夏の翳り

らきむぼん/間間闇

夏の翳り


 これは僕と先輩が、昨夏に体験した話である。


 東京の私立大学に入学してから三年余りが経ち、僕は専攻している民俗学についての卒業論文の製作準備に取掛っていた。何が契機であったかは忘却したが、教授から注目され、いい加減な論文を書いて提出するというわけにもいかなくなってしまい、完全に手詰まりだった。そこで、三歳年上の先輩に怪談小説を出版して生計を立てている新人小説家がいることを思い出したのだ。彼が在学していた頃、僕はよく彼と一緒にいた。難しい課題にはお互い手を貸し合っていたし、毎日のように共に遊びまわっていた。小説家が一人の学生のために協力してくれるとは思ってはいなかったし、不躾であることも承知していたが、解決策を模索しているうちにも時間は刻々と過ぎていく。

 断られるのを覚悟で、僕は彼に電話した。すると、意外にも協力してくれるというのだ。民俗学、特に怪談文化に精通していた彼はそれを活かして作家になった。そんな怪談作家に協力を仰げば民俗学の卒業論文の制作の糸口もきっと掴めるだろう、僕は安堵し彼の家を訪ねることにした。これがその年の初夏の話だ。


 怪談作家の一色政輝先輩は、卒業後に京都に拠点を移した。彼が言うには、怪談というものはその蒐集方法に幾らかのパターンがあるらしい。主なパターンは二つ、一つは文献を読み解いて、古い記録にある怪談を知ること。そして二つ目はその手の奇譚が集まる寺院に取材をしに行くこと。少なくとも、一色先輩はそのどちらかでオリジナル小説の為のネタを仕入れるそうだ。……となると、自然と拠点は京都に決まったという。当然ながら、古都京都には怪談話は溢れているからだ。

 そこで、地理的にも遠方であるので、僕は夏休みを利用して一色先輩の宅に世話になることになった。八月末までは泊まってもいいと言われたのだが、資料が集まり次第、東京に戻るつもりだった。いつまでも忙しい先輩のお世話になるわけにもいかないと思ったのだ。


 確か、早朝に静岡で大きな地震があった日だったと記憶している。正確な日にちとしては、八月十一日だったか。僕はその日の夕刻頃、京都に着いた。京都駅の雑踏を逃れ、八条西口から待ち合わせた東寺まで移動すると、幾分人の波は穏やかになった。いわば観光地の一つである東寺真言宗総本山の寺「教王護国寺」よりも京都駅西口の方が混み合っているというのにもどこか思うところはあるが、僕は素直に東寺の優美な姿に感動しておくこととした。怪談文化について一色先輩から色々と聞くつもりではあるが、もしそれで難しいようならばこういった古都の日本文化に触れて、京都を観光がてら散策し、なんとか論文のネタを探したいところだった。

 そうこうしていると、背後から僕の名を呼ぶ聞きなれた声が掛かった。

「京介」

 斯波京介――僕の名を呼ぶその声に懐かしみを覚えつつ僕が振り返ると、そこには一色政輝先輩の変わらない姿があった。

「ご無沙汰してます、先輩。今日から数日、お世話になります」

「相変わらず堅いやつだな、お前は。まぁ、遠慮せず泊まっていけ。今の俺には多少余裕がある」

「小説読みましたよ、あれ、京都が舞台ですよね。結構売れたって聞いてます」

「ああ、こないだ発売したやつな。名前は隠してあるが殆ど実話に近いんだぜ、あのシナリオは。デビュー作にしてはヒットした方だろう、そうでなければお前を世話する余裕はないよ」

 そんな会話で近況を報告し合いながら、僕らは一色先輩の住むマンションに向かった。


 その日、僕らは夜まで談笑した。久しぶりに再会したことで、数年前の記憶が想起されたのか、話の種は絶えず、酒を交えながら夜が耽るまでずっと喋っていた。そうやって下らない話が続く中、突然、思い出したかのように一色先輩はある提案をしてきた。

「明日、俺はちょっと前にアポを取った寺に取材をしに行くんだ」

「寺、ですか」

「ああ、翳霊寺っていう、山奥にひっそり建つ寺院で、今では住職が一人とそこで修業をする僧くらいしか立ち寄らない。古くから怪奇譚が伝わり、この世と霊界とを結ぶ場所と言われている所だ。そこの住職が、とてつもない数の怪奇譚を知っている人で、俺達の世界ではちょっとした有名人でな。一度、話を聞いてみたくてな」

