中編《戦争と生存本能》
「ブラック、決してついてきてはいけないよ」
両親の声が聞こえた。
闇のなかでたたずむふたりは強張った表情をして、懸命に伸ばす子供の手を振り払う。後を追ってはならないと言い残して、両親はその場から立ち去った。闇に紛れてゆくふたりの足は異様にやせ細り、一部の皮膚は爛れて、目も当てられない状態だった。
いずれ死に至る病なのだろうと、幼い子供にも薄々分かってはいたが、これほど早くその時が訪れるとは思ってもみなかった。せめて死に様を、その無残なしかばねを子供に見せないようにと、両親は死に際にわが子の前から去った。
年端もいかない兄は自分より幼い妹を護る為に、残された一本のナイフを握り締める。
生を繋ぐのに、手段など選ばなかった。暗い夢の暗闇の中で彼がナイフを振るうと、悲鳴があがって食べ物が転がり落ちる。それを拾い、またナイフを振るい――。
その繰り返しのなか、勢い良く振られたナイフがずぶりと何かに突き刺さった。
「…………ッ」
指先から広がる生温かな感触に怯み、彼は乱暴にナイフを取り返す。勢いよく噴き上がった血が少年の肌を濡らして、重量を持ったなにかが足元に倒れた。
どっと、冷や汗が湧き、顎からしたたる。
盗みはした。
騙しもした。
だが人を殺した事だけは一度もなかったのに。
途轍もない後悔が血の飛び散った肌から広がり、魂まで浸食した。喉から荒い呼吸が洩れ、彼は相手から物を取る事も忘れて逃げ出す。地面が足に絡みつくようだった。足がもつれて幾度となく転び、その度に這いずるようにして立ち上がった。
殺してしまった、この手で人を。
その事実がひどく恐ろしかった。
早く帰って妹の顔を見たかった。妹はとても優しい笑顔で笑うのだ。睫毛を絡ませて微笑むあの顔を見れば、きっと楽になるはずだ。
少年は闇の彼方に見慣れた後ろ姿を見付けて、ほっと胸を撫でおろす。
呼びかけようとした次の瞬間、妹が振り返った。
「お兄ちゃん、あたし殺されちゃったよ」
苦悶の表情で倒れてゆく彼女の胸には、少年の手に握られているものとおなじような凶器が突き刺さっていた。冷たくなってゆく妹を見下ろしているのは、さきほど自分が殺してしまった女性の面影を宿す若い男だった。
ゆるさないと、男の黒ずんだ唇が動く。
人を殺したから。
俺が人を殺したから、妹は――――。
「――――は……ッ」
荒い呼吸と共に瞼を押し上げたブラックは何度か指を動かして、少しずつ現実感を取り戻す。
うとうとしているうちに眠ってしまったのだと思い出すまで、さほど時間はかからなかった。室内は完全な暗闇に閉ざされている。起きた直後こそ、自分の手すらまともに見えなかったが、目が慣れてくると廊下まで見通せるようになった。
ただ目眩が酷く、すぐには立ち上がれそうにない。
額に浮かぶ汗を拭い、いまさらながらにブラックは呟いた。
「夢、か」
幼少期の夢を見るのは久しぶりだ。
昔は毎日のように見てうなされていた気がするが、大人になるにつれてその回数は減った。引きずらなくなったのだと解釈していたが、未だに人を殺せない事からして、あの一件は心に深い傷跡を刻んでいるのだろう。
自分の苗字とおなじように、妹の名前はもう一文字も思い出せなかった。
ただ妹が微笑む姿だけが脳裏に焼き付いて、片時も離れない。
妹の存在だけが支えだったはずの自分が、どうして妹をなくした後も生きてこられたのか。何のために生き残ろうと足掻いているのか。
「死にたくないから、だよ」
今しがた、この門の守衛に返した言葉を復唱する。
そうすると目眩がおさまり、頭にかかっていた靄が晴れた。
闇を睨んで、呼吸を殺す。慎重に耳を欹てて、人の気配や物音を探ったが、何も察知できなかった。グレイもカラフルも深い眠りに落ちているようだ。
茶に混ぜた薬が効いたらしい。
妹と二人だった頃から、よく寝ずの番を努めていた事もあり、ブラックは睡魔と戦う術を心得ていた。そんな彼すら転寝してしまうほどの薬だ。ブラックは部屋に入ってから眠気を抑える薬を飲んだので、堪えられる程度の眠気に留まっているが、他の二人は朝までぐっすりだろう。
毛布の上で解けかけていた包帯を巻きなおし、ブラックは外に出ても安全なように準備を整える。包帯には雨よけの意味もある。最後に、包帯が巻かれたふくらはぎに指を這わせ、布とは明らかに異なる金属の質感を確かめた。
それは拳銃だった。
ナイフより強く、ナイフより素早く、ナイフより――人を傷つけたという事実を感じずにいられる武器だった。旧型のリボルバーだったが、雨によって鉄が溶かされてゆく現代では、非常に入手困難な代物である。
それを握り締め、彼は瞼をしぼった。
彼らは優しかった。親切にしてくれた。
でも、死にたくない。病に倒れた両親のように、ナイフで刺された妹のように。
あんなにも無残に、殺されたくはないのだ。
慎重に寝台から下りて、廊下へと足を踏み出す。
玄関以外に扉はない。木製の扉など樹木がすべて枯れたいまとなっては、新たに造れないから当然だ。闇に目を凝らすと、隣室の寝台で眠るふたりの様子が窺えた。自分で立つ事すらままならないグレイは警戒に及ばないが、カラフルが眠っているかはちゃんと確かめたほうがいいだろう。
いっそ撃ち殺せば、懸念はなくなるのだが――。
銃を握る手に力がこもった。だが引き金に指をかけることもないままに、ブラックは銃身をおろす。いまは殺すべきじゃない。楽園へ通じる門が開かなかった場合は、片側を人質にして脅迫する必要があるからだ。彼はそう考え、ふたりの寝姿をしばらく眺めて動かないことを確認してから踵を返した。
すっかり乾いた外套を被って玄関から外へ出ると、そびえ立つ門に向き合う。
雨雲に覆われた空には月や星の輝きはなかった。だが門の真下、軒があるところに篝火が焚かれており、手元は充分に明るい。深夜にここまで辿りついた旅人の為の、ささやかな配慮のようだ。
昼には気がつかなかったが、門の扉には
あらためて手を伸ばす。熱とはいってもほのかに暖かいだけだ。
握れる。力を込めて扉を引っ張った。
「……うそ、だろ」
冗談みたいに軽く、楽園への門は開かれた。
呆気ない開門に数秒間、鐶をにぎって立ち尽くしていたブラックだが、我に返って走り出す。扉を潜ると淡い光が頬を撫ぜ、重い帳が晴れるように視界が広がった。
そこには橋があった。
黒き大海に浮かぶ入江のごとく、石造りの橋は地平の彼方まで続く。
繊細な石畳は月に照らされて、遊色効果を示す鉱物のような色彩を浮かびあがらせていた。雲が押し寄せる度に色合いを変化させるそれは、何故かブラックに想像の中でしか知らないミルキーウェーを連想させる。
橋と海面の高低差はほぼないに等しい。満潮なのだろうか。
海上の銀河は両端から押し寄せる黒い波によって、刻々とかたちを変えてゆく。
小降りとなった雨が月の光を拡散して、漆黒の雨粒はいまや、銀灰色に瞬く星だった。
「……楽園だ、この先に楽園があるんだ!」
見た事がないほど美しい世界を前にして、ブラックは感じたのは滅びの輪から脱却した喜びだった。これで毎日怯えて暮らさなくていいんだ、誰かに傷つけられる心配もない。
楽園への一歩を踏み出したのが早いか、頭の真後ろで無機質な音がした。
周囲が無音に等しいからこそ、その金属音は高圧的に響く。
「君は選ばれてないんだよ」
無感情に下された宣告を聞きとどめて、ブラックは緩慢な動作で首を回した。
いつの間に目覚め、いつの間に追いつかれたのか分からない。今更尋ねる気にもならなかった。最初から自分の目論みは勘づかれていたのだろう。
車椅子と人形の歪な人影が、石畳へと伸びていた。
つきつけられたアサルトライフルの銃口越しに、ブラックは感情が抜け落ちた少女の面を睨む。奥歯を食いしばって、だがそれも長くは続かず、ブラックは肺に詰めた空気を吐き捨てるように笑い始めた。
「はっ、はははは……ッ!」
ただ、死にたくないだけなのに。
ただ、生きたいだけなのに。
神はそれすらも許してくれない。
