いつか来る、その日まで

紅音

春の風

 3月の終わり。春に近づいてきてはいても、早朝はまだ肌寒い。

 本郷奏斗(ほんごう かなと)は、寒さに首をすくめながら、ベランダでタバコを吸っていた。

 灰色のスエットに寝ぐせすら直していない寝起きのまま、マンション5階から街行く人をぼーっと眺めている様子は30歳を過ぎたおっさんのようだ。

 本来の年齢は28歳で、四捨五入すれば30歳。だがその2歳の差は大きいと感じるようになったのはここ最近のことだった。 


「ミャア」

 他愛もないことを考えていると、ふと後ろから鳴き声がした。

 振り返るとおとなしく座ってこちらをじっと見つめるケイがいた。


「おはよう。今日は早いな」

 撫でてやると満足そうに喉を鳴らす黒猫のケイ。彼はこの部屋に住むもう一人の家族であり、5年前からの付き合いだ。


「飯にするか」

 ミャア、といい返事をして、ケイは朝の定位置へと移動した。そこはごはんを食べるときの場所であり、奏斗に一声かけたのも、お腹が空いたからだったのかもしれない。

 用意したごはんを、ケイはおいしそうに食べる。その様子を見ながら、奏斗も朝食をとることにした。


***


「ケイ、道路に飛び出すなよ…」

「ミャア」

 朝食を終えた二人は、外を歩いていた。前を歩くケイに、奏斗は気が気ではなく、道路に飛び出すのではないか、自転車にひかれるのではないか、人に襲い掛かるのでは…。そんなことを考え、猫用リードを付けようとしたが、絶対に嫌だと言わんばかりに爪を立てられたため、しぶしぶ諦めたのである。


 自由を満喫しているケイが、ふと足を止めた。そこはきれいな花が並ぶ、花屋だった。その花屋で止まったのではなく、ケイはじっとある花を見て、ちらりと視線を奏斗に向ける。

 ケイが見ていたのは、青いアネモネの花だった。やたらこちらをちらちらと見つめるケイに、奏斗は苦笑を返し、花屋にいた女性に話しかけた。


「すみません。この青いアネモネをいただませんか?」

「かしこまりました。ブーケにいたしますか?」

 女性に花の欲しい理由を告げると、優しく微笑んできれいな花束を作ってくれた。

 会計を済ませ、外に出ると、すでにケイはずんずんと先に進んでおり、奏斗は急いで追いかけた。


 しばらく歩くと、目的の場所に着いたとケイが座り込んだ。

「お前、ほんと賢いのな」

 ぽんぽんと、ケイの頭を優しく触る。そして、きれいに花の飾られたところの前で膝を折る。

「また、来たよ」

 ”本郷家”と書かれたお墓の前に、持っていた花束をそっと置いた。

 あの家に、3年前まで一緒に住んでいた、妻”本郷風香(ほんごう ふうか)”の眠るお墓である。


 風香は、よく笑う女性だった。思い出す顔は最後の最後まで、笑顔だった。

 大きな病にかかったわけではないが、もともと体が弱かったのも相まって、入退院を繰り返し、治療の甲斐なく息を引き取った。あの部屋に引っ越してからは、彼女は入院することを嫌がるようになり、自宅療養を選ぶようになっていった。その時からすでに彼女は自分の命が長くないことに気づいていたのかもしれない。

 

 ケイを家族に迎えたのも、風香と散歩していた時だった。川の傍で衰弱しているケイを見つけ、風香が助けたいと必死になっていた。風香の体のこともあり、最初は反対もしたが、意思の固い風香の様子に根負けし、獣医にもかかりながら懸命に介抱した結果、現在も生き生きと生活している。


 ケイは、風香にはよく懐いたが、奏斗にはよく爪を立てていた。冬場にこたつに足を突っ込むと、奏斗の親指にかぶりつくのだ。初めて噛まれたときはすごく驚いたが、何度かやられるとだんだんと甘噛みレベルに感じるようになり、慣れは怖いと思ったものだ。風香はぬくぬくとこたつに入っており、くすくすと笑っていたが。


 道中の花屋で買ったアネモネは、彼女が大好きな花だった。あまり詳しくないが、花言葉がマイナスなものが多いことはなんとなく知っており、何でそんな花が好きなのかと、尋ねたことがあった。

 彼女の返答は、「美しく咲く花に、付ける言葉がマイナスなのがもったいない」と、言っていた。

 俺にはさっぱり理解ができず、不機嫌そうに頬を膨らませていたこともあった。


「楽しいことを、思い出すのになぁ」

 目頭を押さえて、奏斗は俯く。

 結婚生活は、たったの4年と短すぎた。まだまだやりたいこともたくさんあっただろう。


 彼女の笑顔を思い浮かべると、嬉しさと同時に涙が込み上げた。


 思い出が記憶に変わっていく自分に怒りを感じた。

 思い出せる彼女が少なくなっていくことに不安を感じた。

 そう思う度に、彼女の最後に傍にいたのが自分でよかったのか、考えずにはいられなかった。


「ミャア」

 ふいにケイが鳴いた。と、同時にふわっと優しい風が吹き、顔を上げると、隣にちょこんとケイが座っていた。その顔は少し機嫌が悪そうだ。

「はっ。お前も、傍にいたもんな」

「ミャア」


 元気のいい返事をすると、ケイは”二人”に背を向けて歩き出した。奏斗も涙をぬぐって立ち上がる。雲一つない空を見上げ、優しい笑みを浮かべる。


 彼女はもうここにはいない。わかってはいても、毎年、命日だけは少し後ろ向きな考えになってしまう。そんなとき、ふいにいつもケイが鳴くのだ。少し不機嫌そうに。


 そのたびに、ケイと自分は生きていると思い出す。


 この胸の痛みは、きっと一生消えることはないだろう。それでも、精一杯生きて、新しい思い出を作っていこう。そしていつか彼女のもとに行ったとき、たくさんの思い出話を聞かせてあげようと思うのだ。

 そう思えるのも、彼女が必死で助けた、前を歩く黒猫のおかげだ。


「ミャア」

「今、行くよ」

 こちらを振り返るケイに返事をして、奏斗はゆっくりと歩き出した。

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