ラザロの人類
夢見里 龍
前編《楽園と渡れない橋》
雨がやまない。
男は外套をひるがえして、大地を押し潰すような厚い雨雲を睨んだ。
防水加工が施された包帯で素肌を覆い、外套を目深にかぶった男の風体は雨を恐れる気持ちを顕著にしていた。集落や街では珍しい姿でもないが、男が往く荒野には人影ひとつない。
上空に居座る雲は気圧配置に関係なく雨を降らし続け、太陽の恵みを奪った。
気温は低下の一途をたどっていたが、雨が雪に変わることはない。
暗い曇天から振りそそぐ雨はどす黒く、粘り気を含んだそれは墨汁にも似ていた。軽快な雨音は聞こえて来ず、枯れ果てた大地を叩く度、じゅっと鼓膜を逆なでする異音が上がる。
黒い雨はもうかれこれ、二十一年もの間、止む事なく降り続けていた。
最後に陽を見たのは、赤ん坊の頃かもしれないと男は思う。太陽を知らない子供が年々増えているが、記憶にないという意味では自分もそのひとりだ。
「今日はまた、一段と雨が黒いな」
ずいぶんと生地が薄くなった靴先を見下ろす。
もって、あと三日程度だろうか。
黒い雨は触れた物を融かす。金属は特に腐蝕が早く、石材が最も雨に強かった。電磁と金属に頼った人類の文明を支えるものはもはやなく、人間の社会は容易く崩壊した。草も樹木も、高層建築物も車も道路も、すべてこの雨に融かされ、僅かな残骸だけを残して地上から消え失せた。
聡明な科学者も無知な子供も。
彼のような旅人も、導きだす未来図に違いはなかった。
世界中で降り続く雨はやがて、大地すらも溶解しつくすだろう。
草一本生えていない荒野を歩きながら、男は黒と白で塗り分けられた地平を見すえた。黒は死を垂れ流す空、白いのは融けた地面から立ち上がる霧とも煙とも言えない霞みだ。
その彼方に淡い色彩を見出して、男の両眼が見開かれた。
「本当に……あったのか。いやあるとは分かっていたが、でも本当にあるとは思わなかったな」
意味の通らない独り言を言いながら、男は走り出す。
小さな水溜りにはまって、
そう、水溜りは小さい。これだけ長期間激しい雨が降っていても、世界が海に沈まないのはこの雨の蒸発速度にある。太陽熱によって乾くのではなく、接触した物質を融かして蒸発する特性により雨は大地に溜まらない。
むしろ現在、大規模な水不足こそが重要視される問題であった。
やまない雨に壊されてゆく世界のなかで、ただひとつ。
暖かな陽の光が差す場所が在れば、それは〈楽園〉と呼ばれるに相応しいだろう。
男は何度も転びそうになりながら、黒白の境界に覗く蒼へと駆けてゆく。だが近づくにつれて、地平線の向こうから灰色がせり上がって来た。
「そうか。あれが橋か」
納得したのか、それとも落胆したのかはその呟きからは察せられない。
だが、男の走る速度は眼に見えて落ちた。
「立派なもんだな」
男と蒼い空を隔てたのは、くすんだ色をした石壁だった。
強固な門を象った形からは関と呼ぶのが正しいかもしれないが、男はそれを壁だと思い、橋と呼んだ。噂によれば、あの向こうには橋があり、橋を渡った先には雨が降らない地があるのだと言う。真偽は、男を含め、誰にも分からない。
だがこのご時世だ。
根拠などなくとも、男のように信じる者は少なくなった。
「これではっきりしたな」
雨が降らない楽園は実在するのだ。
重い歩を進め、男は壁の膝元まで近寄った。
何者をも拒む厳粛な雰囲気を放つ壁を見上げ、その傍らに取りつけられた日常へと視線が向く。壁には楽園まで続く門だけではなく、木製の扉が取りつけられていた。有り触れた扉だ。けれど今では木材自体が珍しいので、男はまじまじと眺めてしまった。
呼び鈴らしきものを見つけて、手を伸ばす。関で暮らしているのだから、相手は守衛に間違いないだろう。あわよくば、門を通る為の交渉が出来るかもしれない。
