第11話 雛、自身と他者の心を知ること

 紅榴の言葉に玉蝶の胸がちくりと痛みを訴えた。その違和に玉蝶が己の手を当てる隣で、紅榴が思い出したような顔で懐に手を入れた。

「これ、お前の分な」

 ほい、と紅榴が緑色の巾着袋を放り投げ、玉蝶は慌てて両手で受け止める。

 中を覗き込めば、銅銭の束が五本見えた。中央に四角い穴が開いた丸型の銅貨は紅茶色の紐を通した百枚で一本と数える。銅百枚で銀貨一枚と交換、銀貨百枚で金貨一枚と交換でき、銀貨十枚で庶民の一家が一ヶ月は働かずに暮らせるから、見習いの玉蝶には銀貨五枚相当はかなりの大金だ。

「こ、これ、どうしたんですか?」

 慌てふためく玉蝶を安心させるかのように紅榴は落ち着いた声を出した。

「氷球と氷舞の賭け金な。見習いだって入り用だろ?」

 衣食住が保証されている雛妓や宮妓は、出演した宴席の分だけ俸禄が出る。ゆえに駆け出しの玉蝶は、三食と寝床、そして舞台衣装は教坊で賄えるものの、自身の稼ぎと言えるのは微々たるものだ。

 ちなみに、朝廷の許可を得ていない賭博は違法であるが、罪として立件するのが難しく、人死にが出ない程度なら目こぼしされるのが現実だ。

「受け取ったってぇこたぁ、共犯。お仲間、同じ穴の狢。一緒に翠輝様の説教を受けようや」

「ひどい!? というか、賭け……になったのですか?」

 どちらも中途半端に終わった自分と桃簾の勝負が、賭け事に利用されていた――その事実に怒りよりも驚きが勝る玉蝶に、紅榴はニシシと白い歯を覗かせる。

「おお、なったぜ。まっ、こういうのは胴元が儲かるようにできてんのよ。でもいいよな、桃簾の信者も、お前の信者も、どっちも満足してるし!」

「信者」

 舞台経験が多い桃簾なら、あの見目も含めて、同業者の信者もいるだろうというのは、わかる。だが、玉蝶は百戯館の面々以外は特に交流していないし、氷球や氷舞で先達である宦官たちを虜にできたかは疑問がある。

「信者は言い過ぎだな。でも氷舞がどんなものか、それに挑戦するやつがどんなやつかっていうのは、十分に伝わってるぜ」

「そう……なのですか」

「ああ。滑氷に興味がある連中もいるから、百戯館のところに滑氷鞋を作ってくれって依頼が増えたってよ」

 でも人造湖はしばらく使えねぇけど、と紅榴の笑い声が改正の空に響き渡った。


 *


 人造湖から百戯館に戻り、墨汁で汚した広場を急いで片付けた玉蝶は、百戯館の宦官たちに礼を述べて、日没寸前に巽宮に戻ってきた。

 湯あみを済ませ、室内で柔軟体操をする玉蝶の胸が、紅榴の言葉を思い出して軋む。

 兄、玉鸞は今もなお色んな人の心の中で生きている。

 その実感は、宦官墓園にいるときよりも一層強くなった。

 玉蝶が成長したから、そして玉鸞が出演した天覧氷舞に、玉蝶が近づいているから。

 家族として誇りに思う気持ち、兄と同じ帝国芸能界にいるからこその嫉妬が沸き起こる。

 そしてなにより。

「……あに様は、そんな立派な方ではなかったわ」

 扇のように両足を広げた玉蝶は己の額が床につくように上体を前面に伏せながらぽつりと漏らした。

 舞台の役者に憧れる観客の気持ちはわかる。

 けれど役者の身内であるために、役者があくまでも舞台上では演技していることを知っている玉蝶は、玉鸞の演技を知る人たちがまるで彼を神仙のごとく讃えてることに違和感を覚える。

 六歳上の玉鸞は、生まれつきの髪色が吉祥をもたらすために周囲の大人たちからは縁起物として崇拝され、子供たちからも同様の態度を取られ、そして母や養父が口ずさむ歌、養父が見せてくれた滑氷をすぐさま習得した才能があったせいか、玉蝶に対しては横柄な態度で、母が都度叱りつけていた。

「ついてくるなって言っただろ!」

「わたしも行くもん!」

 養父の飛鏡が玉鸞に滑氷を教えてくれることになって、玉蝶も二人の後を追いかけた。鼻先を赤くした玉蝶に向けた玉鸞の第一声に、玉蝶も負けじと言い返し、まあまあと割って入るのが飛鏡であった。

