第10話 雛、銀世界に己の龍を描くこと

 玉蝶ぎょくちょう巽宮そんぐうに戻ってきた。第三公主、紫晶ししょう殿下に仕える侍女たちに出迎えられ、夜番と交代した彼女たちと共に、夕食前に入浴することになる。

 使用人の浴堂よくどうに赴く。瑶鏡ようきょう殿でんと比べ、浴槽は大人数が一気に入れるくらいに広く、堂内の装飾も地味だ。そして基本は自分で自分の髪や身体を洗うのだが――。

「玉蝶ちゃん、髪の毛洗った?」

「まだです」

 着ていた服を脱衣籠に入れて、一糸まとわぬ姿の玉蝶が侍女たちに支給される海綿スポンジを持って浴堂に入ると、すぐに声がかけられた。

 濡れた髪を布で一つにまとめた壮年の女がすまなさそうな顔で立ている。

「今日もお願いしていいかしら?」

「もちろんです」

 玉蝶は髪の毛を洗う練習台だ。

 椅子に座った玉蝶の背後で、女が膝立ちになり手桶に入れたお湯をかける。

 洗髪中はおしゃべりをしたり、不遜にも高貴な方を相手と見なし、沈黙を貫く場合もあるため、後者だと今の玉蝶にとってありがたい。

 桃簾との対決は、氷球も氷舞も未消化のまま終わってしまって、なんだかすっきりしない。けれど御抱え楽官である翠輝と出会え、玉蝶も指導を受けられる機会を得た以上、いつまでも鬱陶しさを引きずってはいけない。

(……あの方は、どんな風にあに様に教えたのかしら)

 翠輝は、玉蝶の兄の指導役で、そして彼の養父は玉鸞の事件後に失職したという。さらには公主にその情報を伝えた宦官は何者かに襲われ、未だ復帰できていない。 

 玉蝶は、紫晶との会話を思い出していた。

 紫晶に仕える宦官、白氏は宦官墓園から巽宮に帰還する際、盗賊に襲われたという。

 被害者は白氏を含め、九人。全員、宦官だ。白氏以外の八名は駕籠担ぎの人足であるが、白氏を守る護衛も兼ねる。二人が落命し、三人が顔や手を斬られて重体。

 白氏もまた公主家令の地位に相応しく、武術の心得があり、残る三名とともに野盗と応戦しながら、最も近い宦官墓園に逃げ込んだが、足に怪我を負い、現在もかの地で療養中の身である。

 一般的に、親に我が子を見せることを孝徳の誉れとする帝国において、宮中ではない場所で宦官が被害者となっても泣き寝入りする場合が多い。

 しかし今回は、西方に嫁ぐ予定の第三公主の家令である。となれば、ただの物盗りではなく、降嫁に異議がある者たちの仕業も考えられた。

「本宮は、本宮の名誉と尊厳のために、白氏とその配下を救わねばならぬ」

 そう固く決意した公主の眸を、玉蝶は思い出す。



 湯浴みを終えて、夕食当番が呼びに来るまでの間、玉蝶は与えられた部屋の机に紙を銀盤に見立ててうなっていた。

(龍を描く。そして氷の上で、再現する)

 翠輝から与えられた課題を脳裏に蘇らせる。

「自身の想像を紙に表現し、そして身体に覚えさせてください。そのために頭で理解することが大切なのです」

 玉蝶も桃簾も、見習いゆえに、手本を真似ることを基礎として教えられる。

 そして御物たる龍は、先人たちが多く遺してくれた作品がある。

「でも、柱や花瓶の龍をそのまま描いても意味がないのよね」

 墨をすりながら玉蝶は独り言ちる。侍女たちのおかげで、髪は丁寧に乾き香油を塗られ、梳られて指通りがいい。その髪を慣れた手つきで頭頂部でまとめ布帛で覆っている。

 頭の中に浮かぶ図を形にすべく、玉蝶は筆を手に取り、紙に龍を描く。

 天蚕湖はその名の通り、繭型――楕円形の湖だ。長方形の紙を、長辺が上下になるように傾ける。紙の上が北、下が南、左右が東西と意識し、北に座す皇帝陛下からどのように氷舞が見えるか考える。

 画筆を紙の中央に運び、そこを起点に、龍の顔を描く。筆先に意識を集中させ、威厳に満ちた右向きの表情を描くと、そのまま筆を右上に向かって緩やかに動かした。鱗を持つ細長い身体を螺旋のようにして雄大に描く。

