土俵上の殺人/アラフォー刑事と犯罪学者

新橋九段

1.女性は土俵から降りてください

 三十九年の人生で初めて、相撲をする会場に私は足を踏み入れた。

 相撲をする会場という表現が、既に相撲を知らない人間のそれだけれども仕方ない。私の人生において相撲というのはほとんど異国のスポーツだ。横綱が三人いることもつい最近知った。京都でも相撲の巡業というものが行われていることに至っては今日初めて知ったくらいだ。

 だからというわけではないけれど、初めて巡業会場に足を踏み入れるならせめて、殺人事件の捜査じゃない方がよかったなと素直に思う。これで今後、相撲の話題が出るたびにこの事件のことを思い出すことが確定した。

 巡業会場は普通の体育館のど真ん中に土俵を持ってきたような作りだった。本来であれば多くの観客が入るのだろうフロアには白いシートが一面に敷かれていてのっぺりとした見た目になっている。土俵の四隅からは花道がフロアに伸び、閉ざされた扉へと続いている。土俵の上には本来、屋根のようなものがついているはずだけどこの会場にはないらしい。二階席もあるせいで体育館は広々として見える。

 そして土俵の周りには大勢の捜査官が集まっていた。スーツを着た捜査官や作業服の鑑識に混じって、着物姿の関取らしき人物もちらほらと見える。その人だかりの間から、横たわる大柄の男の姿がちらちらと見える。あれが被害者か?

「あっ、おはようございます神園さん」

「あぁおはよう、川島」

 私の脇を寝ぼけまなこで後輩刑事が通り過ぎていく。人の良さそうな顔なのに髪もスーツもよれよれだ。確か彼は昨日、夜遅くまで書類の山と格闘していたはずだ。先日発生した一家皆殺し事件の対応とかで。犯人は父親だったっけか。そんな事件のせいで川島はあまりしっかり休めずに現場へ駆り出されることになったのだろう。災難なことだ。

「しかし……また妙なところで殺しが起こりましたね。マスコミ対策が大変そうです」

 川島は春先の寒さに身を震わせながら言う。白い眉間に深いしわが刻まれている。これから押し寄せることになるマスコミの波を想像しているのだろう。記者も人間なので、強面でいかつい刑事よりも川島のような優しそうな人間に話を聞きたいと殺到してくるのだ。おかげで彼はすっかり、マスコミ対応担当みたいに扱われつつある。もっとも、刑事としては優等生な彼なら余計なことを口走ることはまずないだろうし、マスコミの注意がそちらへ集中するなら私たちも仕事をやりやすい。

 すまんな川島。

「記者もたまには神園さんに話を聞けばいいのに」

「京都府警きっての不良女刑事の話に信憑性なんてないでしょ? マスコミに追っかけられるのは信用されてる証拠だと思って諦めなさい」

「えー」

 不満げに口を尖らせる川島と私は、フロアを突っ切って土俵際にまでやってきた。フロアの外周はまだ朝の冷気が残っていたけれど、土俵の上は人がひっきりなしに行き交うせいか熱気も感じられる。本来土俵の上で繰り広げられる取り組みと違って、こちらは殺人の捜査に慌ただしい熱気だから感じていて心地いいなんてことはないけれど。

 そしてここまで近づくと被害者の姿もある程度はっきり見えるようになった。水色の浴衣を羽織った巨体が土俵の真ん中に沈んでいる。うつ伏せでだらりと手を落とすその姿には生前の躍動感のかけらもない。

 大関鶴の山。それが被害者の名前、もとい四股名だった。本名は鶴岡良治。二十五歳。相撲を知らない私でもニュースの映像でその取り組みを見たことがあるほど有名な力士だ。その巨躯が土俵の上で縦横無尽に動き回れば、それは見ものだっただろう。

「おい、川島っ! こっちだ!」

「警部っ! おはようございます!」

 土俵の上から白髪交じりの髪をひっかきながら警部が不必要な大声を上げる。大げさに腕を振り川島を呼び寄せている。川島もつられて大声になり返事をする。見た目はよれよれでも中身は若手。彼はひょいとひと飛びで土俵へ上がると遺体へと近づいて行った。

 土俵は私が想像していたよりも低かった。脇には足をかけるためのくぼみもあるけど、下手すれば力士に勝てる高身長の私なら必要ない。決して川島に張り合うわけではないけど、私は彼と同じようにフロアを蹴って軽やかに土俵へと上がる。土俵の上は視界が一段と高くなるが、普段から人を見下ろして歩いている私にとってはあまり新鮮ではない。

「ちょっと! 何やってるんですかそこの人!」

 突然、下から警部よりも大きな声が響く。私の足元で力士の一人と思しき男が額に汗を浮かべて喚いていた。声に川島も反応してちらりとこちらを振り返るが、警部にしつこく呼ばれて人ごみに姿を隠してしまう。

