後編《楽園と終焉》

 幾千も幾万も、この門には絶えることなく人間が訪れた。

 富豪がいた。暴徒がいた。大統領がいた。平民がいた。

 だが門を通り抜け、楽園へと至ったものはいない。


 ここは通せないと言われて帰った者が三割、残りの者はブラックのような暴挙に出た。彼ほど浅慮で穴だらけの作戦をもちいた者はいなかったが、だからこそグレイはこれまで容赦なく、カラフルに銃殺させてきたのだ。どんな軍隊をひきいてきても、彼らはそれらを斥け、橋を護り続けた。いや、例えどのような相手でも、グレイは判断を誤らないだろう。現にグレイは、いま、お人好しがすぎる若い旅人を射撃させた。


 車椅子ごと身体をかえせば、地面に這いつくばるブラックと目が合った。

 伸ばしていた前髪は頬に張りついている。雨にまみれてもがくうちに包帯がめくれ、素肌が覗いていた。皮膚はむごたらしくただれ、傷んだ果実のようにじゅくじゅくと膿んでいた。火傷のようにひきつっているところもあり、柔らかく窪んでいるところもあった。髪が抜け、鼻まで落ちた末期の患者もグレイは見たことがあったので、さほど驚かない。ただ、やけに長い前髪と全身の包帯はこれを隠す為のものだったのかと、グレイは濡れた赤毛に視線を落とす。

 その包帯の緩みを直すこともなく、ブラックはもがきながら前へ前へと手を伸ばす。再び銃が咆えて、太股にも弾が貫通した。


「……っなんで……なんでこんな目に合わなくちゃならないんだよぉ……ッ」


 痛みによって精神が折られ、感情のままに喚く姿はまるで幼い子供だ。包帯が巻きつけられた指が石畳をかきむしっても、身体を引きずるには及ばない。


「俺は戦争に出てない。妹も戦争なんか関係ない……裁きだって言うなら不公平だろ! 選ばれた人間だけが救われるなんて、おかしいじゃないか……っ!」


 ぼこぼこになった赤紫の肌を、雨とは違う透明な雫が流れ落ちてゆく。死に瀕した獣が当たり構わず吼え散らすように、ブラックは鼻づまりの声で絶叫した。


「アンタだったら分かるんじゃないのか……? 橋を渡れば楽園があるって知りながら、門の外で暮らすしかないアンタなら、選ばれていないものの気持ちが分かるだろう……っ!? アンタはこの関を破りたいと思った事はないのかよ……っ」


 グレイの顔つきが変わった。

 自嘲に眉をひそめ、羨望でまなじりを緩めて。

 最後に彼は、なにか眩しいものを振り仰いでしまったような、言葉では言い表せない瞳をする。


「思ったよ」


 その、めまぐるしい感情の揺れを案じるように、カラフルがグレイの側に寄り添った。彼女が細い腕をその肩に絡めて、抱きつけば、グレイは片側だけ残った腕でカラフルの頭をなでてから、地面で硬直するブラックに視線を移す。


「私はかつてこの門を護っていた十人の守衛を殺して、橋を渡った」

「橋を渡った……だって? じゃあなんで、こんなところにいるんだ。なんでこんな黒い雨が降る場所まで、戻ってきたんだ。まさか、まさか……楽園はなかったのか……?」


 だから誰もこの門を通れないのかと、その眸は訴えていた。

 確かにそう解釈するのが自然だ。理に適っているとも言える。


「違うよ」

「だって普通は、そうだろ。そうじゃなきゃ、こんなところに戻ってくるはずがない」


 生き残りたいと考えるのが普通だとすれば、異常な選択をして、グレイは橋を引きかえし、ここを護る役割に就いたのだ。


「楽園はあるよ。でも戻って来たんだ」

「どうして……!?」


「私はあそこには居られなかった。どんな人間も《人類》であると言うだけで、あそこにいるべきではない。あの場所は、あの場所に暮らす者達は美しすぎるんだよ。人類なんかが足を踏み入れてはいけない。

