第5話

 白蛾しろひひる易断鑑定所を出た二宮教授は、自宅ではなくあらかじめ偽名で予約しておいたホテルへと足を伸ばしていた。

 なお、二宮教授は心労のため現在入院していることになっているのだが、そちらには汚物にたかる蝿のようなマスコミの目をごまかすためであり、実は影武者を送り込んでいる。


 もっとも、心労から体調を崩して倒れたのは本当であり、国会での証言を続けるためにも休養が必要なのは違いない。

 なら、なぜ病院ではないのか?

 彼の休養に必要なのは、何かと制限の多い病院ではなく自由にくつろげる環境だから……と、自分に都合のいい解釈をしたからである。


「いいか、絶対に誰も通すな。 相手が代議士だろうが国会議員だろうが例外は無い」

 秘書代わりに使っている助教授にそう言付けると、二宮教授は自分の部屋に入って鍵をかけた。

 そして、パソコンを立ち上げると、天気予報の画面を呼び出す。

 予報の画面には、みぞれを示すマークがずらりと並んでいた。


「そう待たずとも、やってきそうだな」

 そう呟くと、二宮教授は窓から空を眺める。

 外に広がるのはどんよりとした鉛色。

 いつ、みぞれが降り出してもおかしくは無い。


「早く降るがいい。 ケリをつけてやる」

 そう呟くと、二宮教授は疲れた体をベッドの上に投げ出し、しばし目を閉じる。


 それからどれぐらいたっただろうか?

 今までの疲労からか、二宮教授はいつの間にか深く眠り込んでいた。

 そんな彼を眠りから呼び覚ましたのは、みぞれの前触れである激しい雷の音。

 気が付けば外はすでに暗く、静かな夜が世界を包んでいた。

 時折、雷の白い光が轟音と共にその闇の衣を乱暴に引き裂く。


「来たか……」

 ベッドから起き上がり、強張った顔で窓の外を眺めていると、程なくしてみぞれが降り出した。

 ポツっ、ポッっ、パラっ、パラパラ……バラバラパラバラザァァァァァァァァァァァァァ!!

 まるで何万ものビーズを空からこぼしたような音を立てて、荒々しい冬の使者が大地を叩く。


「出てくるがいい。 それがお前の望みなのだろう?」

 白いつぶてが狂乱する窓の外を睨みつけながら、二宮教授は誰もいないはずの場所へとそう問いかける。

 ――あの占い師は、貴方が望むならばすぐに現れるだろうと答えたはずだ。


 すると……遠くからかすかに、降りしきるみぞれの音とは異なるものが聞こえてきた。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。


 ――来た。

 薄く降り積もったみぞれを踏み分けながら、夜の闇の中を怪異がやってくる。

 だが、今日はいつもと一つだけ違う点があった。

 あの占い師が外を指差した時から、今まで見ることのできなかった怪異の姿が見えるようになったのである。


 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 びしゃ、びしゃ、じゃく、じゃく。

 それはホテルの部屋のベランダに姿を現すと、ガラス窓の前まで近寄りその歩みを止めた。

 怪異を目にした二宮教授は、恐れもせずにその名を呼ぶ。


「……久しぶりだな、鈴木春香。

 今頃になって化けて出てくるとは、実にお前らしい話じゃないか、この性悪女め」

 二宮教授に返事を返すように、雷鳴が再び世界を白く染めた。

 その光に照らされて、闇の中から浮かび上がったのは、冬用のスーツに身を固めた一人の若い女。

 もともとは美しい姿をしていたのだろうが、髪は乱れ、血の気の引いた肌はもはや青みすら帯びている。

 この世のものではない存在に成り果てた故人を前に、二宮教授は爬虫類を思わせる冷たい顔で告げた。


「ひどいやつだな。 あれほど俺が目をかけて可愛がってやったのに」

 その声にこめられた感情を、なんと表現すればよいだろうか?

