第四話  夕焼けセラピー

 ゆきしたに案内されたモスグリーンの雑居ビルは、風涙ふうるが何度も登り降りした坂道の中途にあった。迷子のようにウロウロする自分の姿を、雪ノ下に見られていたのかも知れないと思うと耳が熱くなる。


 四階でエレベーターの扉が開くと、目の前に深緑色の扉があった。白い陶器のプレートには「Therapie Abendrot」と金文字で記されている。


「素敵ですね。なんとお読みするんですか?」


 風涙がその文字を指をさすと、雪ノ下がにこやかに答えた。


「テラピー アーベントロート。ドイツ語でアーベントロートは夕焼けのことです。――ようこそ。夕焼けセラピーへ」


 扉を開けて風涙を招き入れると、雪ノ下はさり気なくドアストッパーを挟んだ。




 カウンセリングルームに飾られた夕焼けの絵に、風涙は息を飲んだ。

 一面の壁を覆うほど大きな絵だったが、不思議に圧迫感がなかった。

 絵ではなくて、夕陽そのものを眺めているようだった。


「なんてきれいなんでしょう」


 絵の前に立ちつくした風涙はため息をもらした。


「ありがとうございます。ね、ちょっと良いでしょう?」


 雪ノ下が頬笑みかけたが、すっかり絵に見とれている風涙は気づかなかった。


「夕凪の浜辺で潮風に吹かれているみたいです」


「うれしいことを言ってくれますね。さあ、どうぞ坐ってください」


 夕焼けの絵と向かい合って置かれたソファーに風涙が坐ると、雪ノ下がほうじ茶を淹れてくれた。そして自分も腰をおろしてほうじ茶を啜る。

 カウンセリングルームは、甘やかなほうじ茶の香りに包まれた。


 こんなにくつろいだ気分になれたのは何ヶ月ぶりだろう。

 昔からこの部屋に通っているような居心地の良さに包まれながら、風涙は薄桃色の萩焼きの湯飲みを手に取った。


「実は、数日前から舘花たちばなさんの姿をお見かけしていたんです。――そこの窓から」


 雪ノ下の何気ない言葉に風涙がまたたきをする。やはりそうかと思ったが、もう気恥ずかしさは感じなかった。


「何かお探しなのかなと思っていたのですが――?」


「ラーメン屋を探していたんです。――かつお出汁だしの」 


 素直に答えている自分がどこか不思議だった。


「ほお。いいですね。鰹出汁ですか?」


 雪ノ下は穏やかに応じる。


「わたしの叔父が、若い頃に通っていたラーメン屋なんですけど」


 風涙は目を伏せた。その先を言葉にするのが辛かった。

 そのとき絵の中の夕陽がきらきらと照り映えて、うつむく風涙の頬を朱く染めた。

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