3.外野の犯罪学者

「その流れで、なぜここへ?」

 スーツの男が電気ケトルからカップへお湯を注ぐ。粉末のカフェオレがお湯に溶けると、部屋に満ちる本のかび臭ささに甘いカフェインが混じっていった。部屋の壁には天井まで伸びる本棚が配置されており、そこに隙間なく本や雑誌が詰め込まれていた。雑誌の巻数から本の高さまできっかり揃えられたディスプレイは、所有者の頭の中をこれ以上なく反映している。窓にはブラインドが下りていて、まだ午前中なのに部屋の中は薄暗かった。

「しょうがないじゃん、優。その被害者の妻がいまどこにいるかわからないんじゃ話を聞きに行けないし、暇だし」

「暇って……」

 私はトレーに四つのカップを乗せて運ぶ優へ不平を言った。紫木優ゆかりきゆう、この部屋の主はトレーを机の上へ置き怪訝そうに眼鏡の奥の瞳を細める。彼が私の対面にある椅子に身を沈めると、椅子と一緒に右の義足が軋みを上げた。

「それ大丈夫なんですか、薫さん? 事件の関係者が行方不明って、こんなところでだべっている場合ではないのでは?」

「大丈夫ですよ。どうも相撲協会が先に事情聴取しているみたいです。それが終わるまで待機……と、さっき警部からメールありました」

 優の質問には川島がスマホを振って答える。また相撲協会かと私は嘆息し、カップのカフェオレをすする。甘っ。

「相撲協会ですか……そして怒り狂った赤井川さんもここへ?」

「そう! ほんと、嫌になっちゃう」

 晶が机をバシバシと叩くせいで、上に乗っているカップが震えた。優はあまり丈夫とは言えない机の崩壊を心配するように手で押さえて苦笑いする。彼の目尻に皺が刻まれて、実年齢よりも老けて見えた。雰囲気も落ち着いているので、下手すると私と同じくらいの年に見られることもあるけど、これでも三十路きっかりだ。この場合、私が若々しい(いや、子供っぽいんだよと晶は言う)せいもあるけど。

「捜査員は土俵に上げないわ現場に塩をまき散らして荒らすわ……殺人事件を一体何だと思ってるのかしら」

「なかなか興味深いことになってますね。土俵で見つかった死体ですか……ふむ」

 優はカップに口をつけて目を閉じる。彼はここ、鹿鳴館大学に勤める犯罪学者であり、犯罪にかかわることなら文字通り寝食を忘れて調べつくし知り尽くす性癖がある。恋人として同棲する私にとっては心配の種であるライフスタイルだけど、一方でその知識が私たちの捜査に生きることも珍しくないから止めろとも言いにくい。いくつかの事件の捜査に京都府警のコンサルタントとして参加し、解決にも導いているとなると余計に。

 もしかすると彼の頭の中では、既にこの奇妙な事件がかつての事例と結びつき、解決までのロジックを組み上げているのかもしれなかった。土俵と関係するかつての事件なんてあるかはわからないけど。

「何か気になる?」

「いえ、ただ……なんで土俵の上なんだろうって思いまして」

 優はカップを机に置くと天井を仰いだ。

「ほら、殺害されたのは大関でしたよね? そんな人を殺すなんて大変じゃないですか。仮に後ろから襲っても、一撃で決められなければ返り討ちです。普通の人ならまず勝てない」

「薫くらい大柄で武道にも精通してればどうにかなると思うけどねぇ」

 三人の視線が私に集中する。確かに、さっき力士を取り押さえたけどさ……。これじゃ私が相撲取りにも真正面から勝てる化け物みたいだ。私は慌てて手を振り、無理無理と否定する。

「不意をつけたら可能だし、まぁ実際できたんだけど、でも取り押さえるところまでよ? 命がかかってたら向こうも必死に抵抗するし、そうなったら同じ相撲取りでも難しいんじゃない?」

「ですよねぇ。僕が力士を殺すなら寝込みを襲うか料理に毒を盛るかの二択です。土俵の上で迎え撃って撲殺なんてまず選択肢に入りません」

 優はカップに薬を盛るようなジェスチャーをしながら言う。確かに彼の言う通り、土俵が殺害の現場に選ばれているのが不可解だ。

「川島、死体は動かされていないよね?」

「えぇ。土俵から降ろそうとした形跡はあるんですけど、その逆はないようですね。というか無理だと思いますよ。あんな巨体を降ろすならともかく持ち上げるなんて」

 川島は頬を掻いて応じる。その言葉を聞くと優は腕を組んで唸った。

「犯罪者にも、彼らなりの合理性があります。もしかすると、土俵という一見犯人にとって不利に見えるフィールドは、うまく使えば極めて好都合な殺人装置になったのかもしれません。何か、事件を解釈する補助線があれば……」