「まずは、一枚」

 次に二枚目の紙を用意する。中央に正面を向いた龍の顔を描き、とぐろを巻くように胴体を描き加える。

 三枚目、四枚目と、玉蝶は思い付く限りの龍を描いた。時には紙を縦にして、空へと真っ直ぐに延びる龍を描く。

 構図によって、完成図も、見る者に与える印象も異なる。

 一つ一つの動き――曲線を描くように滑ったり、助走をつけて跳んだり、回転したり――は、地上での舞稽古の必須項目でもある。

 けれど、足に布を巻いたり、舞踏鞋で床板を飛び跳ねるのと違い、氷舞は底に刃をつけた滑氷鞋で行うから、着地したときの足首や膝への負荷も異なるのだ。

「これを、氷の上で……」

 実際に身体を動かしてみないことには、脳裏で描いた龍を実際に銀盤で表現するのは難しいのではないか。

「そうだ!」


 

 翌日。玉蝶は宜春院の南、百戯館にいた。

「手袋、肘当て、膝当て、怪我防止の確認よぉし」

「あとはこいつを被れば完璧だ」

「お鍋?」

 両取っ手がついた半球型の鉄鍋を渡される。黒光りする鍋の内側には綿が入っているのか、分厚い赤布が貼られている。左右の取っ手には、鍋底を通るように内側の布と同じ色の長い紐が通されており、玉蝶は鍋を被らされた。

「玉蝶の頭に合う大きさがなかったんだよな」

「今調整中だから」

「今日のところはこいつで我慢してくれや。顎紐をしっかり結べば問題ないだろ」

 口々に言う百戯館の宦官に言われ、玉蝶は自ら顎下で紐をぎゅっと結んだ。鍋自体は、彼らが改造したのか、思ったより重たくないし、綿のおかげか不快感もない。

「ありがとうございます! 今日も広場、お借りしますね」

「いいってことよ」

 顎紐を結んだとはいえ、一抹の不安がある玉蝶は両手で鍋の縁を掴んだまま頭を下げる。

 鷹揚に頷く宦官の隣で、竹筒を玉蝶に渡す宦官が言った。

「こいつの感想も教えてくれよな」

「はい!」

 


 勝手知ったる百戯館の裏手の広場の中心に、玉蝶は立っていた。

 滑氷鞋ではなく、彼らが作ってくれた四輪付きを履いている。そして足首には先ほどの竹筒を巻いていた。竹筒の中身は墨汁、注ぎ口は下を向いている。

 玉蝶は想像する。

 空を優雅に偉大に舞う龍の姿を。その威風を氷上で表現する己を。

「やるわよ!」

 意を決した表情で、玉蝶は竹筒の蓋を外した。

 その場から弧を描くように滑った。龍の背中を表現している。

 小指よりも細い注ぎ口から墨汁が流れ落ち、混凝土の地面に黒い線を生み出した。

 兄の玉鸞が、そしてその前に天覧氷舞の舞手を務めた翠輝が、どのように観客を魅せたのか。あの場にいた者しか味わうことができなかった感動と同じか、それ以上の魅力を、玉蝶は提供しなくてならない。

 それが、舞台に出る者の義務だから。

 滑走に勢いをつけるため、両手は身体の後ろに流す。

(走りにくい!)

