第09話 雛、可憐な宦官と対決すること
二週間後の桃簾との「氷舞」での対決について、彼らに協力を願い出るためだ。
第三公主、
一つ目は、対決場所が宜春院であり、審査員が宦官であること。彼らは同胞とそれ以外を明確に分ける。ゆえに、玉蝶の協力者に宦官がいれば、審査員はともかく観客の心象は違うだろうと計算する。
二つ目は、音楽の専門家として訓練を受けている宮妓や玉蝶たち雛妓、そして楽人と異なり、宮女の演奏技術は嗜み程度であることが多く、さらに言えば、自身の近しい存在である主人の公主殿下に聞かせるのと、宮妓と同様の技能を持つ楽人相手に聞かせるのとでは、演奏者の心身の負担もかなり異なる。
三つ目は、演奏場所だ。今回の舞台は凍った湖で、すなわち屋外。室内と屋外では、音の響かせ方、残響が異なるため、音楽の心得がある宮妓や楽人であっても環境に合わせた演奏を披露するのは難しい。
そうした理由を、打算をも含めたうえで、玉蝶は百戯館の面々に頭を下げたのだが――。
百戯館に所属する宦官の多くは、実際のところ、百戯と呼ばれる雑技を披露する能力よりも、手先の器用さや動物の
「楽譜? 読めねェ!!」
「歌? 無理無理っ!!」
「楽器? おっ、修理か?」
任せろよ、と自前の工具箱に手を伸ばそうとした宦官に、玉蝶は丁重に断りを入れた。
半月の準備期間というのは、本人の練習だけではなく、舞台を作るすべて――楽師や衣装、小物作りに関わる他者の準備も含まれる。
桃簾に氷舞の練習をさせないことで、音楽や衣装関係者を集める玉蝶との不公平さをなくしているのだと、玉蝶は
以前、回転
「カァー、それにしても翠輝様も無理を仰る」
「今から楽師を用意しろつたってなぁ」
「
「演劇館は、一人で歌って踊れて楽器ができてつーのが何人かいるが、年末年始の宴の稽古で忙しい」
顔見知りとなった百戯館の面々の言葉に、玉蝶は頭を抱えた。
先ほど知り合った「あね様」たちが、紅榴や桃簾が属する舞楽館、つまりは舞や歌唱、演奏に秀でた楽人で、「あね様」たちは来月の頭に公演を控えているという。
そして演劇館に属する楽人たちは、役者に特化した者。こちらも百戯館の宦官が言ったように、己の舞台を控えており、玉蝶が助力を願うのは難しそうだった。
舞楽館や演劇館の宦官たちの舞台を彩る大道具、小道具、はては衣装から出演させる動物の育成、調教まで行う百戯館の面々は、ある意味で、自分自身が役者や演奏者として出演する舞台や宴はないため協力を申し出てくれたのだが、翠輝の前で披露する氷舞に相応しい音楽的能力については、絶望的だった。
「俺らも子供の頃は、琵琶やら笙やら習わされたんだけどなー」
「演奏も楽譜の読み方も、もう覚えてねぇわ」
「楽器は演奏するより、作ったり修理するほうが楽しいんだよな!」
「いいんだよ、俺らが歌えなくても、上手な奴ならここにはいっぱいいるからさ」
「それな! だから、百戯館にいるっていう」
「玉蝶は、演奏家の知り合い、誰かいないの?」
「いるには、いますが、予定が合わなくて……」
芸術に秀でた宦官を楽人として養成する宜春院と同じく、玉蝶がいた
(練習だけなら、
教坊で最も親しくしていた宮妓を思い出す玉蝶だが、楽器職人を務める彼女の祖父の元に最近採用された職人が、翠輝の養父だと判明した。
できるならば、避けたい。
はぁ、とため息を吐く玉蝶を見て、周りの宦官たちも項垂れた。
――いつまでも落ち込んでいても仕方がない。
玉蝶は、百戯館の裏手にある広場で氷舞の練習をすることにした。
宦官の一人に作ってもらった四輪を鞋底に取り付け、
滑氷と違うが、固められた地面を車輪つきの鞋底で滑るのも、なかなか楽しい。
同時並行で、舞台である人造湖を思い浮かべながら、自分がどんな氷舞を表現するか考える。
(……あの人造湖で……氷舞に相応しい、音楽、振り付け、衣装)
衣装については、当日までに自分で用意できる。髪型も化粧も、一人でどうにかできる。