「なるほど、なかなか面白そうですね」

「お前も来ないか」

 それは突然の誘いだった。当然、事前に聞いていた話ではなく、そのような寺の存在も全く知らなかったのだが、どうやら先輩は初めから僕をこの取材に同伴させるつもりだったようだった。

「取材の邪魔になりませんか」

「向こうも、一対一じゃ話しづらいだろう。それに、お前の卒論のネタも見つかるかもしれないぞ」

 確かに、小説家の取材に同伴できる機会なんてこの先ないかもしれないし、怪奇譚の集まる寺院に出向くこともそうあることではない。正直なところ願ってもない話だった。

「助かります。それじゃあ、僕も取材に付きあわせてもらうことにします」

「よし、明日の午前中に出発する。随分山奥にあるから、結構時間がかかるぞ。なんせ、修行僧が行くような場所だからな」

「それはキツそうですね」

「なあに、これも経験だ。学生の内にやれることはやっておけ」

 こうして、僕は一色先輩と共に山奥の寺院、この世と霊界を結ぶ場所、翳霊寺に行くことになった。

 この時はまだ、この夏にあのような結末が訪れるなんて、知る由もなかったのだ。


 翌日、僕らは翳霊寺を訪れた。一色先輩の言った通り、普通の人はまず立ち入らないであろう山をひたすら歩き続け、迂回路であるにも拘わらず厳しい草道を三時間ほど登り、ようやく僕らはその寺に辿り着いた。脚が棒のようになりとてつもない疲労感が襲う中、寺院の敷地内に足を踏み入れると、還暦を過ぎたくらいの住職と思わしき男性が僕らを出迎えた。

「先日、連絡いたしました作家の一色です。今日はよろしくお願いします」

 先輩が挨拶をすると、男性は優しい笑みを浮かべ、それに応えた。

「どうぞいらっしゃいました。私がここ翳霊寺の住職です。疲れたでしょう。部屋でゆっくりと休んでください」

 僕らは住職に連れられ建物の中を案内された。

 翳霊寺は大きな寺院だった。寺とは別に棟があり、いくつもの和室が並んでいる。普通の寺とは随分印象が違い、僕は思わず住職にそのことを訊ねた。

「住職さん、ここは随分大きな寺ですが、何か特別な役割でもあったのですか」

「ほう、よく気付きましたね。ここは昔、施薬院のような役割を兼ねていたのです。つまり、貧困者や怪我人、病気に苦しむ者、そういった人々を看護する寺だったのです」

「なるほど、それでこんなに部屋があるわけですか」

 しばらく進むと、僕らは八畳程の和室に案内された、そこで住職の出した茶菓子をいただきながら痛む全身を休めた。一時間ほどして、再度住職が部屋にやってくると、一色先輩は早速取材を始めた。

 住職はかなり慣れた様子で次々と怪奇譚を話し始めた。おそらく、もう何度も取材を受けているのだろう。僕と一色先輩はその話一つひとつを丁寧に聴き、時折手帳にメモをした。

 辺りがすっかり暗くなった頃、ようやく取材は終わった。大方の怪奇譚は聴き終え、僕らは住職にいくつか質問をし、それを住職が丁寧に答え、かなりしっかりとした記録がとれた。

 あれだけ疲れていたにも拘わらず、住職の話す奇譚は非常に面白く、時々鳥肌がたつような怪談などもあり、あっという間に取材の時間は過ぎてしまった。

 当然ながら、山奥に立地する翳霊寺から夜に下山するのは非常に危険であるため、僕らは住職の気遣いもあり、翌日まで翳霊寺に宿泊することとなった。

「お二人とも、今日はお疲れさまでした。お二人が泊まっていただく部屋に案内しますので、こちらへ」

 住職は丁寧な口調でそう言うと、僕らを連れて廊下を進んだ。

 しかし、僕らが泊まるはずであった部屋に向かう途中で住職は不意に足を止めた。

「どうかしましたか」

「申し訳ありません、失念していました。ちょうど今修行のためにここを訪れた僧が部屋を使っているのでした。先程の客間に泊まっていただくのも申し訳ありませんし、どうしたものか」

