。警部からです。被害者の妻に話を聞きに行けと……どこにいるかはまだわからないそうですけど」
「えぇ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます