5.魚が池で死んでいる
「で、いま薫たちは何してるの?」
「うーん、待機?」
「またぁ?」
電話口から晶のため息交じりの声が聞こえてくる。私も一緒になってため息をついた。
「しょうがないじゃん。これも警部の命令、というか相撲協会の横槍?」
「今度は誰をとっ捕まえてるの?」
「たぶん、鶴の山の付け人だった人じゃないかな? 朝錦とかいう」
私はぼんやりと小川を見つめながら晶の質問に答えた。場所は鶴岡宅のすぐそば、川島の車の中である。川の流れは緩慢で、春の陽気も相まってこちらの眠気を誘う。働き通しの川島は遠慮することなく大欠伸をし、運転席に伸びていた。こっちも眠くなってくる。
鶴岡綾子の事情聴取を一通り終えた私たちは、またもや警部から待機命令を告げられてしまった。相撲協会のせいだ。一回京都府警に戻るという選択肢もあったけど、いつ呼び出しがかかるかわからないし、行けと命じられたところによっては無駄足になる可能性もあったので潔くこの場に留まろう、眠たいしということに落ち着いたのだった。
そして私が、晶から電話を受けることになった。
「で? 晶はなんか用? 新しいことが分かった?」
「まぁ、わかったっちゃわかったんだけどね」
晶の物言いは奥歯に物が挟まったようではっきりしない。現場に入れず直に状況を確認していない彼女からすれば、報告だけでそれを知るのは忸怩たる思いがあるのかもしれない。
それは私も同じだ。現場の様子は報告を聞けばわかるけど、直接目にしていないと何となく自分が担当しているという感じがしない。途中から捜査に加わったなら諦めもつくけど、今回はそうではないし……。
「検死の結果がおおむね出たわ。被害者の死因はやっぱり鈍器による撲殺だった。何かごつごつしたもので殴られてるだろうって。少なくともハンマーやバールの類じゃなさそう」
「ごつごつかぁ……ほかに凶器の手がかりになりそうなものはあるの?」
「あとは……鶴の山の頭、後頭部のちょっと上のあたりには古傷があって、鈍器の一撃はそこへクリーンヒットしたって。即死だったみたい」
「体はいくらでも鍛えられるけど、脳みそは無理だもんな……」
「うん。これは四年前の冬場所で負った怪我だろうって報告書にはある。被害者が優勝して大関昇進を決めた場所ね。土俵から落ちたときにまずいところを打ったらしいわ。手当てが遅れて大ごとだったみたい」
鶴の山の怪我を語る晶の声はトーンが落ちて、暗くなっている。相撲文化には腹を立てていても、若くして大関になった被害者の苦労に思いをはせると、やはり同情を禁じ得ないのだろう。
「っていうか、ずいぶん詳しいじゃない」
「そう、調べたのよ。土俵から追い返された後に!」
あっ、怒りが再燃した。晶の声からは悲壮感があっさり消し飛んで、語気が強くなっていく。
「それにね、ちょっと聞いてよ薫!」
「う、うん? 何?」
「鶴の山が怪我した取組みの動画もたまたま見つけたから見たんだけどね? 酷いのよ! 鶴の山が土俵から落ちて動かないのに誰も助けに行かないのよ! 普通こういうスポーツするときって医者が近くにいるものでしょ? 相撲にはいないのかしら? それで土俵に塩まいておしまいなんだから……」
「あ、晶? 他に手掛かりになりそうなことはある?」
ここまで一方的にまくしたてる晶は珍しかった。普段は聞き上手で通しているのに、今回は諸々がよほど腹に据えかねたようだ。私は話が明後日の方向へ行ってしまう前に、遠慮がちに彼女の言葉を遮り軌道修正を図る。
「あぁ、ごめんごめん……あとね、これは微妙なんだけど傷口に塩と土が付着してるって。でもこれは土俵の土とまかれた塩でしょうね」
「だよねぇ。余計なことを」
私と晶はもう一度ため息をついた。傷口に鈍器の破片とかメッキとか、何か特徴のあるものが付着していてくれれば凶器を特定する手がかりになる。しかしその繊細な証拠は警官到着までのごたごたで消えてしまったのだろう。
「でも気になるのはね、付着していた塩と土の中に、微妙に見た目の違う粒が混ざってるらしいのよ」
「微妙に違う粒?」
晶の突然の言葉に、私はシートから体を起こした。
「そう。報告書には言葉でそうとしかか書かれていないからわからないけど、解剖医の人が何か見つけたみたい。採取したサンプルは科捜研にまわすって」
「じゃあその粒とやらが何がわかるまで時間がかかるってことか……その間に捨てられないといいけど、凶器」
「そうねぇ……」
私は晶の声を聴きながら欠伸をする。その音が電話越しに聞こえてしまったらしく、晶が「んん?」と咎めるような声を上げた。
「ちょっと、真面目に捜査してる? そっちは何かわかったの?」
「やってるよ……被害者の奥さんが岩塩紅茶飲んでることとか、川で魚が死んでることとか……」
「川で魚が? 何言ってるの?」
「いや、ほら……被害者の家の近くに綺麗な小川が流れてるんだけど、草むらの奥のほうで魚がお腹浮かせて死んでるんだよね」
