エピローグ

「ねぇ、お兄ちゃん。 結局……あの怪異の正体は何だったの?」

 冬枯れの枝がゆれるざわめきすら聞こえない穏やかな冬の午後。

 二宮教授を殺人事件の犯人として報道するニュースが流れるテレビの前で、新井七深は首をかしげる。

 そんな妹に、祐玄はかすかに苦笑を浮かべながら、端的に答えた。


「たぶん、良心だよ」

「良心?」

 よくわからないといわんばかりに眉を寄せると、七深は祐玄の座るソファーの隣に腰を下ろす。


「そう、どんな人間にも良心というものは存在するんだ。

 あんなクズ野郎でも、それだけは変わらない。

 こんな話を知っているかい? 時効を間近に控えた犯罪者にかぎって、時効ギリギリになると自首してくるって話」

 だが、七深は首を横に振った。


「知らない。 なんで? そのまま逃げてしまえば無罪になるのに」

 なるほど、一般の人間からすればそれが素直な意見であろう。

 そんな妹の言葉に苦笑を浮かべると、祐玄は頬杖をつきながら頭の中で言葉を組み立て、そしてこの怪異の根源となる部分を口にした。


「法的には無罪になるかもしれないが、本人の意識はそうならないからさ。

 自首してきた人間にその理由を尋ねると、ほとんどがこう告げるそうだ。

 時効を迎えてしまったら、もう誰にも罪を裁いてもらえなくなる。

 そして、永遠に許されなくなってしまう……そんな風に思い込んで、時効を迎えることに耐えられなくなるらしい。

 人間とは実に繊細で複雑な生き物だな」

「それで、あの怪異はその良心が見せた幻だったってこと?」

「さぁ、それはどうだろうか? 録音された足音が本物だとしたら、本当にあやかしかもしれない。

 道教の思想によれば、人の体の中には生まれた時から三尸と言って人の罪を見張る虫がいる。

 そしてその虫は庚申の夜になると人の体を抜けだしてその人の罪を天に報告し、天はそれに応じて人の寿命を削るのだそうだ。

 聞くところによると、仙人になるにはこの三尸を殺す必要があるらしいが……もしも三尸の正体が人の心の中にある良心というものだとしたら、実に皮肉な話だと思わないかい?」


 そう語りながらテレビに目を向けると、犯人が時効の後で自首し、そして死んだことを知り、複雑な感情を抱えながらむせび泣く鈴木春香の両親の姿が映っている。

 彼らがその胸にかき抱く遺影の中で穏やかに微笑んでいる鈴木春香の魂は、二宮教授が罪を告白したことで少しは救われたのだろうか?


「いずれにせよ、怪異はもう消えた。 俺の仕事は終わりだ。 成すべき事はもう何も無い」

 その類稀れな美貌にわずかに憂いを乗せ、祐玄が言葉を投げ捨てる。

 再びテレビに目を向けると、ニュースは天気予報に切り替わり、ニュースキャスターが笑顔で明日の天気を告げていた。


「――このところ日本全域を覆っていた猛烈な冬型の気圧配置は緩み、明日は南から入り込んだ暖かい空気によって全国的に雨となるでしょう」

 その言葉が終わるより早く、祐玄はテレビのリモコンに長い指を伸ばし、電源のボタンに触れる。

 まるで、この世の雑事には興味がないといわんばかりに。

 そう、彼の関わるべき物語は、もう終わったのだ。


 そして彼は、長い睫毛に縁取られた黒水晶のような目を窓の外へと向け、祈るようにそっと閉じた。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 人通りの絶えた薄曇りの空の下、占い師の事務所の前の道に降り積もったみぞれの上を、目に見えない何かが湿った音を立てつつ遠ざかってゆく。


 みぞれの降る夜の中をさまよう足音は、たぶんもう響かない。

 風のない冬の午後は、死化粧を施されて最後の挨拶を待つ棺の中の死人のように安らかで、そして静かであった。

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びしゃがつく夜 卯堂 成隆 @S_Udou

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