振り付けはこれから考える。
問題はやっぱり音楽だ。どこの誰に、氷上で踊る玉蝶の演奏を頼めばいいのか。
音楽も振り付けも衣装も自由。
自由というのは難しい。歌にしろ演奏にしろ舞にしろ、表現というものは、他者が評価を下して完成する。
混乱する頭を落ち着けようと、玉蝶は歌いながら丸い広場を滑った。
「かっくにっ! カァックッニッ!! くぅぁあああくぅにぃ!!」
「どしたカ」
流行り歌の言葉を変えて口ずさむ玉蝶は、背後からかけられた声に飛び上がった。着地の際に、地面に押し付けられたつま先の滑り止めがキュッと鳴く。
振り返れば、見覚えのある明るい緑と茶色の巻き毛を持つ
女料理人の隣にいた同僚が首を傾げた。
「宮妓カ? 新しい歌と踊るデスカ?」
「いえ、歌と踊りじゃなくて……」
彼女たちの元まで、スゥーっと足を滑らせた玉蝶が答えようとすると、女料理人が口を開く。
「彼女は見習いダヨ」
「見習い……ああ、スウギ」
納得した表情の同僚に、女料理人はなおも続ける。
「観られてナンボ、練習してナンボの世界ネ」
玉蝶は女料理人に尋ねた。
「皆様は、どうして宜春院に?」
「料理シドーよ」
「指導?」
「ソウ。私タチの故郷の料理、ココの料理人に教エル」
大陸各地から集められた宦官たち、とくにこの宜春院では外見や各個人の舞台に上がる際の精神安定剤として、故郷の料理を求める場合があるという。
ゆえに宜春院で働く京師出身の厨師は、同胞のために各地域出身の厨師を招いては定期的に異邦の料理を饗するのだ。
女料理人の説明に、玉蝶の脳裏に稲妻が落ちた。
*
桃簾との再びの対決を迎えた、薄曇りの空が広がる当日。
――いよいよだわ。
玉蝶は意を決して宜春院に足を踏み入れた。時刻は日が昇って一刻が過ぎた頃。日の出と共に起床し、日の入りと共に臥床する雛妓には苦ではない。
「玉蝶。迎えに来たよ」
「皆さん。今日は、よろしくお願いします!」
出迎えに来た百戯館の宦官たちは、玉蝶同様に、手に手に中身がわからないように風呂敷で包んだ荷物を持っていた。
両腕で抱える者もいれば、背中に背負う者もおり、彼らに向かって玉蝶は深々と頭を下げる。
今日は玉蝶と桃簾のどちらかが選ばれる。
およそ二週間前。翠輝に見せる氷舞に必要な「音楽」の協力を、百戯館の宦官たちに求めた玉蝶は、彼らから承諾を得たものの、「いいの? 俺ら、音楽的才能はないから百戯館にいるんだけど?」と念押しされたが、構わないと答えた。必要な物品を用意し、彼らに曲の練習を頼み、同時に玉蝶は振り付けを考え、衣装を作った。
半月ぶりに訪れた人造湖の湖畔には、浅青色の長袍を纏う宦官たちがひしめいていた。黒に茶、金髪、赤毛を靡かせ、あるいは帛布で覆った彼らの中から玉蝶と百戯館の面々を見止めた紅榴が片手を上げながら近づく。頭頂部で結った髪の毛が赤獅子を思わせる。
「よう、ちんちくりん!」
「……私の名前はちんちくりんじゃありません!」
「お前なんて、ちんちくりんで十分だろうが。で、お前らの場所はあっちな」
ムッと顔をしかめる玉蝶を笑い飛ばした紅榴は、楽人たちの固まりが不自然に途切れた湖畔の一端を示した。人造湖は俯瞰すれば繭のごとき楕円形だ。湖を縁取る長く緩やかな弧を描く湖畔の半分を占める宦官たちの中に、桃簾がいた。黒い外套を纏う桃簾は、楽器を携えた楽人たちと話し合っており、残りの三方にすでに設置された長椅やその周りに敷物を敷いて陣取る宦官たちがいた。
桃簾と彼の楽団の隣に、ぽっかりと空間があって、そこが玉蝶たちの定位置だと紅榴が口にする。
(ここが、楽屋で舞台裏ね)
百戯館の宦官たちが荷解きをする間に、玉蝶は周囲に目を走らせた。
前面のみに客がいる舞台と違うのは、観客の人数と視点の多さだ。彼らの座席の分だけ役者を観る視線の角度が変わる。そして、この場にいる全員が宦官だ。
(……翠輝様を、信じていいの?)