 住職は申し訳なさそうに頭を下げ、そう言った。しかしながら、それは妙な話だった。ここに来たとき寺とは別の棟があったではないか。部屋の数は妙に多くあったのだから、そこに泊まれば問題はないはずである。

「あの、僕が言うのも変ですが、ここに来たときに見た棟は駄目なんですか。部屋数も多かったと思うのですが」

 僕がそう提言すると、住職は困惑した表情で唸った。

「構いませんが、問題がありまして」

「問題、ですか」

「ええ、一つ、約束を守っていただけるのならば、部屋は用意できるのですが」

 住職は妙に言い辛そうな口ぶりだった。僕は何か、胸騒ぎのようなものを感じた。嫌な予感がし、先に住職が言っていた客間で泊まるという選択肢を選ぶべきであるような気がしてならなかった。

 しかし、僕がそれを口にする前に一色先輩が口を開いた。

「約束って何ですか」

「あの棟には、絶対に入ってはならない部屋があるのです。先人たちはその部屋を『障翳の間』と呼んでいました。鍵はありませんが、重厚な鉄の扉で閉ざされており、私もたったの一度でさえその扉を開けたことはありません。その部屋には絶対に入らないと、そう約束していただきたいのです」

「もし、入ってしまったら何かあるのですか」

「伝聞によれば、障翳の間に入室したものは、二度と部屋の外に戻ることは出来ないのです」

 住職は、今までの優しい表情を一瞬だけ消失させ、険しい表情でそう答えた。後に僕は、この時に一色先輩を止めておくべきだったと後悔することになる。しかし、この時にはまだ一色先輩が何を考えていたか皆目見当が付かなかったのだ。

「解りました。鉄の扉の部屋には絶対に入りません。約束します」

 一色先輩はにこやかにそう返し、その晩は、別棟の一室に一泊することが決まった。


 その晩、僕と一色先輩は、取材で聞いた怪奇譚の整理と、それらと民俗学との関連付けの作業で日付が変わる頃まで時間を使った。先輩にとっては民俗学との関連付けに関してはやる意味はあまりなかったのだが、「別の視点から物事を見るのも大事だ」と言って、僕に付き合ってくれた。

 大方の仕事が終わって、僕らは就寝の準備を始めた。準備と言っても、用意された布団を敷くだけなのだが、疲れていたせいか随分手付きがもたついていたと思う。

 そんな中、布団を敷きながら、先輩は唐突に口を開いた。

「なあ、あの部屋、何があるんだろうな」

 僕は先輩が何を言ってるのかよく判らなかった。この時は既に住職との約束も忘れていたからだ。

「障翳の間、だっけか。トイレに行ったついでに見てきたが、随分な容貌だったぜ。ありゃあマジで滅多に開けてないんだろう。開かずの間ってやつか。いや、鍵もねえんだし、開けずの間ってとこか」

 先輩が薄ら笑いを浮かべながらそんなことを言い出して、ようやく僕も話の内容を理解した。住職がきつく言っていた約束事。入った者は戻れない部屋「障翳の間」の話だ。

「京介、この時間じゃ誰も起きてないだろう。行ってみないか」

「住職が入るなって言ってたじゃないですか」

「あれは、入ったら出てこれないからだろ。でも、どうせそれは怪奇譚の一つだ。どこにも為来りってのがある。まさかそんな迷信を信じるのか」

「いや、でも為来りだって言うなら守るべきなのではないですか」

「阿保、知られなけりゃ無かった事と同じだ。作家として、何があるか見ておきたくないか」

 一色先輩は好奇心に負けていた。否、この人は初めから恐怖心なんてものを持っていなかったのだと思う。怪談作家が怪談をどう捉えているかなんてこの頃の僕には皆目見当も付かなかった。

「僕は作家じゃないですよ。それに、僕は嫌です。怖いとかそういう話以前に、入るなと言われていたところに入るのは良くないですよ」

「うーん、そうか。お前がそこまで嫌がるならしょうがねえな。俺も独りで行ったってつまんねえしなぁ」

 必死で説得したのが効いたのか、先輩は大人しく引き下がってくれた。この辺は昔から弁えている先輩だ。かなり豪快な性格の先輩ではあるが、頭のいい人だ、後輩の気持ちを汲んでくれる。

 僕はすぐに就寝した。疲れていたこともあって比較的早く眠りに就いた。

 少なくとも僕は、眠りに就いていた。


 それが何時頃だったか、確認をしていなかったので判らない。ただ、僕は尿意を覚えまだ外が暗い時間帯に目を覚ました。

 月のない夜だった。僕は目がなれるまでその場を動かずにいた。ようやく目が慣れてきて、先輩を起こさないようにゆっくり布団を出た。すると、数メートル間を空けて敷いた布団に寝ていたはずの先輩の姿がなかった。

「先輩」

 小さく呼びかけるものの、返事はない。当然だ。部屋に居ないのだから。僕はまさか障翳の間に行ったのではないか、と勘ぐったが、すぐに想像をかき消した。きっと自分と同じように起きて、トイレにでも行ったのだろう、そう思った。

 僕は足元が暗い中、ゆっくり部屋を出た。トイレの場所に行くには僕らが泊まっている部屋から一通りの行き方しかない。きっと先輩とすれ違うだろう。

 しかし、結局トイレに着くまでに先輩とすれ違うことはなかったし、トイレにも先輩は居なかった。寝ぼけ眼だった僕もすっかり覚醒していた。何かがおかしい。先輩は何の理由があって部屋を出たのか。

 部屋に戻る廊下の途中、左手にある分かれ道に目を向けた。棟の中心に向かって伸びる廊下だ。僕らの部屋からトイレに行くまでの道に分かれ道はここしかない。先輩はトイレに行くついでに障翳の間を見てきたと言っていたのだから、必然的にこの先に障翳の間があることになる。

 僕は目を凝らして廊下の突き当たりを見た。

「あっ」

 廊下の突き当たりにある襖が五十センチ程開いていた。昨夜に見たときは襖が閉まっていたため、その先に何があるかなんて判らなかったし、和室の大部屋か何かがあるのだろう位にしか考えていなかったが、その先にあるのは六畳程の小部屋だった。そしてその奥に鉄の扉。

 僕は恐るおそる小部屋に近づき、中を覗き込んだ。ここはまだ障翳の間ではない。障翳の間に繋がる隣室だ。にも拘わらず、妙に空気が澱んでいる。しかも、暗い。無月であるのだから暗くて当然ではあるがそれを差し引いても異常に暗かった。まるで、翳が落ちているように。

 そこで数秒間、先輩はどこに行ったのか考えた。しかし答は出ず、僕は踵を返した。

「うわぁっ」

 振り返ると、そこには翳霊寺の住職が立っていた。僕は頓狂な声を上げて腰を抜かしてしまった。

「すみません、驚かすつもりはなかったのですが、立てますか」

 住職はそう言って手を差し伸べてきた。僕は「すみません」と謝りながら住職の手を掴み立ち上がった。

「斯波さん、あなた、入ってはいませんね」

 僕が立ち上がると、住職は低い声でそう訊ねた。僕はその住職の厳粛な声色に怯えて、声を震わせながら応えた。

「い、いえ。ちょっと見てみたくなって。入るなんて、怖くてできませんよ」

 僕の言葉を聞き、住職は安心した表情に戻った。

「もう近づかない方がいいでしょう。好奇心で開けてしまって後悔してもしょうがありませんから」

「ええ。そうします。ところで、鍵は付けないんですか」

「いくら付けても無駄です。数日でくすんでしまい腐り落ちてしまうのですよ」

「く、腐り落ちる、ですか」

「ええ、何にしろ、ここにいるのはよくない。もう休みなさい、疲れているでしょう」

 僕は短く返事をして、その場を離れた。一度だけ振り返って障翳の間の方を見ると、閉められた隣室の襖越しに暗影が立ち込めている気がした。

 途中で住職と別れ、与えられた部屋に戻った。すると、布団には一色先輩の姿があった。僕はそれを見て妙に安心した気分になり、深く息を吐いた。一色先輩が言うとおり迷信であるにしても、そうでないにしても、障翳の間が一度入ったら出てこられない部屋ならば、一色先輩が部屋に戻っている以上、何の問題もないのだ。先輩はあの部屋には行っていないということになる。