 土俵際にいる人間は私しかいない。しかしまだ何もしてないと思うけど……。

「そこの人ですよ! そこの革ジャンの人!」

「……あ、やっぱ私か……」

 殺人事件の現場に革ジャンで乗りつける人なんて私しかいない(そして不良刑事呼ばわり最大の原因だ)。よく見るとその力士は私のほうを見て指までさしている。彼の声は怒気を含みつつあるけど、理由はよくわからない。

 もしや。

「あっ、靴か。すいません、土俵が土足厳禁とはつゆ知らず」

「違いますよ。靴じゃなくて……とにかく降りてください!」

「はぁ……」

 力士の態度に段々と迫力が増してきて怖い。と言っても暴力を感じるが故の怖さでなくて意味不明なものを目にしたときの恐怖だ。精神の調子を崩してしまった人から京都府警に送られてきた脅迫状をかつて読んだことがあるけど、あの時に感じた背筋にムカデが這うような気味悪さに近い。

 原因は靴じゃない。それはそうか。警部だって川島だって土足でがんがん土俵を踏んでいるのだから。

 埒が明きそうにないので、私は一旦土俵から降りることにする。事件現場で一般人の言うことを聞く刑事という滑稽な構図だが仕方がない。こういうときは相手を刺激しないのが一番、受容と共感ですよなどと恋人の某犯罪心理学者も言っていた。

 私がもたもたと土俵から降りている間に他の力士までぞろぞろと引き寄せられてきて、私の周りは色とりどりの和服で埋まってしまった。ただでさえ体積が大きい(体積云々は人のこと言えないけど)のに人数も思いのほか多くて、圧迫感がすごくある。広々した会場で私の周りだけ満員電車が再現されてしまったようだ。彼らよりも頭一つ大きい私の視点からだとちょんまげの海が眼下に広がっているように見えてちょっと愉快ですらある。

「駄目じゃないですか。土俵に上がっちゃ」

 さっき私へ声を荒げたのとは違う、温厚そうな顔つきの力士が言った。彼ちょっとアンパンマンに似てるなとか考えながら私は革ジャンの内ポケットから警察手帳を探る。

「大丈夫。よく服装で勘違いされるけどこう見えて京都府警の刑事だから。捜査第一課の神園薫……」

「いや、そうじゃなくて」

 警察手帳を開いて見せる、これをやると一般人はまず「ドラマみたいだ」とか言って目を輝かせてくれる警官ムーブは、しかしアンパンマンに遮られてしまった。心なしか彼の優しそうな顔が少し険しくなっている。どうも、私を現場に紛れ込んだ一般人と誤解したわけではないらしい。

 じゃあどうして?

 私の疑問符が無言のうちに伝わったらしく、力士たちがため息をつく。アンパンマンの隣にいるまた別の力士が腕組みをしたまま、重々しく口を開く。

「土俵は女人禁制です。女性に上がられては困ります」

「……はぁ?」

「女人禁制」

 しまったと思ったときにはもう遅く、私の素のままのリアクションが口から飛び出してしまった。それを聞いた力士が一音一音はっきりと繰り返す。女人禁制なんて言葉、日本海に浮かぶ神聖な無人島とかでしか今日お目にかからない文字列だ。それが二〇一八年に京都市内で聞けるとは。

 私の不躾な反応に、力士たちは露骨に苛立ったようだ。私との距離が近くなる。

「神聖な土俵に女性は上がってはいけない。これは古来よりの決まり事です」

「いや、殺人事件の捜査なんだけど……」

「どうあれ、女人禁制を破るわけにはいきません。お引き取りを」

 お引き取りをって。しかしロジックは分かったから不可解さも消えた。彼らは彼らのカルチャーに基づいて女人禁制を主張しているのだろう。不良少年集団とか暴走族とか、根本から価値観が私と違う集まりを相手にしているときと似ているなと思えば理解できなくもない。普段の捜査であれば相手が子供だということもあって、向こうの価値を尊重しつつ宥めすかして情報を得たりするところだ。かつては暴走族から捜査協力を取り付けるためにチキンレースもしたことのある神園薫である。海に向かって一直線というあれね。当然勝った。

 でも力士たちはいい大人。暴走族の少年少女じゃない。しかも現場に近づけないのでは捜査にもならない。あぁそうなんだ、わかったわかったと言って踵を返すわけにもいかないだろう。

 私は力士たちを威圧するように、一度大きく息を吐いてから正面にいる人間を真っすぐ見つめる。そして声を低くしてはっきりと宣言する。

「いいですか皆さん。これは殺人事件の捜査で、私は警察官です。これ以上捜査の妨害をするのであればそれ相応の対処をさせていただきます」

「なんだと!」

 横合いから力士の怒声が飛ぶ。そいつに私の肩が乱暴に掴まれた。

 好機。私は肩を掴んだ力士の腕を掴み返して自分の方へ引っ張り、彼の体を寄せて下へ潜り込み膝のクッションを利用して跳ね上げる。流石に持ち上げられないけれど、横から滑らすように引っ繰り返し裏返った亀くらいには出来る。その状態からさらに腕を引いて体を反転させ、うつ伏せにして手を背中に押し付ける。