顎先に突きつけられた鞭の柄の固さを思い出し、玉蝶は右手を首に当てた。
「翠輝様は?」
「これからいらっしゃるぞ。お忙しい方だからな。ちなみにどこのどいつが審査員かは、俺もここにいる連中も誰も知らない。だから、余計な心配はしなくていい」
玉蝶の問いに答えた紅榴を見れば、琥珀色の眸は心待ちにしていた玩具でようやく遊べる子供のような輝きだ。
紅榴の邪気のない視線が、楽人らしく玉蝶の上から下まで遠慮なく走り、首を傾げた。
「……お前、その恰好なのか?」
「はい」
玉蝶もまた桃簾同様、赤茶色の外套を羽織っており、下に着こんだ衣装は直前まで余人の目に触れないようにしていた。
紅榴が口にしたのは、自身の顔や髪型だろうと玉蝶は察する。
髪型は通常と変わらない、頭頂部で丸めただけの質素極まりないもの。華やかな簪や笄なんてない。
顔は白粉を叩き、唇に玉虫色の紅を挿しただけ。舞台役者の、それも主役にしては、質素極まりない。
けれど、そうした様子を、玉蝶の表現方法と受け止めたのか紅榴は、追及するのを辞めた。
玉蝶は桃簾にちらりと視線を送った。
頭の後ろで高く結い上げられた、陽光を紡いだような金髪は、二股に分けられた三つ編みで、青と緑の円筒でそれぞれ留められている。髪も髪飾りも内側から輝くような光を放っているように見えるのは、桃簾が持つ華やかな雰囲気によるものか。
自然と桃簾に眸がひきつけられる玉蝶は、彼と目が合った。互いに相手をにらみつけ、すぐに顔を逸らす。
(負けないわ……!)
意気込む玉蝶の耳に、わっと歓声が襲う。顔を上げれば、白銀の髪を緩やかに靡かせる翠輝と、彼の隣を忠臣のごとき顔で歩く白虎の碧嵐が優雅な足取りで湖畔に近づいてきた。
「翠輝様!」
声を上げた紅榴が小走りで翠輝に向かう。碧嵐が紅榴の膝にまとわりつく。
紅榴が翠輝になにごとか話しかけると、二人は玉蝶と桃簾、互いの楽団が控える湖畔に近づいた。楽団も観客も一様に息を潜め、翠輝が玉蝶と桃簾にかける言葉を待つ。
「支度は、整いましたか?」恐らく紅榴と似た疑問を抱いたのか、桃簾よりも長く、翠輝に頭の天辺から爪先まで見られた玉蝶は「はい!」と声を響かせた。
「私も、準備できています!」
負けじと玉蝶より一歩前に進み出た桃簾が声を張り上げた。翠輝は頷くだけに留め、腰に下げていた革の袋を桃簾に渡す。
恐縮した様子で受け取った桃簾は、胸を撫で下ろした表情で袋の中から刃を取り出した。鏡のように青白く輝く滑氷刃に、唇の両端をつり上げる桃簾が映る。
翠輝は玉蝶と、滑氷刃から顔を上げた桃簾にそれぞれ視線を投げた。
「順番を決めます。私が投げた硬貨の、表が出れば桃簾が先攻、裏が出れば玉蝶が先。あなた方の演技に観る価値がないと判断したら、観客の妨害を認めます。ですが、楽団の方々は、演奏中の相手方の邪魔をしないでください。発覚した時点で、妨害した方の負けです」
翠輝は二人と、その背後にいる楽団たちに向けて言った。朗々とした声には、有無を言わせない強さがある。
翠輝は懐から取り出した一枚の硬貨を、玉蝶と桃簾の眼前に近づけ順繰りに見せた。
「いきますよ」
翠輝が右の親指の爪に硬貨を置いて、そのまま垂直に跳ね上げた。落下する硬貨を左手で抑えつけるように右手甲で受け止めた翠輝の両手は、玉蝶や桃簾より目線が高い。ゆっくりと下ろされた翠輝の両手が離れ、玉蝶は息を呑んで硬貨を見つめた。
__先攻は、桃簾だった。
二人の発表順を決めた翠輝は、碧嵐と紅榴を伴って、反対側の湖畔に移動した。長椅に座る二人と、翠輝の足元に座り込む白虎を見つつ、玉蝶の意識は真横にいる桃簾たちに向けられる。
返却された滑氷刃を鞋底に取りつけ、心から嬉しそうな顔で滑氷鞋を履いた桃簾は、それだけで一枚の画になりそうだった。
(先攻は、有利)
もちろん玉蝶とて、帝国芸能界で生きてきた身。この手の審査試験で、先攻には先攻の、後攻には後攻の有利と不利が存在していることを理解している。
まっさらな銀盤と、他人の軌跡が既に描かれた銀盤の、どちらが滑氷に適しているか。