ベルを指で弾くと、澄み渡った音が響く。
「すみません! 誰かいますか?」
「はいはい、すぐに出ますね」
返事は早かった。ガラガラと騒々しい物音が、こちらに近づいてくる。靴音とは違うその音に男は一抹の不信感を覚えたが、身構える間もなく扉が開いた。
「やあ、僕に用かな?」
出てきたのは、車椅子に乗った青年だった。
細い眉にすっと通った鼻筋、やや血色の悪い唇。彼方に臨む空と同色の双眸は切れ長で一見鋭くも見えたが、目が合うと穏やかに微笑みかけられた。
「はい。橋を……って、え?」
端整な容貌に目を奪われたのは一瞬――。
青年の、歪な身体に男は紡ぎかけた言葉を失う。
現れた青年には車椅子を操る為の右腕が欠損しており、両膝から下のスラックスは所在なさげに揺れていた。四肢のうち、三本も欠けたその姿は異様であり、男をうろたえさせるには充分だった。
対する青年の方は、無遠慮な視線にも柔和な笑みを消さない。
「ああ、この身体かい?」
唯一自由な左手で宙を漂う右袖を握り締め、群青の瞳で存在しない下肢を見詰めた。
「初対面の人は大体君と同じ反応を取るんだけど、気にしなくていいよ」
「はあ……」
気にするなと言われては、男にはそれしか返す言葉がなかった。
何度見てもそれほど年齢を重ねているようには見えないが、二十一年前の紛争に参戦していたのだろうか。もしくは近年増加しつつある奇形児なのかもしれないと、男は考えを巡らした。
「橋を渡りたいんだよね?」
単刀直入に尋ねられて、男は神妙に頷く。
「はい、でも……」
「うん、無理だね。申し訳ないけれど、橋を通れるのは選ばれたものだけだ」
薄々予期していた返答を受けて、男が握り拳を作った。緊張した時、動揺した時に拳を握るのは男自身が自覚する癖のひとつだ。
「ではどうしたら、選ばれる事が出来るんでしょうか。話によると、以前大富豪が多額の紙幣を持ってここを訪れた際も門前払いだったとか……。大統領が自ら足を運んだと言う噂も耳にしましたが、結局この関は通れなかったんですよね」
「金が幾らあってもどうしようもない世の中だからね。大統領なんていう地位も通過者の選別には、なんの意味も持たないよ」
「選別……、それは誰が決めているのですか? やはり守衛さんですか? それとも雨が降らない地にいる権力者にその権限があるんですか?」
「違うよ。選別とは言ってもテストじゃないからさ。合格も不合格も誰が決める訳でもない」
やはり、ここは関や門なんかではない。
そびえ立つ〈壁〉を仰視して、男は拳を握る手に力を込めた。
「まあ、ここで立ち話もなんだ。入りなさい、長い旅だったんだろう?」
歪んだ身体とは対照的に整った朗笑で男を労い、青年は片手で車椅子を転がす。見れば車椅子は、隻腕でも運転が可能なように改造してあった。
からからと石造りの床を車輪が転がり、玄関から内部へと案内される。
「えっと、外套はここで脱いでいいですか?」
「そこに
玄関の隅には、確かに四角い石の長櫃が置かれていた。
雨に濡れた外套は即座に玄関の石櫃に投げ込み、出来るかぎり水を散らしたりしないように心掛けた。顔を覆っている包帯だけはその場で解いて、男は素顔を曝す。とはいえ、長い前髪が邪魔をして顔細部はよく分からなかった。
「失礼します」
軽く会釈して室内に踏み込む。
壁に無理矢理生活空間を設けたような外観とは裏腹に、内部はなかなか広かった。
床から天井まで石造りだったが、街の市民が住んでいる住居のように凹凸はなく、むしろつるりとした質感だ。家具は、というと、てきとうに壊れた電化製品が代用してあった。例えばテーブルはドアのなくなった冷蔵庫を横倒しにしたものだったし、椅子は箱型スピーカーだった。電柱や電線、発電所や原発がなくなり、電力の供給がなくなった今ではどれもがらくた同然だ。名前くらいは知っているが、どうやって、何に使ったのかは男もよく知らない。