 戦争を続け、この世界に黒い雨を降らせたのは《人類》だ。新たな世界に移行したところで、また汚すだけだろう。人類は繰りかえす。あやまちを。だがあれは、汚してはならない。あれだけは、せめて」


 群青色の眸に映し出された風景は、今でもなにひとつ色せる事はなかった。

 光を帯びたなめらかな肌に薄絹を纏い、背に携えた四枚の翼を羽搏かせて、その者達は青空を飛んでいた。けがれなき純白の翼からは虹の結晶が散り、彼らが飛んだ軌跡は、星の道のように輝いていた。木々は水晶より透きとおった葉を茂らせ、その枝先では香りたかい花が咲く。川は穏やかな音楽を奏でて、その音節にあわせて歌い囀る鳥がいた。

 空は青く、されど、それだけではなかった。

 紫や黄金の帯がたなびいて、天を飾っていた。

 そんな幻想的な世界のなかで生きる者達の顔に浮かんでいたのは、どこまでも純粋な歓喜だった。楽園までたどりつけた事にたいする安堵ではなく、永遠(とわ)の幸福が彼らをつつんでいた。幸せが一条の光となって、微笑みから零れるようだ。彼らの微笑みから、芽が伸び、あざやかな花が咲いても、なんら不思議ではない。

 

 あれほど純粋な感情を、グレイはついぞ知らなかった。

 

 そこはまさしく、楽園の名に相応しい場所だった。

 

 はっとして、自らの姿をあらためて見下ろしたグレイは、そのあまりの醜さに発狂しそうになった。片腕は肩先までしかなく、当時はまだ胴体からぶら下がっていた両脚も腐敗が進んでいた。

 片手がないから歪なのではない。

 両足が腐り始めているから、醜いのではない。

 生きたいと云う本能に従い、生の意味も意義も考えないままに人を殺した結果がこの身体だから、醜いのだ。自らの業の結果がこの姿なのだと思えば、彼にはそこから先に足を踏み入れる度胸はなかった。自分が入る事で、この場所が楽園でなくなる事を恐れたのだ。


 グレイは戦争に加担した。

 だが、どうだろうか。生の意義もなく、ただ奪い、奪われ、殺し、殺される時代に順応してきた段階で、全人類が諍いと略奪に加担したと言えるのではないだろうか。

 ならば、楽園へと至る資格を持った人間など存在するのか。

 


「あの場所から帰って来た私は、門での戦いと黒い雨がもとで腐りかけていた両足を斬り落とした。そうして自分が殺めてしまった本来の守衛のかわりに、この門を護ろうと決めたんだ」

「……アンタは……」

 

 ブラックはなにかを言いかけて、黙った。グレイの選択をなんと評するべきか、あるいはなんと罵るべきか、遂に言葉が見つからなかったのだろう。ブラックは、それきり口を閉じてしまった。

 グレイはふっと睫毛を伏せて、濡れた髪をかき上げた。


「《人類》はね。自らで壊し、汚したこの世界と共に、朽ち果てるべきだ」


 グレイは先刻と同じ言葉を、もう一度口にした。


「カラフルも楽園を求めてここまできたが、彼女は橋の膝元で死ねればいいと云った。ここからは青空がうっすらと見えるから、それだけで充分だと。

 だから僕は彼女を傍に置く。僕の可愛い、たったひとりの同志だからね」


 カラフルは何も喋らなかったが、こくりと頷いて拳銃を構え直す。

 見れば、それは〈H&K mk23〉――特殊部隊用の大型自動拳銃だった。通称ソーコムピストルとも呼ばれるそれは、重厚で頑強な銃として有名だ。こんなものを女性に持たせれば、肩を脱臼するどころの騒ぎではないが、カラフルは完全に使いこなしていた。女らしさが匂い立つ細くしなやかな腕には、並みの男性をも超える筋力が備わっているのだ。

 銃口が今度こそブラックの頭部に向けられ、引き金に細い指がかかった。


「最後に聞いていいか? この橋を渡った奴は一人もいないのか?」


「一人だけいたよ。誰一人いないんじゃ、橋がかけられている意味がないだろう? 僕が見たかぎり、人間ではなかったけどね。人のかたちはしていたが、額に角があった。あれは、人間よりもずっと純粋な生き物だったよ。