 水害で両親の訃報を聞かされ、玉鸞はいつになく真剣な顔で玉蝶に問うた。

 金華村の村長に引き取られるか、自分と一緒に京師に行くか。ただし京師に行けば、玉鸞にはなすべきことがあるから、玉蝶と一緒にはいらなれない、とも。

 玉鸞のなすべきことというのが、宦官になり身を立てるという意味だと玉蝶が知ったのは長じてからだ。

 玉鸞はけして悪い兄ではなかった、彼なりに妹に優しかったのはちゃんと覚えている。

 ただ観客や同業者から讃えられる玉鸞が、玉蝶の知る彼と別人のようで、身内として、身内だからこそ居心地が悪くなってしまうのだ。

 ――舞台で美しい舞をお客さんに披露したけど、でもその人、人間ですから! お腹が空けばお腹からぐるぐる音が出るし、涎を垂らして寝てるときもあったし!

 と、時折言いたくなってしまう。

 言わないのは、玉蝶もまた玉鸞と同じく帝国芸能界で生きて、客に夢を見せる生業だと理解しているから。

 扉を叩く音で、玉蝶の意識が引き戻される。応じれば現れたのは、亨珪雀だった。彼の背後には案内役の宦官がいる。

「公子!」

 玉蝶は慌てて立ち上がった。

「玉蝶、お帰り」

「ただいま戻りました!」

 帰還の際には先ぶれが出るために宮殿にいる全員が存在を知る公主と異なり、表向きは宮女という下っ端の玉蝶が紫晶の宮殿に戻って来ても、直接応じた宦官や宮女以外は誰も知らない。

 そして亨珪雀は、公主の従弟と言えど成人男性だ。だから日中は、家令である白氏の代理を務める宦官とともに公主の側に控えており、玉蝶と顔を合わせる機会もそうそうない。

 玉蝶は恐縮した様子で室内に二人を招き入れた。

 挨拶もそこそこに珪雀は手にしていた巻物を玉蝶の前で広げた。蝋燭の明かりを受けて黒髪と白絹の布帛が艶を帯びた。

「殿下から伺ったんだ。龍の画を描くんだってね」

「はい。紙と氷の上で描けるように……と」

 玉蝶は巻物に目を落としながら言った。

 夜空を舞う白い龍の水墨画だ。製作者の名や落款はない。紙に染み込む墨汁の濃淡をすべて計算した上で、あえて紙の白さで龍を表現している作品に、目を奪われる。

 そんな玉蝶を見て珪雀は微笑んだ。

「参考の一つになればと思って持ってきたんだ」

「あ、ありがとうございます」

 玉蝶は巻物を受け取りながら言った。

 珪雀に付き添っていた宦官の玄氏の助言により、壁に画をかける。

 珪雀と同じ上背でありながら、体形は三倍はある巨体の玄氏は、公主家令の白氏を補佐する立場であり、白氏の療養中に代理を務めている。愛嬌のある顔つきと穏やかな声は、人懐っこい熊を思わせた。

「玉蝶。彼も玉鸞を知っているんだ」

 珪雀の紹介に、玉蝶が玄氏を見上げれば、玄氏は熊のような顔に照れくささを浮かべて頷いた。

「ご縁ありまして手前は、殿下と公子の前で玉鸞殿が舞を披露する機会にお仕えできました。天覧氷舞の当日は、こちらの宮中の留守居を務めておりましたゆえに、玉鸞殿の氷舞を見ることは能いませんでしたが」

 まこと麗しき兄上様ですな、と続けた玄氏の言葉に、玉蝶は一瞬だけ顔を曇らせた。

「玉蝶? なにかあった?」

「いいえ。なんでもありません」

 珪雀の案じる声に首を横に振った玉蝶は玄氏に向かって礼を述べる。

 珪雀はしばし思案気に玉蝶を見ると、玄氏に声をかけた。

「玉蝶と二人だけにしてくれる?」

「かしこまりました」

 玄氏は頷くと、部屋を出ていく。

 突如、二人だけになった玉蝶は緊張と不安を内心に隠して珪雀を見つめた。

「玉蝶。出会って間もない僕や殿下に、君の心を晒してくれというのが無茶だとわかっている。でも、僕も殿下も君に無理強いはさせたくないんだ」

「て、天覧氷舞に、私は絶対に出たいです!」

 玉蝶の不安を、天覧氷舞によるものと考えた珪雀の言葉に、玉蝶は急いで声を上げた。

「私は、私の意志で、天覧氷舞に出たいと思っています。殿下や公子のおかげで、兄を知る人たちともお話ができましたし。でも、でも! そうじゃなくて……!」

 玉蝶は己の視界がなぜ揺らいだのかわからなかった。

 水面を張ったように歪む眸を瞬けば頬が濡れる。鳴いている、と自覚した玉蝶は困惑と羞恥に襲われた。

 度重なる環境の変化が、今頃になって心身を襲ったのか。

(情けない! お前はそれでも雛妓なの?)