 憎悪、妄執、執着、そして劣情。

 恋愛感情と呼ぶにはあまりにも黒く、敵意と呼ぶにはあまりにも悩ましい。


「そもそも、あれは俺を拒んだお前が悪いんだろうが。

 そうだろう? 今までの恩を体で返してくれたらよかったものを」

 記憶を探れば、今でもまざまざとよみがえる。

 その日、かねてから面倒を見ていた一人の女性……大学一年生だった鈴木春香に、当時は助教授であった二宮教授は肉体関係を迫ったのだ。

 だが、彼女は彼を拒んだのである。

 それは、今日と同じく激しいみぞれが降る夜だった。


「しかも逃げようとした挙句あっさり頭を打って死ぬとか……俺がお前と一緒にいた証拠を隠すのにどれだけ苦労したと思っているんだ!

 まったく……恩を仇で返しやがって! お前は俺の知り合った女の中でも極めつけにひどい女だったよ!!」

 だが、その忌まわしい記憶ゆえに彼にとって忘れられない女となったのである。

 今までは彼が望めばどんな女も心を許したというのに、彼女だけは決して心を許さず……その屈辱が彼のプライドを傷つけ、憎しみとなり、同時に忘れがたい妄執として彼の心を永遠に呪縛した。


「それで? いったい何を俺に伝えるつもりだ?

 言っておくが、もう一ヶ月もせずにあの事件は時効が成立する。

 もう、誰も俺の罪を問うことは出来ない!

 それに、今の俺は国の行く末すら影響を与える時の人だぞ?

 いまさらお前ごときに関わっている暇は無いんだ!」

 占い師はこう言ったはずだ。

 相手の言い分の全てを否定すれば、その怪異は二度とあなたの前に現れなくなるでしょう……と。

 ならば、実に簡単なことだ。

 最初から相手の言い分など聞くつもりは無いし、あとはこの国の法と時間が味方をしてくれる。


「さぁ、消え去れ! そして二度と俺の目の前に現れるな!!」

 所詮、死者は死者だ。 こうやって後ろから忍び寄って恨めしげに見つめることしか出来やしない。

 それを解らせればいいだけである。


 しかし、それは二宮教授の思い違いであった。

 目の前の少女が口を開いたとき、事態は思いもよらぬ方向へと流れ出す。


「それは出来ない相談だな」

 少女の口から漏れたのは男の声だった。

 これは……誰の声だ?

 妙に聞き覚えがあるが、どうしても思い出せない。


二宮にのみや 俊介しゅんすけ……己の罪を償え。 時効が成立しない今ならば間に合う」

 その言葉は、到底受け入れることの出来ないものであった。


「冗談は休み休み言え! 俺が自首なんかしたら、国会の審議はどうなると思っている!」

 この国のあるべき未来を、たった一人の死人のために捻じ曲げるなどあってはならない。

 それが二宮教授の正義であり、周囲から望まれていることであった。


 しかし、その怪異は告げる。

「それでもお前は自首しなければならない。 さもなくば、一生後悔するぞ」

 影のようにガラスをすり抜け、怪異が一歩前に踏み出す。


「お前に何がわかる!」

「わかるさ」

 そしてソレは、鼻先が触れそうな距離まで近づくと、怖気がするほど優しい声でささやいた。


「まだ気づかないのか? 俺はお前だ。 お前の願いが作り出したかげだよ」

 その時になって、二宮教授はようやくこの声が誰のものかを思い出す。

 何の事は無い……これは自分の声ではないか。


 ここにいたって、ようやく彼は理解する。

 二宮教授を呪って怪異を呼び寄せていたのは、二宮教授自身だったのだと言う事に。


 だが、なぜ自分が自分を呪わなくてはならない?

 なぜ、自分がこんな……自分で望んでもいないことを口走る?