部屋の隅にはプランターが置かれており、黄色く変色した植物がそれでも育っていた。
「ああ、それかい? それは太陽がなくても育つ植物なんだ」
「食べられるんですか?」
「もちろん。食べられるから、貴重な濾過水を与えて育てているんだよ」
当然だろうなと、男は自分の問い掛けの幼稚さに苦笑いを浮かべた。
黒い雨で何もかもが毒されてゆく世界では、水と食料の確保が最優先される。植物を育てられればいいが、太陽光を必要としない種が見つかるまでは、洞窟を這いまわるおぞましい虫を口にするしかなかった。
それでも、人類がこの大変動を生き抜いているのは、幸運なのか。不運なのか。
「僕の可愛いカラフル、お客さんだよ。丁重におもてなしを」
耳へと飛び込んできた、作り物めいた言葉に男はぎょっとする。
車椅子の青年が呼びかけた先には、ひとりの少女が控えていた。置物よりも置物らしく、部屋の壁際に立っていた彼女は命令を受けて、やっと長い睫毛を瞬かせた。
短いメイド服のスカートがふわりと跳ね、白い太股に目がゆく。
室内であっても素肌を露出している人間など滅多に見ないので、下心よりも好奇心と驚きが先立つ。傷一つない繊細な肌は磨き抜かれたこの部屋の壁に似ていた。無機質に輝く瞳は赤い色をしている。
何処か現実離れした美しさを秘めた少女だ。
こちらに向き直した彼女は慣れた仕草で立礼をすると、無表情のままで唇を割った。
「ようこそ。あなたは三万五千八百七十七人目のお客さま」
決められた言葉を繰り返す
「駄目でしょう。お客さんには笑顔であいさつしないと」
「そうだった、ごめん。……ようこそ」
にっこりと。彼女は微笑を湛える。
その表情の変化は、螺子を巻くことで動きだすゼンマイ仕掛けの人形を思わせた。男は違和感をいだきながらも、ひきつった頬を持ちあげて応じる。男の怪訝そうな視線には気がつかなかったのか、彼女は「ごゆっくり」とかたちだけの笑みを重ねて台所に向かった。
台所と言っても水がめやかまどがあるだけで、かつてのような文明の利器はない。食材の保存には石櫃が備えられ、かまどは暖炉代わりにもなっているようだ。
「座り心地はよくないかもしれないけど、そのあたりに座ってよ」
「有り難う御座います」
スピーカーに腰かけると、意外にしっくり来て驚く。
無感情なあの少女は、自分を三万五千八百七十七人目の客だと言った。カウントが正しいかどうかはこの際は些末な問題だ。それだけの人が訪れて、そのうち何千人がここの席に座ったのだろう。何百人、或いは何十人の人間が選ばれ、門の向こうへと旅立ったのだろうか。
想いを巡らせていると、声を掛けられた。
「申し遅れてすまなかったね。僕はグレイ、苗字は捨ててしまったから省略していいかな」
「はい。俺も上の名前は忘れたので、ブラックでお願いします」
「という事は、大陸の中央からここまで足を運んでくれたのか」
「さすがに遠かったですね。橋なんてないんじゃないかと、何度思った事か」
「それなのに、悪かったね。通してあげられなくて」
通してくれる気はない、か。それとも言葉通り、通せないのか。
大統領や富豪ですら通れなかったのだ。ブラックとて、自分が資格を持ち得るとはうぬぼれていない。苦笑して、彼は首を横に振るった。
「……いえ、もういいんです。通れないのは薄々分かっていましたから」
「僕らもここを管理する身でありながら、通った事はないんだ。僕らも選ばれてないから」
「そう、なんですか?」
それは意外だった。驚いて、ブラックはグレイの表情を窺ったが、グレイは平静だった。選ばれていないという事実に不満を抱いている様子はなく、当然の事として受けいれているような達観が、落ち着いた瞳からは感じ取れた。
詳しく尋ねようと身を乗りだしたが、グレイはすぐに話題を切り替えた。
「ところで君は怪我をしているのかい?」
「え、……ああ、たいしたことはありません、けれど」
男は全身にぼろぼろの包帯を巻いているが、これは怪我をしているからではない。外では包帯も手に入れられないほどに貧しい者を除き、老いも若きも揃って、包帯を巻きつけている。これもいまでは常識の範疇なので、相手も知っているはずだ。
ならどうして気がついたのだろうかと、ブラックが首を傾げた。
「血の臭いがしたからね。血と、刃物の錆の臭いだね。もしまだ手当てが出来ていないのだったら薬を用意させるよ?」
「大丈夫です、途中で手当ては済んでいるので」
「それなら、よかった。この雨だ。小さな怪我でも放っておくと大変な事になるからね。特に錆びたナイフとかでつけられた刃傷は危ない」
昔なら滅多になかったであろう刃物での怪我は、昨今では日常茶飯事だった。ひとちぎりのパンを持っているというだけで襲われ、時には殺される。殺人や窃盗を取り締まるものはない。法律も秩序も崩壊して、後は個々が生きるか殺されるか死ぬかだけだ。
文明人の社会には程遠い野蛮な環境だった。
そうした弱肉強食の中を生き抜いてきて、他人から心配されることなどなかった。親しげに近づいてくるものがいても、優しさのようなものの裏にはかならず、なんらかのたくらみがある。
「お気遣いをいただき、ありがとうございます」
ブラックが愛想笑いを浮かべた。
気を緩めてはいけない、例え嬉しくても。
「寒くはないかい?」
「むしろ、暖かいですよ。外の方がずっと寒いので」
「そうだね。雨が雪に変わらないのが不思議なくらいだ」
「どうせなら、雪の方が良いかもしれませんね。雨よりも防ぎようがありそうですから」
他愛のない話をする。
こうして普通に、人と交流するのは久し振りだ。
「雪だとしたら黒い雪か。ねばついた黒い雨よりはまだ好きになれそうだけれどね」
「この黒い雨は、どれだけ寒くても、凍りつくこともありませんからね。北の方でもやはり雨ばかりが降り続いているそうです」
ブラックは少しだけ楽しい気持ちになっている自分に気付き、軽い失望を覚えた。人恋しさなんて弱い感情はとっくに捨てたつもりだった。そうしてどんな環境でも生き延びられる要領のよさを手にしたはずだったのに。
人間は弱いなと、彼は小さく失笑した。
どれだけ武装しようと、どれだけ知恵をつけようと、けっきょくは孤独には勝てない。この本能があるかぎり、人は弱いままだ。
「もうすぐ日が暮れるよ。今夜は当然泊まっていってもらうけど、君の体力が回復するまで、いくらでもここにいてくれていいからね。橋を通してあげられないささやかな詫びの気持ちも込めて、歓迎しよう」
「いいんですか?」
「もちろんだよ。これまでもここを訪れた旅人には精一杯のもてなしをしているんだ。そうはいっても、暖かな食事と安全な寝床くらいしか提供できないけどね」
「それがいまやどれだけ貴重なものか、知らない訳じゃないですよね。それに……」
気配もなく、歩み寄ってきた先ほどの少女に、ブラックが言葉を切った。彼女はブラックには目もくれず、グレイの方に向き合う。
「大変。ご主人、茶葉が昨日で最後だった」
どくりと、ブラックは自身の心臓が跳ねあがったのを感じた。
グレイが返事をするより早く、ブラックは持っていた鞄からひとつの袋を取り出していた。袋をテーブルがわりの冷蔵庫の上に置き、緊張をごまかす為にわざと明るい声を出す。
「あの、これ。旅の途中で入手した茶葉なんですけど、使って下さい」
どうやって入手したかは口にしない。相手も聞かなかった。
「……ああ、悪いね。発つ時には別の茶葉を用意するから」
袋を受け取った少女は目礼をした後、その場から立ち去ってゆく。
コポポとお湯をそそぐ音がして、茶の香りが室内に満ちた。さわやかで瑞々しい香りだ。旅の途中でブラックも幾度か口にしたが、こんなに芳しい香りがするとはついぞ知らなかった。淹れ方が巧いのか、水がいいのか。
盆がないのか、木の板に乗せて茶が運ばれて来た。
欠けたカップはグレイへ、罅が入った程度のカップはブラックに渡され、ブラックは冷えた身体を温める為に口をつけた。食道を通って流れ落ちた熱の雫は腹から全身へと広がり、ほっと気持ちが安らぐ。
視線を上げれば、グレイも茶を飲んで息をついたところだった。
「美味しいお茶だね」
「あれ、お穣さんは飲まないんですか?」
「飲む。けど、後で」
冷蔵庫のつるりとした側面に手際よく、皿が配分されてゆく。
どうやら用意してくれたのは、茶だけではないようだ。運ばれてきた料理を見て、ブラックはじわりとよだれが湧きだすのをこらえきれなかった。
人数分の皿には蒸し芋を潰したものに加え、新鮮な野菜に巻かれた肉が添えられていた。なんの肉かは分からないが、虫のかたちをしていなければなんだっていい。しかも量が少ないとはいえ、横には葉野菜のスープまであった。
「心配しなくても変な生き物の肉じゃないよ。
「トリ……? 蝙蝠のことですか?」
「ああ、君の年齢だと、
知識にない材料を説明され、首を傾げたブラックにグレイは丁寧に解説してくれた。
鶏とは時折青空の方向から橋を越えてやってくる生物だが、昔は世界中で食べられていた家畜の一種で肉が柔らかくて旨いそうだ。門の内部で飼育し、食糧として繁殖させているらしい。姿かたちまで教えてもらってもなお、ブラックに想像できたのは蝙蝠の亜種のようなものだったが、蝙蝠ですら現在は美食に属するので、胃に落とすのにはなんの抵抗もなかった。
木製のフォークとスプーンが手渡され、いざ食べようとした時だ。
「え、何してるんですか」
ブラックがぎょっとする。
少女がグレイの膝に跨りはじめたのだから、驚くのもしかたがない。スラックスに覆われた脚を挟むように膝を曲げて、少女は露わになった太股をこすりつける。肌の面積が多いせいか、みだらさが際立っていた。
年頃の少女が、人前でしていい格好ではない。
明らかに異様な食事風景だったが、ふたりは特に違和を感じていないらしかった。
「気にしないでくれ、この娘はぼくの妹だからね」
「いいの、
ブラックの視線に気がついて、ふたりがそれぞれ声をあげたが、かみあっていない。なんと言えばいいのか分からず、視線の置き場も決めかねて、ブラックは黙って視線を彷徨わせた。ブラックがずいぶんと困惑していることを察して、グレイは娘に目配せをした。彼女は従順に頷くとフォークを手に取り、蒸し芋を乗せてグレイの口まで運ぶ。グレイは片方しかない手をフォークに添えて、芋を口の中に導いた。
一見すれば妬ましい光景だが、ブラックは彼女が膝に乗る理由に気づく。つまりは四肢のほとんどが欠損しているグレイには、それらの代替となって動く人間がいなければ、食事もうまく取れないのだ。色目で見てしまった自分が急に恥ずかしくなり、ブラックは慌てて「なるほど、気がまわらなくてすみません」と謝罪した。
「謝るような事じゃないよ。僕らも変な言い方をしたからね。でも、さっきのも嘘じゃない」
「妹さん、なんですか? でもその娘は貴方のことを主人って」
「自分に尽くしてくれる人間を妹扱いするのは、何も変わった事じゃないだろう? 夫婦や恋人と言うには年が離れすぎているからね」
彼はそういったが、ブラックからすれば、恋愛に発展してはならないほどに年の差があるようには見えなかった。少女のほうが十七歳、青年はさきほど予想したように三十歳前後だろうか。一般的な恋人や夫婦よりは年齢の差があるかもしれないが……いや、個人の事情について考えても無意味だ。
疑問を振り払い、ブラックは改めて娘を見る。
