ひとことでいえば「凄いものを読んだ」という感想(身もふたもないな)。
初めは、それぞれ事情を抱え、葛藤して迷いながらのキャンパスライフを描く青春小説を読んでいたはずが、読み進めるうちに「一体俺は何を読んでいるのだ?」と、我に帰らざるを得ない状況に困惑する。
それは「予想を裏切る展開」というお決まりのフレーズではなく「別の何かが侵食してくる」というような感じ。
物語の様相がガラリと変わるというよりは、じわじわと気がつかないうちに姿を変え、変わったものは自分の望んでいたものではないのにそこから抜け出られない。
中盤を職場の昼休憩に読んだのだが、あまりに引き摺りこまれすぎて、休憩後にデスクに戻ってもしばらく現実との境目がわからなかった。
で、じゃあ引き摺り込まれすぎないように、と少し読むのを控えていると、頭の中で読み進めたまでの場面がループし、先を読まずにはいられない。
読了した今、ようやく一旦解放されたような感覚がある。
とにかく凄いものを読んだ。
そして熊本くんやみのりちゃんが(そして“奴ら“もだ)、自分の生きるこの世界の地続きに存在しているのではないか、と思わせられる。いつでもそれは僕らの身近にひそんでいるのだ。そんな気にさせる小説。
まだお読みでない方は、ぜひ一度10話まで読んでみてください。
続きが気になったら20話まで。
21話からも物語に入り込めたら最後までどうぞ。
きっと最後まで読んで良かった、と思えます。
この小説を読んで、表現するべき言葉に随分と悩みました。
今回、書籍化に併せてカクヨム版も再読をしましたのでそろそろ言葉をひねるべきだろうと。
しかしこれが難しい。
カクヨムコンを勝ち抜き、大賞を勝ち取った本作は寸評をして『きもちわるい』と表現されています。
その気持ちは大いに分かる。読めば凄みに圧倒され、在野に潜むには巨大すぎる才能を感じますが、余りに偽悪的で自分の言葉で語ろうとすると喉に詰まって言葉を塞いでしまうのです。
表現するには余りに難しく、しかし間違いなく面白い。
いずれにせよ私が初めてキタハラという鮮烈な才能を知ってから、ずっと持ち続けている強烈な嫉妬心はやはり間違えていなかったのだなと胸をなで下ろす次第です。
私はキタハラさんの小説が大好きです。
人って面白い
とても面白い。
大変参考になり、刺激を受けました。
有難うございます。
何が驚くって、面白さとランキングがまったく関係ないことでしょう。
レビュー少ない、コメント少ない、フォロワー少ない。
実に驚くべきことです。
内容に関係ないランキング。
では、それは一体何を計測しているのでしょうか?
ランキングの有害性をまざまざと見せつけてくれる作品です。
ええ、それでいてキャラクター文芸部門 大賞。
賞って大事ですねと、これでもかとばかりに教えてくれます。
読みそびれたこと間違いなしです。
それと表紙なんですけど。
イラストがとても清潔感あふれていて。
ドバン!と
そこに熊本君が半裸で登場(なぜ全裸ではないのか?)
(二人共全裸の方が合っているような気がしないでもありません)。
はさておき。
しかも横向き。
さらに本を読んでいる。
その上で立ち読み。
止めは背中合わせという。
それでみのりはこちらを覗いてる。
意味込めまくりです。
そう、半裸で読書。熊本君は熱中してますね。
わかります。
その本。
滅茶苦茶面白い。そのタイトル名は。
「キタハラさんの本棚」
この作品の書きたいことは何だろう?
序盤はみのり視点で、「外から熊本くん」を見ている。
後半は、目次からわかる通り。熊本くんの書いた小説の主人公視点で読者の視点。
みのりが読んでいる。読者も読んでいる。三重の視点が絡みに絡む。
その上、作者の視点、思惑、衝動。二人の作者は端的に対立します。
だってそうでしょう?