悔しさや、「翠輝が桃簾に有利な順番にしたのではないか」という邪念を、玉蝶は奥歯を強く噛むことで振り払う。もう玉蝶の舞台は本番直前で、足掻くならば、桃簾の演技を己の表現の糧にする貪欲さだけにしたい。
玉蝶の視線が、外套を脱いだ桃簾の両手に注がれる。
(……あれは、舞扇)
畳まれた扇子は桃簾の腕の半分。貴婦人が花顔や口元を隠すには大きく、舞台で用いるには「小さい」と分類される大きさだ。
桃簾の左右の手がそれぞれ持つ舞扇は、どちらも朱塗りの親骨の先端に、揺らめく焔のごとき彫刻が施されている。さらに焔を表すようにくり貫かれた部分には、赤、白、黒、青、黄の五色の細い紐が結ばれていた。
二対の五彩の紐は、閉じた扇子を封印するかのように要の部分まで丁寧に巻かれている。
桃簾が滑氷場の中央まで滑り、息を整える。
纏う衣装は秋の訪れを表現した黄金に輝く橙色で、桃簾の華奢な体格を表す胡服に黒い滑氷鞋。
人造湖を囲む宦官はほとんどが浅青の長袍ばかり。だから、凍りついた湖面の中央に立つ桃簾は誰よりも目立っていた。
桃簾は両腕を真横に広げて、空を仰ぎ、目を閉じる。
――観客たちの私語が止んだ。
舞台が始まる特有の空気が、役者と観客が互いに意識を揃えるような、ピリピリと肌に突き刺さる空気が広がる。
玉蝶は背筋を正して、桃簾を見た。
笙が鳴る。
桃簾は開眼すると同時に両腕を大きく旋回させた。五色の紐が空中に螺旋を描くように振りほどかれ、玉蝶は目を奪われた。
垂れた紐の先は、氷に触れるか触れないか。
楽師たちの手が止まった。音が消え、観客は息を呑んだ。その静寂を破壊するように、桃簾が鳥の羽ばたきにも似た音を立てて扇子を広げた。扇の面が水平から平行に緩やかに動き、玉蝶は初めて、桃簾の扇子を見た。
音楽が再び奏でられる。
桃簾の扇に記された文字を、玉蝶は見た。
右手には雷、左手には風の文字が踊る。
緩やかに流れる雲のごとき動きで、桃簾は氷上を滑った。蝶が舞うように、花びらが風に乗るように、滑らかな手の動きに合わせて、五色の紐も瑞鳥の尾のごとくたなびき、しかしどの紐の先端も氷に触れることはない。
(……これは〈
玉蝶は、桃簾の舞が何を示しているか、そしてその題名をも理解した。
吉祥の象徴の一つである瑞雲を表現する舞は、たくさんある。
例えば〈彩雲〉。これはは清らかな乙女が五色の領巾をそれぞれ携える群舞だ。
さらに桃簾が持つ舞扇は、古では皇帝に滞同した宦官が戦場で主君を鼓舞するために産み出し、勝利に導いたもの。
――ゆえに、楽人が、楽人のみが舞うことを許される、その舞の名は〈瑞雲〉そのもの。
舞扇の親骨に彫り込まれた炎は、瑞雲を現していたのだ。
演奏と舞が終わった。
余韻が消えるまで、桃簾は湖の中央で片膝をついて身を伏せたまま動かない。
その瞬間。風が吹いて雲が割れた。
秋から冬に近づく日差しが桃簾を照らし、陽光を紡いだような髪を輝かせる。
一流の表現者たれと育てられ、そして体現している観客たちは、今が己の感動を伝える瞬間だとばかりに手を叩いた
万雷の拍手が人造湖に轟く。
「素敵……」
玉蝶もまた観客として素直な気持ちで手を叩く。
脳裏には舞手が産み出した合計二十本の細長い紐が描く瑞雲が棚引いている。
(……あれ? でも桃簾の踊りは)
記憶を浚う。優美と調和を体現した桃簾の「次」ともなれば、玉蝶は否応なしに比較される。
であるならば――勝機は、あるかもしれない。
(これは氷舞だもの)
うっとりとした眼差しのまま、玉蝶の貪欲な部分が桃簾の演技を冷静に分析する。
玉蝶が木履から滑氷鞋に履き替え、外套を脱いでも、隣にいる桃簾の楽団から視線が向けられるだけだ。観客たちの話題と関心は桃簾の舞と、己が表現者であるために、彼の演技をどのように糧とし咀嚼するか、忘我の境地に至る表情ばかりで、誰も玉蝶が衣装を露にしたことなど気にも留めない。
玉蝶は銀盤の途中で桃簾とすれ違った。手ぶらの玉蝶を見て、桃簾が呆れた眼差しを向ける。
「小道具、貸してやろうか?」
「いらない」
「教坊にあるもんな」
「……素晴らしい〈瑞雲〉だったわね」
「!」
桃簾の視線が玉蝶の顔に穴を開けんばかりに突き刺さった。