たどたどしい喋り口調、機械めいた感情の表現などには違和感を覚えたが、彼女は愛らしい顔立ちをしており、それに気づけば後はもう自然に喋りかける事ができた。
「まだ聞いてなかったけど、君はアイっていう名前なのかな?」
お茶を飲んでいた彼女は一度カップを置き、否定の意を込めて首を振った。
「違う、
「カラフルちゃん、か。可愛い名前だね」
名前こそ英語だったが、彼女は東の人種特有の顔立ちをしていた。
グレイがつけてくれたと言う事は、本名は忘れてしまったのだろうか。それとも、自分から捨てたのか。どちらにしても良い記憶ではないのだろうと、ブラックは察した。
その後遺症が、今の無感情に出ているのかもしれない。
「いただきます」
「どうぞ」
考えるのはやめて、ブラックは蒸し芋にフォークを伸ばす。
舌の上に乗せれば、芋はほろりと溶けて塩で引き立てられた甘みが広がった。自然の味だけの素朴な料理だったが、どこか懐かしい。芋を呑み込むと、ブラックは間髪いれずに鶏肉の野菜包みを頬張った。
「……うまい」
こちらも文句一つない味わいだった。
新鮮な野菜の合間から顔を出す、まろやかな脂が絶妙だ。柔らかな鶏肉にはなんの味つけも加えられていなかったが、食べた事がない肉の味は噛みしめる度に濃厚さを増した。
ゆっくりと嚥下してから、続けてスープに手をかける。
腹を満たし生き抜く為の作業ではなく、幸せな気持ちを呼び起こす食事なんて初めてだった。
夢中でスープを口に含み、今度こそはっきりと、その言葉が溢れて来た。
「美味しいですね、これ……」
なぜか、涙が出そうだった。
顔をあげると、綺麗な微笑みが飛びこんできた。
カラフルが笑っていた。心が凍りついているような彼女はいま、みずからの感情のままに頬を持ちあげていた。柔く細めた瞼の間で睫毛が絡む。そうしていると、彼女は想像していたよりも幼かった。
だから、ブラックはその面差しに一瞬、思い出の影を重ねかけて――。
「――っ」
過去の記憶を振り払う為に、彼は慌てて茶に唇を浸した。
「もう日が暮れて来たね」
黒い雨のせいで日中でも光は殆ど差さないので、部屋の中に明かり取りの窓などはない。なぜ分かったのかと尋ねると、グレイは壁際に置かれたゼンマイ仕掛けの時計を指差した。知識として時計を知っていても、実物を見た事がなかったブラックは、興味深そうに食事の手を止める。まじまじと見詰め、けれど彼には文字盤の見方が分からなかった。
彼の興味は再び、食事へと戻った。
食事を終え、またなにげない世間話をかわす。
「あと二時間程度で僕らは眠るけど、君はどうするのかな? 部屋は用意するけど」
「二時間……? えぇっと、そうですね。俺も寝ます」
電気がない。水が殆どない。食べ物もないから、自給自足。
自分たちと同じような生活水準のはずなのに、彼らの生活は豊かだった。やはり黒い雨が降らない地からの供給があるのではないかと疑い、それならこれだけのプランターが床の四隅を占領しているはずもないかと思い直す。
なら何が違うかと言えば、ここには諍いがないのだ。
略奪や暴力、自らの欲望を満たす為だけに行動する人間がいないから、生活にも心にもある程度の余裕が出来るのだろう。
外は戦場だ。長らく旅を続けて来たブラックは、それが身にしみていた。
ブラックは要領がよく、相手に媚びながらなんとか生き延びてきたが、それでも傷つけられ、殺されかけたことは数えきれないほどにある。貧しい集落を脱して、旅を始めてからは、一時たりともやすらかに眠ることはできなかった。石を握って追いかけて来る大勢の男共に捕まり、胃の中に収めたばかりの食事まで奪われた事も一度や二度ではない。生き長らえられたのは、殺される直前に別の獲物が現れたとか、地震が起こった隙に逃げ出せたとか、ただ運が良かっただけだった。