 安堵のせいか、急に眠気が襲い、僕は何も考えず深い眠りに就いた。



 その朝、僕らは翳霊寺を後にした。先輩は別段変わったところもなくいつもと通りの様子だった。その様子を見て、僕も深夜にあったことをあまり深く考えないようにすることにした。

 また厳しい山道を歩くとなると若干憂鬱にはなったが、僕らは何事も無く京都にある一色先輩のマンションに戻ってきた。

 それから一週間程の間、僕と一色先輩は別行動だった。マンションに居るときは普通に話もしたし、協力できる所は協力し合い、互いの仕事を進めていたが昼間の内は会うことは少なくなっていた。僕は論文を書き進めたり、図書館で資料をひたすら読み漁ったり、翳霊寺以外の寺院などにも足を運んでみたりした。一色先輩は怪奇譚や新作小説の資料を蒐集したり、プロットを組み立てたりして忙しそうだった。

 そして、僕が「それ」に気が付いたのは八月も下旬になる頃の、ある水曜日の夕刻のことだった。

 僕は折角京都に来たということもあり、気分転換の意味も含めて京都市内の観光をすることにした。

 法輪寺や渉成園枳殻邸、法然院などを巡り、哲学の道や無鄰菴も見た。京都は中学の修学旅行で一度訪れたことはあったけれど、思いの外観光の思い出は希薄で、新鮮な気持ちで数多の名所を巡ることができた。

 最後に嵐山嵯峨野周辺を回った。祇王寺から二尊院、南下して竹林を越え、天竜寺を訪れた。どこも名所ではあるが平日の、しかも夕刻近い頃ということもあり、観光客は少なかった。

 僕は天竜寺を出て渡月橋を歩いた。渡月橋は、亀山上皇が橋の上空を移動していく月を眺めて「くまなき月の渡るに似る」と感想を述べたことから名付けられたという。ドラマや映画でも多く登場する橋だ。橋の中程からは法輪寺が見える。この頃には既に陽も落ちかけており、辺りは夕陽で真紅に染まっていた。光と影のコントラストが景観の立体感を際立たせる。

 橋上で僕は夕陽を眺めていた。その優美な眺めを観ていれば、日が暮れてから帰っても遅くはないと思えた。

 あるいはこれが、僕が知らないほうがよかった事実を知ってしまう原因であったかもしれない。

 不意に、渡月橋から夕日を観ている僕に、背後から声がかかったのだ。聞き慣れた、先輩の声だった。

「京介、今から帰りか」

 振り返ると、一色先輩がデジタルカメラを片手に佇んでいた。どうやら、取材の帰りに偶然遭遇したようだった。

「先輩、ここに取材に来ていたんですか」

「まあな。今日は嵐山の名所と風景が主な目的だ。次の小説の舞台はここだからな。最後に嵐山の観光名所、渡月橋からの夕陽でも撮っておこうかと思ってな」

「やっぱり作家の方って自分の足で資料を集めるんですね」

「怪談はリアリティがあるフィクションだ。あくまでも現実的で論理が通ってなきゃ作れないからな」

 一色先輩はそう言うと沈みかけた太陽に向けてカメラを向けた。

 僕が異常に気付いたのは、先輩がカメラの液晶を覗き込んでいる時だった。本当に何気なく、特に思うところもなく、唯、後ろを向いただけだった。夕陽を見ていた視線を、反対の方向に、西から東へ、向けただけだった。そこで僕はソレに気が付いた。

 一つの影が、そこにあった。

 否、一つの影しかそこに存在していなかった。

 僕と一色先輩の、二人の影があるべきそこに、僕のたった一つの影だけしか無かったのだ。

 そんな、馬鹿な。

 僕は驚愕した。あるべき影がない。瞬間的に想起したのは翳霊寺のことだった。「翳」霊寺。翳。関係していないはずがない、そう確信した。

「おい、どうした」

 先輩は狼狽した僕を一瞥すると、そう訊ねた。

「い、いえ」

 言えなかった。何故だかは分からない。ただ、言うのが怖かった。何より、先輩はその異常に気が付いていない。それもまた恐怖の一因だった。

 僕は耐えられなかった。訊かずにはいられない。

 あの日、先輩は障翳の間に入ったのか。

「あの、先輩、翳霊寺に訪問したとき、先輩はあの部屋に入ったんですか」

 随分と直接的な言い方だったと思う。急にそんなことを言い出す僕を、先輩は怪しんだかもしれない。でも、震えそうな声を誤魔化すのが、あの時の僕にできることの全てだった。