玉蝶は臆することなく睨み返す。場外乱闘、上等だ。
ただ一度の舞台に出るために、常に研鑽し合うのが、
桃簾は氷舞の花形とも言える回転が少なかった。両膝を交差させ、緩やかに一回転する――もちろんこれだって技術力が求められるが――「氷舞」というより「〈瑞雲〉を銀盤で披露しただけ」に近い。
最も評価者は、翠輝と翠輝が無作為に選んだ宦官の誰か。しかも、評価基準は「天覧氷舞の舞手に相応しいか否か」というざっくりしたもの。
おまけに玉蝶と桃簾は同じ振り付けを演じてはいない。ゆえに審査の基準が、合否を決める条件が曖昧な状態。
だからこそ、玉蝶に勝機はある。
これは舞ではなく、「氷舞」の試合だ。
翠輝がこの宦官しかいない宜春院で、玉蝶と桃簾の氷舞を披露する機会を与えてくれたことに感謝する。
人は己の期待が裏切られたと感じれば落胆し、予想を外せば快楽をもたらす。
翠輝や紅榴と同世代の宦官は、直接にしろ間接にしろ、玉蝶の兄である玉鸞の氷舞を見ただろう。
玉鸞の氷舞と比べると桃簾は__と言いたげな観客もちらほら覗く。
(つまりこれは、いかに私が氷舞を実現できるかを見せればいいっ!)
玉蝶は湖の中央に立った。背後の湖畔には、百戯館の仲間が太鼓や小鼓、そして切り株から出来た俎や半球をくり貫いた鉄鍋、包丁、擂り粉木を携える。
好意的な眼差しもあれば、明らかに嘲る視線もある中、玉蝶は正面に座す翠輝を見つめた。
玉蝶は息を吸った。腿の横につけていた手をゆるりと上げて、頭上で三度、打ち鳴らす。
桃簾に拍手を送るという「前振り」のおかげか、玉蝶の合図は観客に十分に伝わった。
桃簾が用意した楽団と異なり、玉蝶の氷舞に演奏を提供する百戯館の面々は、楽器は大太鼓と小鼓だけで、他は馬鈴に俎にした切り株、半球型の鉄鍋、すりこ木とすり鉢と、音楽というより料理に使う道具が多い。
翠輝や紅榴、観客、そして桃簾とその仲間の楽人たちが、様々な感情をもって玉蝶を見つめた。
玉蝶は再び、頭上で手を叩いた。
パシンッと乾いた音が響き、それを合図に、百戯館の仲間たちが手にした撥やすりこ木、そして包丁を太鼓やすり鉢、俎にたたきつける。
――百戯館の面々は、申告通り、楽器演奏が苦手、というより興味を持つ人数が圧倒的に少なかった。
だから玉蝶は音の高低とか曲調とかよりも、百戯館の仲間には「音が出るもの」を前にして、一人一人に、撥や包丁を持ちあげる高さや太鼓を叩く回数を教えた。
だから桃簾の楽団や観客席にいるであろう演奏を主とする楽人が、玉蝶と百戯館の面々をじっくりと見れば、すぐに玉蝶の意図がわかっただろう。
百戯館の面々は、大太鼓を両腕に持った撥で勢いよく叩く宦官が一定の間をおいて、再び叩いたり。
小太鼓を担当する宦官が左右の手に持つ撥の先端が常に彼の肩と同じぐらいにしか上がっていないことや。
俎である切り株の前に陣取る宦官が一対の四角い包丁を持ったまま、ひたすら手首を小刻みに動かしていたり。
湖畔を縁取るように滑る玉蝶が背中に手を当てた瞬間だけ、すり鉢の縁をすりこ木で叩く宦官がいたり。
玉蝶の舞に合わせた音楽ではなく、玉蝶が音楽に合わせて滑っていることがわかるだろう。
(小手先だって、わかってる! でも……!)
〈瑞雲〉を披露した桃簾と比べて、かなり速い速度で玉蝶は人造湖を滑走した。
弓から放たれた矢のごとく、人造湖の右から左へと滑走し、湖畔を陣取る宦官たちの驚きに満ちた顔を間近で見る。
湖を縁取るように一周し、再び玉蝶が銀盤の中央に戻ってくる。
百戯館の仲間たちが一斉に己が手にする楽器を打ち鳴らした。
騎馬隊が敵地に乗り込むかのごとき打撃音が空に響く。
玉蝶はその場で独楽のように回転。そのまま動きを殺さずに、右足を軸に左足を白鳥の首のごとく高く持ち上げる。
回転が弱まった瞬間に、両手を蝶のように広げ、動きをぴたりと止める。
観客たちが固唾をのんで見守った。
玉蝶は舞台の端から端に移動するように、滑走。
空中で三回転。
着地した瞬間に、百戯館の宦官たちは演奏を止める。
小さな氷が弾け、玉蝶の足元を輝かせた。
――いける!