晶がこれ見よがしにため息をついた。その声を聞いている間に魚の死体が一匹増えた。
「薫? ふざけてるの?」
「ふざけてないよ。ちゃんと捜査してる。ただ澄んだ水でも魚って死ぬんだなって」
「それはそうでしょう? 絶景のカリブ海でも錦鯉は生きていけないもの……ってそうじゃなくて、薫は頼みの綱なんだから、頑張って真相を解明してほしいのよ」
「頼みの綱?」
晶の声が切実さを帯びる。私は起き上がってメールを確認し始めた川島を横目に聞き返した。
「そう。土俵に私や薫が上がれなかったこと、もう署内じゃ噂になってるの。もうみんなカンカンよ。で、何とかしたいけど事件に直接かかわってる女性警官ってもうあなたしかいないでしょ? だからみんなあなたに活躍してもらって、相撲協会とかをぎゃふんといわせてほしいわけ」
「はぁはぁ。でも私にそんなこと言われてもなぁ」
「お願いよ? 土俵でごちゃごちゃやってくれた力士たちのせいで現場に残されてた足跡や毛髪みたいな痕跡も全部ダメになって、鑑識ではできることももう無さそうだし」
「はぁい。わかったよ。どうせやることは変わらないし」
私はそれだけ言うと電話を切る。それを見た川島が目線をこちらに向けてくる。
「赤井川さんですか? 何かわかりました?」
「いいや。なんか傷口に付着物が見つかったとかなんとか。そっちは?」
「平さんが宇治新聞の記者から事情聴取したみたいですよ。奥さんの言った通りの時間に取材してますね。夕刊に掲載する予定だった記事を写真で送ってくれました」
平さんというのは私よりも年上のベテラン刑事だ。普段おっとりしているけど、さすがこういう時の仕事は早い。川島がこちらへ向けてきたスマホの画面には、白黒でコピー用紙に印刷された新聞記事が写っている。
「早いな。今朝取材したんでしょ?」
「平さん曰く、記事の大筋は既に決まってたらしいですよ。夕刊に間に合わせないといけないとかで、取材で聞いた鶴の山の発言を入れたら完成するようになっていたみたいです」
「へぇ……これ、大きくできる?」
「えぇ、こうやって……」
私は一旦川島にスマホを返して、記事の写真を拡大してもらう。川島は二本の指を広げるように画面の上で動かすと、またこちらへスマホを差し出してくる。
私でも写真の動かし方はわかっている。指でついついと写真の位置を調節して記事を読んでいく。
記事には笑顔の鶴の山と妻の写真が大写しになっていた。二人とも着物で、いかにも日本の伝統を守っていますとでも言わんばかりの姿だった。鶴の山が頭一つ分低い妻の肩へ手をまわしている。見出しは「二人で歩む大関」と。夫婦関係に焦点を絞った記事のようだ。夫婦は京都市の出身で出会いは高校からだとか、巡業の合間には市内にある鶴の山の実家でくつろいでいるなどというローカル感溢れる記載が多い。鶴の山の実家というのは、さっき訪ねたあの家のことだろう。なるほど、巡業が地元なら住み慣れた家でゆっくりするほうがいい。尋ねた家には鶴岡以外の人の姿はなかったけど、鶴の山の両親は彼が大関になる直前に亡くなっていることも書かれていた。
「妻が気を付けていることは……料理に使う素材。ミネラル豊富な岩塩を云々……」
「また岩塩ですか。そんなに健康にいいんですかね」
私が適当な文章を口に出すと、川島が思い出すように車の天井を見つめながら言った。紅茶にも岩塩が入っていたし、台所のカウンターに置いてあったスパイスの瓶の中身も岩塩だったのかもしれない。黒こしょうのようにミルで削って使う岩塩もあるらしい。
大関の妻というのは大変なんだろうか。スポーツ選手の妻が料理に気を使うというのはよく聞く話だけど、力士はちゃんこ鍋を食べている姿しか想像できないし……。
私が想像を遠くに飛ばしかけたところに、ぴこんと短い音が響く。
「あっ、平さんからもう一通メールが」
私はスマホを川島に返す。彼がメールを確認している間、私は視線を川へと戻した。
晶に言った言葉は、何も悪ふざけじゃない。すぐそばに流れている小川は両脇をそそり立つコンクリートの壁に囲まれた、郊外の道でよく見る構造のものだ。水深は手のひら大の魚が生息できる程度には深いらしい。川には雑草が蔓延っており、それが所々で川の流れを遮ってしまっていた。その流れの行き止まりの一つで、魚何匹も腹を見せてくたばっている。水は透明で近くに下水を垂れ流す排水溝もないのに、珍しいこともあるものだ。
晶のように現場に入れてもらえず活躍できない人もいるけど、この魚みたいに自分のフィールドでも容赦なく死んでしまう生き物もいる。などと考えると妙に感傷的になってしまう。
「神園さん。被害者の付け人をしていた力士と会えるそうです。平さんと手分けして事情聴取をしろという警部からの指示です」
「そう……じゃあ行きましょうか。どこで?」
「巡業会場だそうです」
「逆戻りね……」
川島は車のエンジンをかけ、アクセルを踏み込んだ。
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