 選ばれたんだと、一見して理解できるほどに、神々しかった。

 けれど君は、土足であの場所に踏み込もうとした。私はあの場所を汚そうとする人間を許さないよ、決して許さないよ。君は選ばれなかった――僕とおなじように」


 そうして、銃声が響いた。



              ――――§――――



 撃たれる一瞬前まで、ブラックは青を振り仰いでいた。

 守衛代理グレイの、群青の眸。濡れた髪の間で、群青の空が輝いていた。恐いほどの透明さを宿すその色彩は、無慈悲さと美しさを兼ね備えていた。あるいは双方は全く同じものなのだろうかと、ブラックは考える。


 青空を欲して、救いをもとめて。

 ブラックは掃き溜めのなかで生き抜いてきたけれど。


 グレイが語った通り、ブラックにはとうに生きている意味などないのだ。愛する妹がいなくなってなお、生にすがり続ける事は執着以外のなにものでもなかった。他者を傷つけてまで、やりたい事があるわけではない。


「ああ、そうだな……」


 意思ではない。

 単なる本能にすぎなかった。

 

 本能に操られる漫然とした日々は、死となにが違うだろう。例えば、彼が語ったラザロ徴候というものとも大差はないのかもしれない。とっくに死んでいるのに、それに気づかずに助けをもとめて。それどころか、殺して奪って。

 けれど、ああ。

 この青い眸に見取られるのならば、ここまで歩いた甲斐もあったかもしれないとブラックは思った。

 それからふと気がつくことがあった。

 カラフルと名づけられたこの少女が憧れ、眺めていられたらそれだけで構わないと語った《青空》とは、地平の彼方に広がっているものではなく、すぐ傍らに輝く紛い物の空だったのではないだろうか。


 最後に硝子の鈴が奏でるような声が、聴こえた。


「おやすみ」


 三度目の銃声は遠く。

 やすらかな囁きだけが、近かかった。



              ――――§――――



「きみの事は嫌いじゃなかったよ」


 動かなくなった男を見下ろして、グレイがため息をひとつ転がす。

 うつ伏せた胸からじわりと浸みだしてきたものは赤ではなく、くすんだ黒だった。彼方から差す朝陽が橋を照らしても、流れた血潮は赤さを取り戻さない。ただ雨に紛れて薄まってゆくだけだ。


「ライフルを取られて、ごめん。油断してた」

「いいや、構わないさ」

「怒っていい。大切なものだったでしょ?」


 申し訳なさそうにうつむく彼女を膝に招き、グレイはその控えめな胸元に頬を寄せた。心臓はほぼ停まっている。人肌のぬくもりもほとんど宿ってはいなかった。自分もまた、彼女に分け与えられるだけの体温を持っていない事を、グレイは今更ながら悔しいと感じる。


「初任給で買ったっていうだけだよ。そんなに思い入れがあるわけじゃない」


 ひとの死を定義するものとはなんだろう。

 身体を流れる赤い血潮が生きている証だろうか。だとすれば、黒い雨にさらされて暮らす全人類は、既に死亡している事になる。生命活動を維持していれば生きていると定義できるのであれば、略奪と侵略を繰りかえし、生きる糧を奪いあう人類は例外なく生き残っていると言えよう。

 だが、心臓が停まれば死んでいるというのならば、五分に一度だけ、死後硬直の後の痙攣のように脈を刻む心臓は、生と死のどちらに分類されるのか。


「人類はもう、二十一年前に滅んでいるのかもしれないね」


 二十一年前の終戦以降、人間の心臓はほぼ鼓動を停めた。

 体内を循環する血液は黒く濁り、いまでは血が赤いものだと知らない子供も多い。その頃から、生きながらにして肉が腐る奇病が流行り始めたように思う。生きながらに。果たして、そうだろうか。死んでいるから、肉体が腐っていくのではないのだろうか。