玉蝶は燕のように氷の上を走った、右足を軸にして跳ぶ。空中で回転、再び着氷に成功。すかさず左足を曲げ、右の爪先が真上を向いた状態で回転の勢いを緩めない。徐々に左足を伸ばし、そのまま三回目の三回転に挑もうと玉蝶が立ち上がった瞬間。
助走をつけようと下ろした左足と右足がぶつかり、縺れ合い、玉蝶は尻餅をついてしまう。
痛みに呻くより先に、尻餅をついたような演出として、氷舞を続けようと起き上がった玉蝶だが、翠輝の「そこまで」という声に、動きをぴたりと止めた。百戯館の仲間も音楽を止める。
(失敗した!)
直立したままの玉蝶だが、頭の中が真っ白になり、次にぐるぐると渦巻いた感情に襲われる。舞台では、たとえ失敗しても客に見破られないように、演技や舞を続ける、続けられる応用力も求められる。
けれど今は審査試験。できて当たり前の演技を、できなかったと審査員には見抜かれているし、観客の中にもまた同様の考えを持った者もいるだろう。
翠輝は湖畔から声を上げた。
「痛みの具合は?」
「問題ありません! 続けられます!!」
玉蝶は叫んだ。
しかし翠輝は、人形じみた顔に怒気を含ませて言い返す。
「貴女の身は、貴女だけのものではありません!」
「……ごめんなさい」
翠輝の言葉に、玉蝶は項垂れた。そんな玉蝶の様子に頓着せず、翠輝は長椅から立ち上がった。碧嵐が主人の膝に額をこすりつける。
「大体わかりました。二人とも、合格です。練習に出てください」
両肩を落とした玉蝶は、翠輝の言葉に顔を上げた。
(合格……? 二人とも……?)
審査員は翠輝を含めた奇数名と言っていたではないか。
玉蝶自身や桃簾の演舞を見ている間、翠輝は彼が選んだという宦官と話し合うそぶりなど一度もなかったし、隣に座る紅榴にも話しかけていなかった。
ただ純粋に、あるいは冷静に、玉蝶と桃簾の演舞を見て――観察していた。
玉蝶の背後から滑走音が聞こえた。滑氷鞋を履いた桃簾が玉蝶の隣まで滑ってくる。
「この勝負に勝ったほうが、天覧氷舞に出られるのでは!?」
「私は評価をつけると申しましたが、どちらかを天覧氷舞の舞手にするとは言っておりません」
「確かに……」
翠輝の言葉に玉蝶は頷いた。
翠輝はなおも続ける。
「あなた方の芸術に関する感性や行動力を知りたかったのです」
「そう……だったんですか」
安心したせいか、今になってお尻がじんじんと痛んでくる玉蝶だった。
桃簾は悔しそうな顔を一瞬だけ覗かせ、しかし翠輝に抗弁するつもりはないようだった。
玉蝶と桃簾は、翠輝に手招かれて彼の前まで足を進める。
湖の中心から湖畔という大差ない距離だったが、自然、どちらが早く翠輝の元にたどり着けるか競ってしまったのは、まだお互いに勝負をしている気分が抜けていないからだ。
「お疲れさん!」
翠輝の元に二人が到着すると紅榴が声をかけた。彼は湖畔にいる観客たちを帰らせようと声を上げて追い立てていく。
審査員たちの言葉は、玉蝶と桃簾だけに伝えるらしい。
湖畔に居残るのは、玉蝶と桃簾の演奏を務めてくれた楽人たちだけだ。
翠輝の元に二人の宦官が現れた。
審査員を務めた、と翠輝が簡潔に玉蝶と桃簾に紹介する。
審査員の一人は、骸骨を思わせる風貌の宦官、陶氏だった。
「陶先生!」
玉蝶が思わず声をあげると、翠輝がいぶかしむ目付きで隣に立つ陶氏に言った。
「……知り合いですか」
「いや知らぬ」
きっぱりと言い放つ陶氏に玉蝶の心がしゅんと萎んだ。
「……翠輝様よろしいですか? 我々、彼女と一度だけ会ったことがあります。それだけです」
陶氏の付き添いである宦官の一人が片手を挙げた。丁寧な口調から玉蝶は彼が陶氏と共にいて敷物を抱えていたことを思い出す。
はあ、と気のない返事をした翠輝を押しのけるように、陶氏は玉蝶――の隣に立つ桃簾の両手をがっしと掴んだ。
「素晴らしい舞だった! 古の御代、蒼冥帝を助けた軍師、開陽が浮かぶようだっ! 早速作品に取り掛かりたい!」
〈瑞雲〉の題材となった皇帝と宦官の名を上げた陶氏は、桃簾の腕をひたすら上下に動かしながら、感極まった様子で言った。三人の弟子たちが敷物を敷き、文机と文房四宝を用意する。