嫌な記憶を振り払う為にもう一度室内を見まわすと、水槽が目に飛び込んで来た。最低限の水が注がれた水槽の中には、食用と思しき三匹の魚が泳いでいる。魚くらいはブラックでも知っていた。海の浅瀬は黒い雨に汚染されているが、深いところはまだその影響を受けておらず、魚も生息している。魚は貴重な食糧のひとつだ。
水槽を泳ぐ魚の一匹は非常に弱っており、今にも死にそうだった。ぱくぱくと水面で荒い呼吸を繰り返す度、えらが
「そこの魚、大丈夫ですか?」
「え? ああ、昨日から様子がおかしかったんだけど、やっぱり駄目か」
グレイは膝にカラフルを乗せたままで車椅子を転がし、水槽に近づくと、片手でそれを持ち上げた。下からカラフルが支えているので、移動しても水は零れない。なにをするのかと思い、眺めていると、グレイは台所に向かい、ためらいなく水槽を傾けた。
「ちょっと待って、それまだ生きてるんじゃ……」
ブラックの制止もむなしく、弱っていた魚は水槽から飛びだして排水溝にのみ込まれた。残った二匹は波立つ水に抗って、力強く鰭を動かす。数滴の真水と一緒に消えた魚には何の未練も残さず、グレイは生き残った魚を慈しみ深く眺めた。
「衰弱した魚は生き残った魚まで駄目にするからね」
「そんなもの、ですか」
愛玩用ではなく食用だから、なのだろうか。
非情にも思えるその行動は穏和な彼には似つかわしくないように感じたが、出逢ったばかりのブラックが判断するべき事ではないだろう。
水槽をもとの場所に戻し、グレイは食卓に戻ってきた。
「君は優しいのだね」
「そんなこと」
「悲しむことはないよ。実を言えば、あの魚はすでに死んでいたんだ」
「けど、確かにえらが動いて、呼吸を」
「あれは、死後の痙攣だよ。魚は死んだ後もしばらくは鰭やえらを動かすんだ。東の列島の代表料理には活造りというものがあってね、骨だけを残して綺麗に魚をさばくと、皿に乗せた後も呼吸するようにぱくぱくと動き続けるんだ」
「ずいぶんと残酷ですね」
「東の列島では、それを鮮度の証とするんだよ。海や水槽に戻せば、骨と頭部だけになっていても泳ぎだすことだってある」
「信じられません。骨だけでも泳ぐんですか?」
「そうだよ。身があった頃と変わらず、背をしならせてすいすいとね」
想像すると、気持ちが悪かった。驚きよりも嫌悪が勝る。
「ああ、でもそこまでいくと、魚であっても、ラザロ
「ラザロ徴候……それは、いったい」
耳慣れない言葉にブラックが首をひねる。
「ラザロ徴候とは、人間が死後も活動を停止せず、まるで生きているかのように運動したり、本能的行動をとり続ける現象を差す」
「それは、よくある死体が蘇るというあれですか」
「いや、もっと現実に実証されている現象だ。不思議なことだが、人間は死後も自発的に身体を動かすことがある。死んでいるにもかかわらず、腕を持ちあげたり、祈るように指を組んだり、危険に曝されると暴れたりする。自然分娩もできる。単なる低酸素による脊髄反射、あるいは死後硬直中の筋肉の収縮だとも言われているが、それにしては複雑な動きを取ることも多い。
正確には、このラザロ徴候と定義される現象は脳死状態にかぎるそうだが、それがあきらかなものとして確認できるのが病室にかぎられているだけで、実際には様々な事例があるのではないかとぼくは考えている。
一例だが、こんな話がある。
昔列車が走っていた頃に列車の脱線事故があった。現場を目撃してしまったとある男は、誰が懸命に助けをもとめる声を聞き、線路におりた。相手は列車の下敷きになっているらしい。列車のなかを覗きこむと、腕が見えた。引っ張りだすと腕は肩からちぎれていて、胴体は離れたところにある列車の割れた窓にひっかかっていた。ちからなく項垂れた身体に頭部はなく、ぞっとしてまわりを捜すと、頭は線路の端に落ちていて、ちぎれた首だけが助けをもとめる声をあげていたという。