「そうね……それが分かれば犯人もわかるかもしれない」

 私は優にそう返すものの、一方で土俵を使うと有利な人物って誰だよと思っていた。土俵さえなければ普通の殺人事件なのに、これが絡むせいでどうにも複雑で訳が分からないことになっている気がする。

 研究室に沈黙が流れ、時計の秒針の音だけが響いた。

「……もしかして犯人は力士の誰かなのかも」

「うん? どうして?」

 晶が不意に口を開いて言う。その声は妙に確信したような響きがあった。

「ほら、彼ら土俵が神聖だとかなんとかしつこいくらい言ってたじゃない? だから裏をかいて、あえて死体が土俵に残るようにした」

「神聖な土俵の上で力士が殺人を起こすわけがないと思わせて、警察の疑いを自分から逸らしたってことですか?」

 川島が補足すると晶が頷く。でも川島は微妙そうな顔をしている。

「いや、それはあまりにも現実味が……大体、僕ら力士を容疑者から外してませんからね。当たり前ですけど」

「しかし、力士たちの立場から見て現実的であれば十分かもしれません。実際、彼らは殺人が起きてもなお頑なに薫さんや赤井川さんを土俵から排していますから、そう考えても不思議ではないですよ」

 優が口を挟んで言う。犯罪学の中でも特に犯罪心理学を専門としている彼が犯罪者の心理のことを言うとむやみに説得力があるけど、それでも力士が裏をかいたという説には流石に首肯しかねる。

「でも優、その説明だとやっぱり力士は土俵で殺人を犯さないとも言えるでしょ? 自分たちの信仰を警察が信じ込むと思うほど強固なものだと考えているならば、それに反することをするとは思えない」

「そうよねぇ……あの盛り土の何が大事なのかさっぱりだけど、彼らの目はマジだったもんね」

 晶が自分の発言を退けてしかめ面をする。現場での騒動を思い出したのだろう。あれを経験してしまうと、力士が土俵で死体を出す真似をするとは確かに考えにくくなる。あれくらい本気で土俵の神聖性を信じている人たちがその上で殺人を実行するのはかなり抵抗があるだろう。

「ところで気になったんですけど、薫さん。土俵に女性が上がっちゃいけない理由って、土俵が神聖だからなんですか?」

「え? そうだった……よね?」

 優が唐突に首をかしげて言うものだから、私は自信を失って晶と川島に問いかける。二人が頷くのを見て、優は頭を掻く。

「現場の力士はそう言ってたけど」

「そうですか? おかしいですね……僕は昔、相撲は神事で豊穣の女神に奉納するものだから、女性を土俵に上げると嫉妬を買ってしまう云々と読んだ記憶があるのですが……」

 優の説明にその場にいる全員が考え込んだ。そういえば、そんな話聞いたことがなくもないような?

「どうだったっけ? 紫木先生の話も聞き覚えあるような……」

「僕も聞いた記憶はありますよ。でもそれって相撲の話でしたっけ?」

「あー、そういえば女人禁制の島とかはそんな感じじゃなかったっけ? 優」

 記憶も知識も三者三様。こうなってくると土俵の女人禁制というのが疑わしくなってくる。

「まぁ、理屈はともかく彼らにとって大事なのは女性を入れないということなんでしょうね。差別というのは自分と他者を切り分け明確に扱いを変えるところから始まりますし。黒人と白人で座席を分けたバスしかり……」

「ふうん、いい加減なものね」

「そりゃ、大昔の人間の理屈を現代に持ってきたら大概いい加減ですよ。それでもその伝統を大事に思えるというのが人間の不思議なところです」

 なんか社会心理学の講義みたいですねと優は笑った。彼にとっては興味深い人間心理の一現象なんだろうけど、私にとってはどうでもよかった。

 ズボンのポケットに入れた携帯が震える。川島のものと違って私のものは十年選手のガラケーだ。私は優に断ってから携帯を開いて電話に出る。電話は警部からで、すっかり悪くなったスピーカーから聞き取りにくい声が低く響いた。

「おい、神園」

「もしもし警部。何かわかりましたか」

「あぁ、協会がようやく被害者の妻の聴取に応じると。京都市内の自宅にいるからそっちへ向かえ。住所は送らせる」

「自宅? 相撲部屋とかじゃなくてですか?」

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