 本能による生への執着が生を錯覚させているだけだとしても、おかしくはない。


 人類はこれまで、本能の壊れた生物だと言われてきた。

 生物が備える本能とは細分すれば多岐にわたる。危機を察知し危険を遠ざける本能、食べられるものはすべて摂取する本能、繁殖するべく異性に働きかける本能、母性本能、闘争本能など。だがそれらの根幹にあるのは生存と生殖という二種の本能だ。言わば、種を保続させることが、本能の役割である。

 だが人類は、時に食べ物を好みで選んだり、妊娠を避けたり、危険だと思われる行動をしたり、実子を殺したり、戦争を繰りかえしたりと、本能とは真逆の行動を取る。これが、人類の本能が壊れていると言われた原因である。


 だが実際に絶滅の危機に瀕して、壊れた本能が急激に動き始める。

 それは錆びた歯車が、急回転するようなものである。過半数の部品が壊れたままに歯車だけが動けば、様々なところに軋轢が生じ、破綻する。


 結果、本能は肉体の死を否定し、永続的かつより複雑な ラザロ徴候 が表れた。死体が生命活動の維持を始める。精神と意識と思考を持ったままに。種の保続よりも個人の保続を優先し、他者を襲い、傷つけながら、死を否定するべく動き続ける。

 

「ラザロ徴候か」


 ラザロ徴候の由来は、キリストの奇跡によって蘇生を果たした聖人だ。キリストがラザロの死を嘆き、かならず彼は甦ると語った時に、弟子たるマルタは《最後の審判》での甦りのことかと誤解した。最後の審判の時には全人類が甦り、神の裁きを受けるとされる。マルタの見解は間違いだったのだが、グレイは現在の人類に表れているこの現象がラザロ徴候の延長だとすれば、マルタの考えた蘇生に当てはまるのではないかと考えていた。


 死んでいるけれど、死ねなくて。

 生き残りたくても、そもそも生きていない。


 既に朽ち果てた命を抱えて、彼らはどこへいこうとしているのだろう。

 死にたくないと叫んだ彼や他の人間が、とうに絶命していたなんて、笑えない喜劇だ。

 知らず悲しい顔をしていたのか、カラフルが心配そうにグレイの目を覗き込んできた。彼女が紛い物の空に焦がれるように、グレイは濁りない血色の双眸を愛する。結局のところ、人類は自分には得られないものばかりを欲して、自滅してゆく生き物なのか。

 そんな愚かさは次世代には必要ない。


「僕らはもう終わった種だ。だから、その刻が訪れるまでは」


 雨はやまない。

 石畳を叩く雨は無害だが、滅びの象徴であることに変わりはない。灰色の筋が降りしきるその彼方では、光を放つ日輪が昇り始めていた。うっすらと垂れ込めた霧がその姿を歪め、屈折した光は頬に触れる寸前で途絶えてしまう。

 死に果てた世界を照らす事のない平等な太陽を仰いで、グレイが頬を緩めた。


「戻ろう、僕の可愛いカラフル。濡れたままでは、風邪を引いてしまうよ」

「ご主人」

「ん、なんだい?」

「難しい事は分からない。けど、戦争がなくなるのなら、なんだっていい」


 膝から降りた彼女は太陽を背負って、嫣然と微笑んだ。

 彩りと名づけられたに相応しく、花々しい表情だった。


「人間はいなくていい」


 驚きを隠しきれず、目を見開いたグレイだったが、言葉の意味を反芻して優しく頷く。

 人類の終焉を望むのは、果たしていけない事だろうか。

 自棄ではなく、呪いではなく、ひたむきな願望として人間がそれを望むのだ。滅びるべき人間のなかに自分が含まれている事を承認した上での願いはきっと、罪ではないだろう。


 朝ごとに生まれ変わる太陽を浴びて、いびつな影が何処までも伸びてゆく。

 影は地面に張りつき、真っ暗な新月の夜になれば存在を留める事は出来ない。影は地を這うものだ。空には決して昇れない。だがそれが自然の摂理だ。死者は眠るべきで、雨は上から下へと降る事しか許されていない。

 

 どれだけ未練があろうと。

 どれだけ受け入れがたい真実であっても。

 

 人類は、既に終わっているのだから。

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ラザロの人類 夢見里 龍 @yumeariki

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