医者が調べたところ……というか、当然のことだが、相手は事故に遭った段階で即死していた。つまり、事故に遭った人間は死後も活動して、助けをもとめ続けていたんだ。
脳死ではなくとも、これもラザロ徴候の一種といえるだろう」
「そんなことはありえません」
「ありえるんだ。ぼくは、戦争時に頭が吹き飛んだ後もしばらく前進し続ける兵隊を幾度も目撃した。確かに死んでいた人間を棺に納め、埋めた後に、何らかの経緯で堀りかえしてみたら、内部から棺の蓋を爪で掻き続けた跡があった、という実話もある。生と死の境界は曖昧だ。だが曖昧であっては、本当はならないんだ。死んでいるものは死んでいる」
「確かに、死体が動くというのは気味の悪い話ですね」
「ラザロ徴候の定義は、明確な意思をもった行動を取っているかどうかだ。けれど意思とはなんだ。どこまでが本能で、どこまでが意思なのか。生きていたい、死にたくないという神経信号が、肉体の死後も送られ続けた結果、人体が動くのだとすれば、それは意思か、それとも本能なのか。
ラザロなんて聖書から命名して神の奇跡のようにいってみてもね、骨だけの魚が泳ぐのと大差はない。それは、美しいものではない」
ほとんど意味がわからないなりに「はあ」と相づちを打ちながら、それは果たして《美しい》《美しくない》で語るべきことなのだろうかと、ブラックは思った。死後も活動を続ける。そんなことはありえない。想像すると、胸がちりちりと焼けるような強い嫌悪を覚えた。強烈な、不安のような。焦燥のような。
「変な話をしてすまない、気分を悪くさせただろうか」
「いえ……」
「久し振りの来客が嬉しくてね。ここでは、なにかと思考を捏ねくりまわすくらいしか娯楽がないんだ」
グレイが申し訳なさそうに眉をさげる。単純に話せる相手が欲しかったのだろうと思い、ブラックはあからさまに表情を曇らせたことに気が咎めた。「いえ、そんなことはありません。興味深い話です」と言えば、グレイは安堵したように微笑んだ。
「時に君は、世界は……終わると思うかい?」
「みんながそう言っていますね」
実際。世界の終焉を予期してもおかしくはないような現実が、世界を覆いつくしていた。黒い雨に浸食され、文明は崩壊し、人々は飢えと絶望に恐慌をきたしている。世界は暴力と飢渇と恐怖と絶望に覆われ、一縷の希望すら見えない。実にむごい有様だった。
「でも俺は、終わって欲しくないです。俺もまだ、死にたくないから」
共感して欲しいと望んで、視線をあげれば、グレイはさきほどとは違い、ひどく冷たい目をしていた。侮蔑するように細められた群青の双眸に狼狽して、ブラックが息を飲む。だが次の瞬間には、グレイは穏やかな眼差しをこちらに向けて、静かにカップを持ちあげた。
「そうだね、君の言う通りだ」
黒い雨より無慈悲な面差しをしていたように思えたのは、ただの見間違えだったのかもしれない。そうとしか思えない優しい声に安堵して、ブラックは力強く頷いた。
無意味な談笑に花を咲かせた。久し振りに人間と対話している気がして、ブラックはずっと前に忘れたはずの、心からの笑顔を取り戻してゆく。
何年振りかに彼は、声を出して笑った。
それは失うのが辛くなるほど、穏やかな時間だった。
だが一度、壁の向こうに聞き耳を立てれば、雨が大地を融かす異音が響いてやまない。平穏な時間のなかでも、黒い雨は降り続けていた。
それが現実だ。そのなかで息をして、足掻いているのだ。
本当はブラックにも解っていた。
間もなく人類が黒い雨によって滅び、世界もやがては終焉を迎えるであろうことを。
黒い雨から逃れて生き残る為ならば、誰もが手段を選ばないだろう。
それが人間と言う生き物だった。
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