一度は妹の面影を重ねた可憐な容貌を睨みつけたまま、ブラックは前方に身体を倒して、両掌を地面につけた。力強く跳ね上げた両足が少女のか細い腕を蹴り、向けられていたアサルトライフルの銃口が逸れる。その隙をついて、ブラックはカラフルの手から銃を奪い取った。
伊達にここまで旅をしてきたわけじゃないのだ、体術だってそれなりには身につけている。
奪ったアサルトライフルはどっしりと重い。ライフルを橋の脇から投げ捨てたブラックは素早く体勢を戻して、車椅子に腰かけたグレイの背後に回った。身体を反転させる暇も与えず、こめかみへ銃口を押し当てる。
「動いたら、撃つ」
案の定、カラフルはぴくりとも動かなくなり、グレイは深く嘆息をついた。
カラフルは夕方と同じメイド服を着用し、グレイの方は寝間着だったが、どちらも防水加工がしてあるとは思えない。衣服の下に包帯などを念入りに巻いているわけでもなかった。
門を潜った外とは違い、この灰色の雨には毒素がないのかもしれない。
少しずつ濡れてゆく髪をわずらわしそうにしつつも、グレイは落ち着いた様子で口を開く。
「動いたら撃つって、君はいま、言ったけどね。この場合は動かなくても撃つべきだよ。ああ、人質になっている僕じゃなくて、カラフルにむけてね」
正論だった。
それでもブラックの指は、銃を撃てない。
「君は優しいんだね。それとも怖いのかな、人を殺す事が」
「な……っ」
「僕の部下だったら困るけど、君みたいなひとは嫌いじゃないよ」
ブラックからすれば馬鹿にされているようにも感じたが、当人は本気でそう思っているのだろう。優しく微笑むグレイは、こうなった今でも食卓を囲んでいるみたいにゆったりと話す。
「僕は元々、国軍にいたんだよ。軍隊を率いて、二十一年前の世界大戦に出て数々の功績を上げた。いくつの軍隊を滅ぼしたのか、幾つの街を侵略したのか、もう覚えてないけどね。直接的に殺した人の数は千を超えるんじゃないかな。間接的なものを含めれば、もっとだ。
今以上に殺す事が正義だった時代さ」
普段は感情豊かなグレイが淡々と喋り、日常的に感情を表さないカラフルが睫毛を伏せた。華奢な肩先は、細かに震えているようだ。カラフルの年齢から考えるに、彼女は戦争を知らないはずだ。なぜそこまで怯えることがあるのか。だが戦争が黒い雨の発端であった事を考えれば、彼女が嫌悪するのもさほどおかしいことではないのかもしれないとブラックは推察する。
「この黒い雨がいつから降り始めたか、君は知っているかな?」
「……激戦の直中、史上最悪の兵器が使われたのが原因だって聞いたが」
「うん、その通りだよ。この雨はね、流された血がめぐりめぐって降りそそいでいるようなものなんだ。人間が招いた人災なんだよ。僕のこの両足、片腕と一緒なんだ」
「それは戦争で?」
「片腕はそうだよ。両足は諸事情だけど、まあ、同じように自業自得かな」
くすりと笑みを零したグレイは次には表情を消して、首だけでこちらを振り仰いだ。
群青色をした双眸は雲を突き抜けた空の色だ。美しいはずのその色が、ブラックの目にはどうしてか恐ろしいものに思えた。
死を象徴しているような無慈悲な色だ。
「だからね、《人類》はこの雨に打たれて滅びるべきなんだよ」
言葉の意味を問う時間は与えられず、銃声が轟いた。
わき腹から燃えあがった激痛の火が、ブラックの思考を焼き切った。身体が崩れる。
ぐるりと回転する視界の隅には、拳銃を構えたカラフルが立っていた。車椅子の背もたれの隙間から、背後にいたブラックだけを撃ち抜いたのだ。可愛い外見からは想像もできないような精密射撃だった。
グレイを盾にしている気になって油断していたと、ブラックは後悔する。
手から滑り落ちた拳銃が石畳を転がっていく。
「く、そ……っ」
ああ、青空が見えない――――。
痛みにひずんだ悲鳴をあげて、彼は膝を折った。
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