 理解し得ない疑問を抱えたまま、二宮教授は全身に滝のような汗をかいていた。


「さぁ、受け入れろ。 俺はお前の願いだ。

 わかっているだろう? 本当はずっと……自分の罪を誰かに罪を裁いてほしかったんだろう?」

「ち、ちがう! 俺はそんな事は望んでいない!!」

 かげの言葉は、心の中に出来た瘡蓋かさぶたがを引きちぎり、その下に流れるものを容赦なくぶちまける。

 足は震え、もはや立っていることすら出来なかった。


「意識していないだけで、本当は望んでいたのさ。

 自分を騙すことは出来ても、自分の陰に嘘はつけない。

 お前が自分についた嘘こそが、私を作り出したのだ。

 さぁ、今なら間に合う。 いや、もう今しか出来ないんだ。

 さぁ罪を償おう。 一生許されないまま、死ぬまで後悔し続けるつもりか?

 私はお前を救いにきたんだ。 もう、苦しむのはやめよう」

 少女の姿をした彼の陰は、ベッドの上に腰掛けた二宮教授に優しい声で諭すように破滅を吹き込む。

 それはまるで改悛を促す天使のようで、同時に地獄へと魂を堕とす悪魔のようでもあった。


「嫌だ……違う……俺は……俺は……俺の願いは……」

 あぁ、確かにあの占い師の言うとおりなのだろう。

 この声を心から否定してしまえば、俺はこの呪縛から逃れることが出来るに違いない。

 だが……しかし……。

 いくら否定しようとしても、真実は消えてくれない。


「逃げるな。 罪を償え」

「嫌だ……駄目だ。

 それは出来ない。 俺はもう、罪を償うことすら許されない立場にいるんだぞ!

 俺が殺人犯として起訴されたら、国会はどうなる!? この国の正義は……」

「お前の証言など意味は無い。 そもそも、ただの揚げ足取りじゃないか。

 それを誇大解釈して事実を捻じ曲げることの、どこが正義だというのだ?」

 そしてかげは、二宮教授の正義の根源を揺るがす言葉を口にする。


「本当は知っているんだろ? お前は……ただの悪党だよ。

 しかも、他の悪党から便利に使われているだけの三下だ」

「違う! 違う! 違う!! 俺はそんな程度の低い存在じゃない!!」

 もはや限界であった。 彼の肥大した自尊心が音を立てて破裂する。

 二宮教授は周囲を見渡すと、机の上にあった備え付けのペパーナイフを手に取った。

 そしてそのグリップをしっかり握り締めると、少女の姿をした怪異に振りかざす。


「俺を馬鹿にするな! 死ね! 消えろ!! お前は俺なんかじゃない!! 闇に還れ! 俺の後をついてくるな!!」


 血を吐くような声で叫ぶ二宮教授を嘲笑うかのように、外では激しいみぞれが音を立てて降りしきる。


 二宮教授は狂っていた。

 みぞれの降りしきる夜に怪異の足音を聞いたその時から……いや、きっと十五年前に鈴木春香を殺したその時からずっと少しずつ。


 数分後、部屋の中から聞こえてくる異様な声をききつけた助教授は、その様子をおかしく思いすぐさまホテルの係員へと通報した。

 そしてホテルの従業員と警備員が部屋の鍵をあけて中にはいると、そこではペーパーナイフを手にした二宮教授が意味の分からない言葉を叫びながら何も無い場所を……何度も、何度も、憎しみをこめて切りつけていたのである。

 まるで、彼にしか見えない見えない何かがそこにいて、その何かを殺そうとしているかのように。


 それから……すぐさま数人がかりで取り押さえられた彼は、今度こそ病院に運ばれることとなった。

 こうして、国の行方を左右するはずの証言とやらは、永遠に日の目を見る事はできなくなったのである。


 その後、二宮教授がうわごとのように呟く声を元に、彼の自宅から十五年前の殺人事件の証拠となるものが見つかった。

 狂気の中で全てを告白したあと、二宮教授は良心と言う呪縛から開放されたかのようにひどく穏やかな顔で息を引き取ったという。

 だが、惜しむべきことに……それはすでに時効が成立した後のことであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る