桃簾にひたすら謝意と感動を告げる陶氏は、玉蝶には眼もくれず、さっさと敷物に靴を脱いで上がり込むと、猛然とした勢いで筆を動かし始めた。
解放されて安心する桃簾の隣で玉蝶が叫ぶ。
「あの、私は……」
「シッ! 静かに!」
「今、先生が降りてきてるでしょ!」
「邪魔しないで!」
玉蝶が己を人差し指で指すと、陶氏の弟子の一人が人差し指を唇の前に当て、二人目と三人目が玉蝶が陶氏を妨害しないようにと両手を広げて、前を遮る。
「玉蝶、こちらへ」
翠輝の呆れた声で玉蝶は顔を上げた。
今度は矍鑠とした様子の禿頭の老宦官だ。宜春院出身を証明するように、老爺ながら面差しは整い、しわ一つない浅青色の長袍に赤い宝石がついた耳環や指輪が垢ぬけている。
「天覧氷舞にて、演奏を務める楽人の長です」
「お前が玉鸞の妹か」
老宦官の第一声に、玉蝶は「はい!」と大声で返事をした。
「あいつら……百戯館の連中には、楽器より道具で音を出すほうが楽しいのかもわからん。俎にすり鉢を叩く音……なるほど、確かに音と生活ぁ切っても切り離せねぇ。だが芸術っていうより、娯楽だな。天覧氷舞は、神舞。芸術にして儀式だ」
発想はいいけどな、と続ける老楽師の言葉に、玉蝶はしゅんと肩を落とした。
――およそ技芸の世界において、個性的というのは便利な言葉だ。結果が良ければ誉め言葉、悪ければ「突拍子もない、なんだかよくわからんものを見せられてて、感想を言うのが難しいし、考えるのが面倒」という意味である。
音楽や舞によって、人々を楽しませる、あるいは荘厳な空間を作り出すのが、宮妓や楽人の役目なのだ。
玉蝶は前者の側面が色濃いと判断されたのだ。
老楽師は桃簾の〈瑞雲〉を「まあいいんじゃねぇの? 俺、舞のことはわからねぇし」とおざなりに褒めると、演奏については楽人たち本人に告げると言って反対側の湖畔に移動した。
三人目と四人目の審査員は、浅青色の長袍に白い前掛けをつけた二人の宦官だった。どちらも年齢は紅榴と同じだろうか。
厨房の副長と副長補佐と紹介された二人は、素朴な顔に穏やかな性格がにじむ声で、玉蝶と桃簾の氷舞を讃えた。
「僕らは音楽や舞の専門家じゃないから」
「ただの客の感想だと思ってね」
そういった二人に、審査員たる資格があるのか疑問に感じた玉蝶だが、顔に出さなかった。
「見てて綺麗だったのは桃簾だね。楽しかったのは玉蝶。どうして〈瑞雲〉を選んだの?」
副長に問われ、桃簾はおずおずと答えた。三人目にして、まともな審査員に出会えて安堵する気配を玉蝶は感じた。
「天覧氷舞という神聖な儀式に、最も相応しいと感じたからです。演奏をお願いしたあに様たちも得意な曲でしたから……」
そうなんだ、と頷く副長の隣で、副長補佐の宦官が玉蝶に問う。
「俺、百戯館の連中が音楽やっているところを初めて見た……聞いたんだけど、あの曲を作ったのは君?」
「ええと……」
玉蝶は言葉に詰まった。百戯館の宦官たちには、音の回数や撥を振り上げる腕の高さを指導、もといお願いしても、あとはぶっつけ本番で、玉蝶が彼らが生み出す音楽に合わせて体を動かしていたのだ。
(旋回や跳躍の時は、合図を出したけど……)
ここぞという見せ場の時だけ、玉蝶が手を叩いたり、百戯館の面々に背中を向けたりなどをして、旋回や跳躍の時機を図ったのだ。
「いいねいいね! 適当にものを叩くだけって!」
「音楽ってなんなんだよ! 目に見えねぇものをどうやって表現するんだ!」
「笛とか琵琶とか、音の高さがどうとか言われてもわからねぇや。あとごめん覚える気がない」
「玉蝶、この太鼓、皮張り直していい? すんごい気になる」
「玉蝶が合図してよ。それを見て俎を叩くからさ!」
自己申告通りに、百戯館のあに様方は、音楽というものについて根本的な感性や興味が、玉蝶がいた教坊の面々と比べてかなりずれていたようだった。
彼らの協力あってこそと理解している玉蝶は、百戯館の仲間たちが当初から大いに上達した旨を伝えようとした。
その途端。
背後から、大太鼓の音が響いた。