 この間僅か二秒。まさか自分たちが制圧されるとは思っていなかった力士たちはぽかんと口を開けてその様を見ていることしかできなかった。

「女だからって甘く見たわけ? 残念。一八八センチのフィジカルを舐めるな。十時七分、公務執行妨害で逮捕」

 決まった。厳めしい罪名を宣告された彼らは一気に私から距離をとる。自分も手錠をかけられてはたまったものではないと考えたのだろう。相撲取りたちの主導していた空間はあっという間に事件現場に戻った。めでたしめでたし。私は腰から手錠を取り出して制圧した力士の手首にかけ……あれ?

「手錠が……はまらない……」

「何やってんだ神園!」

 力士の太い手首に手錠がかからずあくせくする私に、ようやく騒ぎを聞きつけた警部が怒声を放つ。警部が土俵から降りて私の元へ歩み寄ってくると、力士たちもしずしずと道を開けて彼を通した。

「あぁ警部。大きいサイズの手錠持ってませんか? 入らなくて」

「大きいサイズってなんだ……おい、ちょっとこっち来い」

「えぇ、ちょっと……」

 警部は私の首根っこを掴んで引っ張り(と言っても、警部だって私よりも頭一つ分背が低いのだからけっこう無理のある姿勢だ)、力士の海をかき分けて土俵から離れていく。おかげで私はせっかく捕らえた獲物をみすみす手放してフロアの中ほどへ移動する羽目になった。

「ったく……どうして力士に手錠かける羽目になってんだお前は! 現場に来て数分でトラブルを抱え込むんじゃない!」

「どうしてって、公務執行妨害ですよ警部。あいつら土俵に上がるなとか訳の分からないことを」

 私の説明に警部は一瞬硬直し、そして状況を理解したようで大きく肩を落とした。額に手を当てて眉間にしわを寄せている。どういうわけか怒りの感情よりも呆れが上回ったようだ。

「神園、お前相撲見ないだろ?」

「見ませんよ。あぁでも、さっき取り押さえた力士の顔くらいなら覚えました」

「そうじゃないっ。ったく……いいか神園。土俵ってのは女人禁制なんだ。お前は上がれない」

「いや、それはさっき彼らから聞きましたよ。どういうわけなんですか?」

「土俵の上は神聖なんだ。それで、女ってのは穢れてるから土俵に上げるわけにはいかないってのが、巡業を仕切ってる相撲協会の説明だ」

 警部は苦虫を噛み潰したような顔で言う。歯に何かが挟まったようなすっきりしない物言いだ。私は警部が「相撲協会」の部分を強く発音したのを聞いて事情を察する。

「ははぁ、警部。もしかして上から釘刺されてます? 女は土俵に上げるなって」

「うるさいぞ……ま、死体が乗っかってんのに穢れもくそもあったもんじゃないと思うがな、反感買われて捜査に支障が出ても面倒だ。現場の捜査は男だけでもできる。お前は土俵に近づくな」

「はいはい……ものわかりがいいことです」

 私が小声で放った嫌味を、警部は聞こえていないふりをする。この分だと警部も不服には思っているらしい。昔ながらの警部のことだから、あくまで捜査方針に口を挟まれたことに対してだろうけど。

「しかし、死体に近づけないんじゃあどうやって捜査すればいいんですかね」

「新入りじゃないんだから、それはお前が考えろ。いろいろあるだろ……聞き込みとか」

 警部は適当にお茶を濁してそそくさと土俵へと戻っていく。私たちが話をしている間に力士たちも散り散りになって土俵の周りに漂っていた。もしかしたら彼らは、私みたいな女性の捜査員が土俵に入らないように「上から」動員されているのかもしれなかった。事情聴取にしては人数が多いし自由に歩き回りすぎている。

 京都市内の巡業、そこでの殺人。となると余計な口出しをしてきたのは市政か? あるいは相撲協会か。警部の言い方だと協会の方が気を回した印象だったけど、どっちもが関わっている可能性もある。

「あぁそうだ神園」

「……なんですか?」

 土俵を眺めながらぼうっと考え事をしていた私に、警部が思い出したように振り返って声をかけてくる。私はこれ以上面倒ごとが増えると嫌だなと思いながら身構えた。

「ついでに赤井川も回収しとけ。騒ぎが大きくなる前に」

「晶が?」

「ちょっとっ、いい加減にしなさいよぉ!」

 親友の名前を聞いて、私がその姿を目で探し始めたとき聞きなれた声が会場の向かいから響いた。音が高くて語尾が舌足らずになる喋り方。珍しく語気を荒げている彼女の声を追って私は土俵の反対側へと回り込んだ。

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