「あの部屋って言うと、障翳の間ってやつか。鉄の扉の向こうの曰く付きの部屋。何でそんなことを訊くんだ、急に」

「いえ、ちょっと思い出して。先輩、中を見たがってたじゃないですか」

「ああ、実はあの宵、俺はあの部屋に入ったんだ。京介、あの部屋に何があったと思う」

 先輩のその一言で、僕は心臓が止まりそうな衝撃を受けた。やはり、この人は障翳の間に入っていたんだ。しかし、ならば何故先輩はここにいる。やはり迷信だったというだけなのか。だが、現に先輩の身には異常が起きているではないか。

「何が、あったんですか」

 僕がそう聞くと、先輩は真剣な顔つきで、僕の目を見た。一体、あの部屋に何があったというのか。

 先輩は急にニヤリと笑い、口を開いた。

「それが、何もなかったんだ。がっかりだよな、てっきり、心霊グッズやら、不気味な人形だとか、そんなもんがあると思ってたんだが、あの部屋には何も無い。ただ、暗いだけの部屋だ。照明も何も無い、ただの空室だよ」

 何もなかった。それは本当だろうか。いや、物理的には本当だろう。しかし、「何も」ではない。あそこには悍ましい暗影と、淀んだ空気があったではないか。先輩は、それを感じなかったのか。

「怖くなかったのですか」

「怖いなんて感情は俺にはない。俺達みたいな『創る側』の仕事をしている人間は他人の、それも大昔の人間が作ったようなちっぽけな怪談などに怯えることはない。霊なんか信じてたら、仕事にならないだろう。怪談は、どこまで行ってもビジネスって訳だ」

 先輩はそう言って豪快に哄笑した。そうだ、この人はあの時も、翳霊寺で障翳の間を見たいと言い出した時も、「作家として見ておきたい」と言っていたではないか。この人には、最初から恐怖心なんて無かったんだ。

「京介、陽もそろそろ暮れる、帰ろうぜ」

 先輩は何もなかったように言った。否、先輩にとっては最初から何もなかったのだ。そして、僕の恐怖心を察することはなかった。思えば、先輩はこの頃から既に、肝心な何かを見失っていたのかもしれない。これもまた、導かれた結果だったのかもしれない。僕が一色先輩に異常を伝えられなかったのも、彼が自分の異常に気が付かなかったのも。

 その晩、僕は翳霊寺に電話した。あの温和な住職に翌日訪問したい旨を伝えたのだ。彼は快く了解してくれた。

 そして、翌日、僕は再び翳霊寺に赴いた。



 住職は最初に翳霊寺に訪れたときと同じように穏やかな様子で僕を迎え入れた。前回とは違う小ぢんまりした和室に案内された僕は、早速核心に触れた。

「障翳の間、あれは一体何ですか。あそこに入った人間には何が起こるのですか」

「やはり、入ってしまいましたか。あなたですか、それとも一色さんですか、それともお二人ともですか」

「一色先輩です。すみません、忠告はしていただいたのに。僕は彼を止められませんでした。それどころか気付きさえしなかった」

「そうでしたか、いえしかし、あなたの責任ではありません。私は仕事柄、人の変化には敏感です。何かあれば気付く自信があったのですが、彼からは何も感じなかった。不思議でなりません。彼はいかにして平穏を装ったのか」

 僕には住職の疑問の答が判っていた。単に先輩は何も信じていなかっただけだ。だから先輩自身の心には何の変化も起きないし、その領域へは簡単に踏み込めない。

「あの部屋は、地獄への入口のようなものです。あの部屋にいるモノたちは判然とした悪意を持って人を誘うのです」

「あの部屋で一体何があったのですか。何故あれほどに禍々しさを放っているのですか」

 僕は額に汗が浮かんでいることに気付いた。しかし、感じるのは悪寒だけだった。おそらく、住職も同じだろう。住職は、ゆっくりと口を開いた。

「かつて、この寺はある村の中にありました。以前に申し上げたとおり、ここは病人を保護する寺でした。しかしある時、村に伝染病が発生しました。国は伝染した患者を隔離するように謂いました。隔離によって、被害は最小限に収まり、回復した村人も多かった。しかし、中には人の居る場所から完全に隔離せねばならない程に重病の患者も居ました」