何事かと振り向く玉蝶の目に、老楽師が百戯館の宦官が用意した太鼓の前に立ち、反対の手で撥を握っている。
「いいか! 音を出すときは、こう! トンッじゃなくてドンッだ!」
喝采を上げるのは、百戯館――ではなく、桃簾の仲間の楽人たちだった。
「玉蝶、玉蝶」
「あ、あに様?」
囁き声に玉蝶が顔を向ければ、いつのまにか反対の湖畔から移動したのか、百戯館の宦官の一人が内緒話をするように両手を口元に当てている。
「あのおじちゃん――楽師長ね。なんか俺らの演奏にご意見ご感想だけじゃなくて、ご指導したくてたまらないらしいから、俺ら逃げるね。相手の子の楽団員が変わってくれるっていうし」
「先生の講義なら、俺らより舞楽館の連中がタメになるよなぁ」
「楽器や道具は後で回収するって紅榴に言っておいて」
「そいじゃお疲れさん!」
口々に玉蝶に言いたいことを告げた百戯館の宦官たちは、老楽師の視界に入らないように、速やかに人造湖から離れていく。
ちなみに老楽師を囲む桃簾の楽団員たちに向かって、陶氏の電子の一人が「先生ぐぁー! 執筆! なさってる! でしょうぐぁあああー!」と絶叫しながら近づいていくが、はたして老楽師たちの耳に入ったのかは不明だ。
厨房勤めの二人の宦官たちも言った。
「俺らもそろそろ厨房に戻らなきゃ」
「翠輝様よろしいですか?」
「ええ。今日は審査員をお引き受けいただき、ありがとうございました」
翠輝の言葉に、二人は会釈してその場を去る。
桃簾が二人の背中に向けて「ありがとうございました!」と頭を下げるのを見て、玉蝶も慌てて真似をした。
ふぅ、と一息ついた感覚に襲われるが、まだ玉蝶と桃簾にはやらなくてはいけないことがある。
二人の視線を受け止めた翠輝は、淡い緑の眸で見つめ返した。
「あなた方に課題を与えます。一週間後に、一、手本を見ないで龍を紙に描けること。二、その龍を描くように銀盤で表現してください」
「……その二つで、よろしいのですか?」
桃簾が探るような視線で翠輝を見上げた。書画は宮廷人のたしなみの一つだ。だから雛妓のうちから習字や画の技法を学ぶ。桃簾の呆気に取られた表情を見るに、楽人も同様らしい。
(私たちは、帝国の芸能者)
龍を手本なしに描くことも、さらに滑氷鞋で氷上で描くことも、不可能ではない。けれど、その条件を満たしていたら、天覧氷舞への参加者はもっと増えてもいいはず。たとえ骨折の危険性があったとしても、だ。
「龍は、どのような構図でも構いません。あなた方が描いた龍を、銀盤に生みだすです」
「課題に合格した者が、天覧氷舞に出られるのですか!?」
桃簾の問いに、翠輝は頭を振った。
「合格者は、あなた方のどちらかではありません。二人受かれば、二人に教えます。あってはなりませんが万が一に備え、当日の代役も必要ですから」
「そう……なのですか」
玉蝶は声を上げた。であるならば、なにゆえこんな対決などをしたのか。
翠輝と目が合って、玉蝶の心臓が跳ね上がった。
「先ほども申し上げた通り。私はあなた方の芸術に関する感性や行動力を知りたかった。楽師長は天覧氷舞にて、楽団の長を務めます。団員はこれから募集があり、審査試験があります。百戯館はともかく、桃簾の演奏を担当した者たちも、天覧氷舞に参加するかしないかが決まるでしょう」
演奏がどこの誰によるものであっても、舞手は十全に舞を披露できるか。
舞手が主役ゆえに、音楽を饗する演奏者を見下さないか。
そうした諸々を確かめたかったと翠輝は語る。納得した表情を浮かべる玉蝶と桃簾に、翠輝は続けた。
「氷舞は膝や足首を痛めやすいです。ですから半月に一度、医官に診てもらいます。もちろん、診察以外に違和感、痛みがあれば速やかに申し出てください。貴方たち個人の我慢や羞恥は、帝国芸能界にはなんの意味もありませんから」
帝国芸能文化の礎となるのであれば、技芸で――というのが、翠輝の信条のようだ。
――これで、玉蝶は天覧氷舞への参加が、認められた。
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