 玉蝶の腕より一回りはある竹筒を足首にくくりつけているせいか、いつもと違う感覚に襲われる。

 片足での旋回に備える。軸となる左足に力を流し、右足を前面に振り上げる。

 玉蝶の目算では、竹筒はとっくに空っぽになっているはずだった。

「あっ」

 小さな声が漏れる。己の両腕で抱きしめるように抑える右足の竹筒から、墨汁が水面を跳ね上がる魚のように飛び出てきた。

 けれど動きを止めてはならない。

 右足を降ろし、今度はその場で蹲るようにして独楽のごとく回転。同時に左の竹筒の蓋を外す。噴水のように流れる墨汁を視認する。

 左足に重心をずらす。龍の腹を描くように、背中の線と平行になるように滑る。

 キュッと爪先の滑り止めが高らかな音を立てて、玉蝶は止まった。

 肩で息をしながら、左右に目を走らせる。

「――できたわ!!」

 紙や板と異なり、混凝土に「足」で描いた龍の線は、乾いてない部分を玉蝶が走ったせいか、ところどころ無作法に歪んでいる。

 けれど、広場の端に移動し、全体を眺める玉蝶の目には、巨体をたなびかせる龍が映る。

 まだまだ改善すべき点はたくさんある、けれどまずは混凝土の上と言えど、己の腕ではなく、全身で龍を描けたことを誇りたい。

 百戯館の宦官たちがそんな玉蝶の様子を伺いにきたのか、広場にやって来ると、眸と口を丸くした。

「おお。龍だ、龍がいるっ!!」

「すっげぇや」

「消すのがもったいないぜ」

 感嘆の声を上げる宦官たちに、玉蝶も自然と笑顔を隠せない。頭の後ろに手をあて、鉄鍋の温かさに、陽の光だけではなく自分の体温も伝わったのかと驚く。

 しかし一部の宦官は浮かない顔で、玉蝶を手招いた。

「……あのよ、玉蝶。ちょっといいか?」

「はい、なんでしょうか」

「俺らが見ていたた時だと、玉蝶が広場をぐるぐる回ったり、ふらふら滑っているだけで、正直、見ててつまらんのよ」

「そうそう。いま、ここに来て玉蝶の作品を把握できたっていう」

「龍って、顔と胴体と手足で考えると、胴体の部分が一番時間を割くから、しょうがないかもしれんが……」

「――えっ」



「なんてこったい……!」

「まさか龍の顔を描いた後の動きが地味になるとは……」

「胴体から描くって言うのは、氷舞ではありなのか?」

「問題ありません」

 宦官の質問に玉蝶はできるだけ沈んだ声を出さないようにして答えた。

「龍の胴体から描くにしても、さっきみたいな動きだと、客も飽きちまうってことか」

「車輪付き鞋じゃ、跳躍は危険だ」

 石畳の地面では、車輪付きの鞋で着地した時に滑ったり転ぶ可能性が高い。そもそもただの地面を滑走する以外では使用しない。

「やっぱり滑氷場で練習しないと! 私、翠輝様と交渉してきます」

 勢い込んで百戯館を飛び出た玉蝶は、翠輝がいるであろう北の演舞館に向かう途中に、例の滑氷場を通り過ぎた。

「よう、ちんちくりん」

「紅榴様!?」

「人造湖を見に来たのか? 残念だったな、今日は使えないぜ」

 玉蝶が否定するより先に、紅榴は人造湖の畔に片膝をつくと、傍らに置いた桶を掴み、湖面を掬った。しゃり、じゃり、と音がして、液体ではないものの、完全に凍ったとは言いがたい程度の水が桶に入る。

 昨日今日と、風のない好天で過ごしやすい。

「全く翠輝様もお人が悪い。この天気じゃあ、滑氷場なんて作れねぇべ」

 玉蝶を侮っているのか、それともこれが素なのか、紅榴は麗しく典雅な楽人らしからぬ口振りだった。言葉を探す玉蝶の戸惑いを見てか、彼は気にした様子もなく続けた。

「太史局曰く、今週は晴れが続くってよ」

「そう、なんですか」

 晴れているのであれば、広場での練習は問題ないが、人造湖での練習は難しい。

 だから翠輝は、玉蝶たちに龍を描く練習をさせているのだろうか。

「あの、どうして紅榴様はこちらにいらっしゃるのですか?」

 紅榴と言えば、歌唱力と舞に秀でた宦官だ。あいにく教坊にいなかった玉蝶は、舞台での彼を直に見る機会より、人伝に語られる感動しか知らないが。

(一体どんな風に歌われるのかしら)

 観たい聴きたいと願っていても、楽人の芸才は舞台に駆けつけた観客に捧げられる。玉蝶のような見習いは先達の技芸を、日頃から側につくか舞台袖からじっくり観察する以外にない。

「今日は休憩する日だから。言っておくが、俺様は基本的に毎日予定が入っているからな、売れっ子だから!」

「ああ、はい」

 羨ましいなー、と玉蝶が半眼、棒読みで答えると、紅榴は演技の心得もあるのか「ひでぇ演技だな」とこき下ろした。

 立ち上がると、首を左右にこきこきと鳴らし、玉蝶を見下ろす。

「でもまあ、この前の舞は良かったぜ。客の視線をちゃあんと意識できてる。舞台経験がろくにないわりに、やるじゃねぇか。音楽担当の選考は間違えてると思うけど」

「あ、ありがとうございます」

 桃簾との氷舞対決について、紅榴から感想を聞かされ、玉蝶は頷いた。

「桃簾も旋回や三回転とか練習してるし、お前の演技はいい手本になったぜ」

「天覧氷舞に出るのは、まだ誰も決まっていません」

 鼻息も荒く玉蝶が言い返すと、紅榴は笑った。その後、真面目な顔つきになって玉蝶を見る。

「お前が言った通り、天覧氷舞に出るのが誰かはまだ決まってないがな。そもそも天覧氷舞だって、行われるかどうかわからないんだ。お前、それを知ってるのか?」

 天覧氷舞の舞台となる天蚕湖は、皇帝の渡御と観客が集まりやすいから、舞台に選ばれているだけで、極寒であっても天蚕湖が凍らなければ、そもそも天覧氷舞自体は開かれない。