 内心で己を叱咤し、玉蝶は慌てて袖で両目を拭った。

 珪雀を見上げる、涙はこぼれない。玉蝶は雛妓として、帝国芸能界を担う身だからこそ、早くから己の感情を節制する術を叩きこまれている。

 雛妓が雛妓でいられるのは、子供の時分だけ。

 だから「子供らしい振る舞いをする」と。

 困惑顔の珪雀に、玉蝶は息を静かに吸いながら言った。 

「ただ、私が知っているあに様は、皆様が思うほど……見た目と同じぐらいに、心が綺麗だったわけじゃなくて。楽人として育てられていたから、外見は綺麗でしたけど、でも私には意地悪もするし、おやつを奪うし、たまに譲るしの、ごく普通の、兄だったんです」

「うん」

 頷く珪雀に、玉蝶は続けた。

「私は、兄のおまけなんです。刀子匠が兄に楽器や歌の稽古をつける隣で、私も兄の真似事をしていたから、兄妹まとめて音楽を教えられるようになって。今思えば六つも離れているんだから、兄みたいに楽器を扱えるわけないんですけど。でも、でも、私は!」

 自慢の兄は、いつまでも追いつかない好敵手で、憧れと嫉妬が常に玉蝶の奥底で渦巻いている。

 ――玉蝶は玉鸞にはなれないし、玉鸞のようにもなれない。玉鸞も望んではいなかった。

(……期待すら、あに様は私に持っていなかったのかも)

 兄のような人間にとって、諦めを知らず、ただ努力するしかない玉蝶の存在は、自らが立ち止まって振り返り、視界に入れる必要もなかっただろう。

「玉蝶……」

「でも、私は。あに様みたいに、私の踊りで見た人を笑顔にさせたかった。させたい、と望んで、今があるんです」

 宦官墓園にいる間に、宮中で生きてきた老宦官から読み書き算盤と、庶民の娘にしてはかなりの高等教育を受けた玉蝶は、世話を受ける宦官たちの伝で、教坊に戻らずに、裕福な商人や廟の麓に住む下級官吏の養女にならないかと誘われたことがある。

 そのうちのどれか一つに首を縦に振れば、今のように舞台に立てる保証もないのに辛い稽古に明け暮れる日々はなかっただろう。

「紅榴様のように発奮して、実際に兄と肩を並べられる実力がある人もいらっしゃいます。でも、私は! あに様みたいに人を楽しませたいと思ってしまったんです!!」

「……兄の弔いじゃなくて、自分のために天覧氷舞に出ることが、許せないの?」

 珪雀の問いに、玉蝶は頬を張られた気分で彼を見上げた。

「そうです。私は、兄のおかげで殿下や公子に尽力頂いているのに、でも自分が天覧氷舞の舞手の稽古に参加できるとなった瞬間、あに様のことが頭の中から消えるんです」

 玉蝶は再びあふれそうになる涙を、今度は零れ落ちる前に袖で拭った。

 珪雀はゆっくりと答えた。

「あのね、玉蝶。僕と殿下は、宦官は身近な存在で、彼らが僕らがいない場所で、どんな立居振舞をしているか、僕らは知っているよ。玉鸞は、まだ十二歳だったから、僕と殿下に舞を見せた後は、宜春院に早く戻りたいって顔だったし。長く顔を合わせると、普通に殿下や僕に言ってたしね」

「そうなの……ですか」

 公主とその従弟である公子に対して、一介の楽人見習いがとっていい態度ではない。

 他人の口から語られる、神聖さが増して虚像に近い兄とは異なる実態を、珪雀から聞かされて、玉蝶は別の意味で胸が痛くなった。

「愚兄が、どんだご無礼を……」

「いいよ。僕らは子供だったし、むしろ玉鸞のおかげで、楽人じゃなくても、自分も他人もいくつもの顔があるってわかったしね」

 だから、と珪雀は玉蝶の前で膝を折り、顔の高さを揃えた。

「君は君のために天覧氷舞に挑んでいいんだよ。玉鸞のため、僕や殿下のため、なんていうのは、おまけに過ぎない」

 僕は君の氷舞を見たい、と珪雀は続けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

龍を描く舞姫と後宮公子 あらま星樹 @arama_h04k1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