そもそも生まれが違う、目的が違う、想定する読者が違う。
住んでいる世界までもが違ってる。
ある一点を除いて何もかもが違うと言っておよそ過言ではなく。
だけれども、好き勝ってに操っては全てが台無し。無粋であります。
なんと言っても、彼が書く、そこに意義が詰まっているのですから。
本来は作品も運命も作者の思うがまま。
であるはずだ。だがしかし?なにがどうして。そうはいかない。
つまり、書けないものを書いている。
書けないものを書く、それが作家の本領にして真髄、妙味。
作り話。全ては嘘であっても。
真実にするのはそれの細部に宿るもの。
神であるのか悪魔かもしれない、幻の想いは。見える人にしか見えないでしょう。
読者と作家。果たして読まれない作品は作品なのかというテーマも見え隠れしています。
みのりは決定的な存在でした。彼女だけは、ただの読者ではない。
読むという行為自体が、大きな謎を秘めている。玄妙そのもの。どこまでも深い。
・・・・・・作家と読者はどこかで繋がっている。
おそらくは。届く、ということ。
ところで。
熊本くんは小説を書いてますが、その中に登場する熊本くんも小説を書いている。
小説の中の小説の中の小説にも熊本くんが登場します。
そう、小説を書かない熊本くんは、熊本くんではないとでも言いたげで。
熊本くんを書いているのは、どこまで行っても熊本くんなのでした。
それは。無数の小説、無数の本棚。貫いて。
そうしてそれはあらゆるすべてのあらゆるすべてへ・・・
ここまで言えば言いたいことはただひとつ。
そうなると、問題は。
あの結末・・・
書きたいことがいくらでも続々湧き出てくるけれど。
それを全部書くわけにもいきません。
困りました。いくらでも深読みできる作品が大好きなので。
例えば「ゲイ」の意味とか。「ゲンジツ」「まつり」「みのり」等々。
読み終わらないから楽しい。
批評とは自己理解であり。理解するとは自己を解体することにある。
謎は謎のままであるから美しい。
理解の残骸になるなかれ。
理解とは区別すること。
偽から真を区別する。
切れぬもの無き、理念の刃。
だから切ってはいけないものまで切れてしまうのでした。
闇を切り裂き光を照らす。
しかし。
切らなければ。見えないものは、見てはいけないのだ。
本は心で読むものだから。
さらりと入り込める導入で読み進めるうちにいつの間にか底の見えない沼の中にいる、そんな物凄い吸引力のある作品でした。
登場人物がことごとく闇の中にいて、明確に説明されるまでもなくそれぞれの苦しさが読み手に伝わってきます。
均一した重たい緊張感がずっと続いて行くようなさま、読み手にも同じ緊張感を強いられているような心地になりますが、これが本書を読む快感になり思わず次のページに進んでいます。
少年のうちに理不尽な呪いを受けた熊本君が色んな人間との関わりの中でもがきながらいかにその呪縛と向かい合うのか。
物語の内容の凄まじさと裏腹に、腹の底のドロドロとしたものが淡々と論理的に語られる温度差の妙、そして人間の内面を感情的になることなくここまで綿密に赤裸々に描かれる筆致に敬意を感じます。
「熊本君の小説」からがおそらく本題といえるのでしょうが、「わたし」の章の中で語られることが全て伏線となって回収されていく面白さもあり、物語自体の娯楽性も素晴らしいです。
とにかく読んでよかったと思いました。
読み応えのある作品をありがとうございました。
突拍子もないタイトルですみません。
3年程前当サイトで拝読しておりましたが、とある本屋で文庫本として出版されている本作がふと目に留まりました。売れているのでしょうか。多分女性が手に取ることが多いのでしょうが…。
単行本の表紙のイメージからはまるで予想出来ないようなストーリーです。
重く理不尽かつ悲劇的。
しかし不思議なことに読後しばらく残っていた本作の残像はそのような重々しいものではありませんでした。
2丁目の公園で微笑む少年、光り輝く歌舞伎町のネオンの路地裏で裸足でくつろぐダンサー、雑踏の靖国通りを手を繋ぎ駆け抜ける2人、爆音と煌びやかなスポットライトが照らすステージから駆け下りるタクミ、先生の腕をつかみ走り出す熊本君…。
自らの生を、性を、自分らしく生きようとした若者たち、汗と力強い肉体、その息遣いがリアリティーと幻想的な色彩感の中で活き活きと脳内に残り続けました。
本当に表現するのが難しい作品なのですが、その独特な読後感はアメリカンニューシネマを見終わった後の印象と親和性があると言えるかな、ああそんな感じだ、と最近気付いた次第です。
鮮やかで力強い若者たちの生への力感、幻想性、そして理不尽な悲劇。その光と影。
イージーライダー。
本作共々名作だと思います。