 開かれる、と決まっていても直前に中止する可能性もある。

 そして舞手を志願した以上、他の舞の稽古と比べて骨折の可能性が高くなること、確実に開催される官宴と異なり、見通しが立たないことも含めて、根本的に志願者が少ないのだ。

「はい、存じております」

 だから玉蝶は、紅榴に向かって深く首肯した。

 玉蝶が天覧氷舞に挑む理由は、兄を弔うため、兄の死体を盗まれた手掛かりを探るため。ゆえに第三公主の尽力があって今がある。 

 そうした玉蝶の覚悟を受け取ったのか、紅榴は「そうか」と顎を引き、息を吐くと以前のような場末の破落戸、もとい近所に住む親切な顔のいい兄ちゃんのような表情で人造湖を見渡した。

「氷舞はなぁ……難しいんだよ」

「……と、仰いますと?」

 玉蝶は小首を傾げた。紅榴の「難しい」が技巧以外に向けられた気配を感じ取る。

「お前、故郷じゃどこでどんな風に滑ったよ?」

 横眼だけを向ける紅榴に玉蝶は答えた。

「えぇと、普通に凍った湖です」

「湖が凍るってこたぁ冬だな?」

「はい」

「氷舞は、披露する場所と時期が限られる。宮中のあっちこっちには川も池も湖もあるが、滑氷や氷舞ができるくらいに凍っているかの確認に手間暇がかかる。そしていざ氷舞ができるとなっても、客の足の確保が難しい。舞台会場に行くまでに、雪が残る森林を歩かせなきゃならんし、観ている分には温石を抱いてても寒いしな」

 春や夏、秋の夜に篝火で照らした野外舞台や客席を製作するほうが、費用対効果が優れているのだと言う。

「やる方も観る方も、大変なんだわ。氷舞ってのは」

「知りませんでした……」

「まっ、しょうがない。教坊じゃそういうのはまだ教えないもんな」

 舞台を運営するための、こうした知識は、教坊では成人してから学ぶ。ゆえに、ただ美しいだけ、歌えるだけ、楽器が弾けるだけでは許されない。

 兄の喪が明けた玉蝶は、宦官墓園で働いていたおかげか、同世代と比べて読み書きや算盤は群を抜いていたため「運営」を担当する部署に配属されかけたことがある。しかし姉貴分たちからは「舞台を知らない者が裏方でいいはずがない」という声があったために、年下の雛妓たちとともに群舞の練習に参加することになったのだ。

「天蚕湖は周りが原っぱで、一番近い宮殿から歩くわけよ」

 天蚕湖で行われる天覧氷舞は、銀盤に描いた龍と、全方位の客席から注目を浴びる舞手の動きが重要視される。

 どういう風の吹き回しか玉蝶にはわからないが、紅榴なりの忠言を頭に刻み込んで、自分の振り付けを改めて考える。

(顔、胴体、全体を描く動き。それでいてどの位置にいる観客をも魅了する動き……)

 百戯館の宦官が口にしていたように、胴体から描いて顔や手足を描く方法もある。銀盤で実現できるかは未知数――否、実現させるのだ。

 考え込む玉蝶に、紅榴は「じゃあな」と言ってその場を去ろうとする・

 玉蝶は顔を上げて、紅榴の背中に声をかけた。

「あの……! 紅榴様から見て、あに様はどんな人でしたか?」

 立ち止まり、玉蝶に振り向いた紅榴は、華やかな顔に明るい笑顔を浮かべて言った。

「この俺と隣に並んでいても問題のないツラ構えだな」

「外見じゃなくて」

「自分に厳しくて他人に無関心なやつ。あいつ、基本的に他人を信じてないというか、期待してないよな」

 玉蝶は眼を丸くした。

「あんだよ、その顔」

「……いえ。てっきり紅榴様は、あに様を盲目的に讃える方だとばかり」

「ハッ! 俺ぁアイツと同業者だぜ? 認めた相手の良いところも悪いところも、自分のものにする。それが芸能者よ」

 紅榴は表現者特有の自負に満ちた顔で言った。

「あいつが生きていたら、第二の翠輝様になっていたかもな」


 

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