「その完全な隔離に使用したのが、あの部屋」

「察しのとおりです。あくまでも伝承ですが、そう古くない話、あの部屋がそういった経緯で怨嗟、怨情を孕んだ可能性は高いでしょう。完全な隔離とは単なる隔離ではない。閉じ込めるのです。まるでその方々が最初から居なかったかのように。そう、あたかも翳であるかのように」

 住職は深く目を閉じた。その姿は、祈りを捧げるようであった。

 僕にはまだ疑問があった。それに、先輩をどうしたら助けられるのかも聞く必要がある。

「住職さん、あなたは『障翳の間に入室したものは、二度と部屋の外に戻ることは出来ない』と仰っていましたよね。しかし、一色先輩は実際に入ったのにも拘わらず今も外で普通に生活しています」

「いえ、一色さんは未だあの部屋の中ですよ」

 住職は目を細めて、苦しそうに言った。僕には更なる疑問が生まれただけであったが、住職は何かを悟っているようだった。

「それは、どういう意味ですか」

「『影』というものは、存在の裏付けなのです。影のある場所に人は真に存在する。いや、『存在』することはどこでも可能なのです。しかし、それは『実在』ではないのです。あの部屋の翳たちは、障翳の間に入室した者の影を奪う。それは、その者の『存在』を奪うことなのです。影の在る場所に魂は実在します。そして、魂在る所に肉体は呼ばれるのです」

「それは、先輩が再びここに呼ばれるということですか」

「いえ、恐らく既に魂はここにはないでしょう。次に呼ばれるときは、ここではない。次は、地獄にです」

 そう語った住職の顔は酷く冷静だった。なにか重いモノを背負っているかのような、そんな顔だったのだ。



 その日、僕は翳霊寺に泊まった。僕は住職に先輩を救う術を何度も訊ねたが、その答は得られなかった。「どうにもできない」それが答なのだ。影が此岸に在る内ならば、何か術はあったかもしれない。住職はそんなことを呟いていた。

 翌日の朝、僕は翳霊寺を後にすることにした。住職にこれ以上迷惑はかけられなかったし、僕に出来ることが何もないことを思い知ったのだ。

 寺を出る時、僕は一度だけ障翳の間に目が留まった。見まいと思っていたその部屋であったが、ただならぬ気配を感じたのだ。それはあの夜と同じだった。大量の翳が渦巻くその部屋の扉からは、悍ましい気配が感じられた。



 それから数日が経ち、丁度、夏が翳る頃、怪談小説家の一色政輝は急死した。

 あれから、僕は一色先輩の元を離れた。一緒にいたら、僕は彼に何かをしようとしただろう。何をしても無駄な一色先輩を助けようとしただろう。しかし、彼にとってはそんなことの全てがオカルトであり迷信であるのだ。彼が残りの時間を有意義に過ごすには、僕が一緒にいては駄目であると気付いたのだ。

 僕が東京に帰ったすぐ後に、先輩は亡くなったそうだ。死因は心臓の疾患だそうだ。もちろん、急死というものは内臓疾患が本人も気付かぬうちに進行し死に至ることを言う。偶然かもしれない。

 しかし、僕にとっては、そんな偶然の死も偶然には見えなかったし、もしかしたら偶然なんかじゃないのかもしれない。

 それから僕は翳霊寺には行っていない。だが、今もあの部屋はあの場所で翳を深めているのだろう。

 そして、その中には一色先輩の「翳」も存在するのかもしれない。



 了




あとがき


 読了感謝致します。

 拙作は2011年に「小説家になろう」の夏のホラー2011という企画で公開した怪談です。当時は大学生最初の夏でしたね……いやはや時の流れというのは……

 大学生の時分はこれ以外にも短編を量産しているので、掘り起こして読んでみるとなかなか面白いのです。5年以上前の自作は他人事のように読めて愉快ですね。

 幸いにも当時この作品は想像よりは遥かに高評価され、戸惑った覚えがあります。実は私は関東から出たことなど数えるほどしかない人間なので、京都の描写はやや怪しいですが、お見逃しください(笑)

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