第五話  思い出の味

 叔父は「ふうちゃん」と姪を呼び、姪は「さとちゃん」と叔父を呼んだ。


 久賀くがさとしは、風涙ふうるの母の末の弟である。

 両親が自分たちの弟を「さとちゃん」と呼ぶ影響で、風涙も子どもの頃から叔父を「さとちゃん」と呼んでいたら、そのまま定着してしまった。いまさら「叔父さん」と呼べないままに今日に至っている。


 まだ学生の頃から、暁は母親代わりの姉の家に遊びに来ては、小さな姪と遊んでくれたから、一人っ子の風涙には優しい兄のような存在だった。仕事一途な暁は四十路に至っても独り身だったので、三ヶ月前、突然に体調を崩して入院してからは、風涙と母が病院に通った。


 あれは、風涙が一人で叔父の病室を見舞った日のことだった。


「昨日はあんまり暇なんで、都内の地図を見てたんだけどさ」


 病室は四人部屋だったが、暁のベッドは窓側だったから、仕切りのカーテンを引いてしまえば、わずかながら開放感があった。


「さとちゃん、そんなに暇だったんだ」


 風涙が吹き出すと暁も顔をほころばせた。笑った目元が母によく似ている。


「いろいろ思い出してたんだよ。昔、南青山に旨いラーメン屋があってさ。あれは旨かったんだよなあ。今でもあるのかな。鰹出汁で取ったスープなんだけどね、あっさりしていてコクがあるんだ。旨いラーメンは匂いで分かるよな」


「それ、なんてお店?」


 暁は眉をしかめて首を振った。


「思い出せない。たしか漢字三文字だった。場所は覚えてるんだけど――」


「和風ラーメンね? 探してみるよ。テイクアウトあったら買って来るね!」


「いやいや。ラーメンはまだムリだ。退院したら、つき合ってくれよ」


 すっかり痩せてしまった叔父が、骨張った背中をベッドにもたせかけて笑った。


「実は、そこのラーメン屋にはちょっと甘酸っぱい思い出があってさ」


「なにそれ? さとちゃんの恋バナ?」


 風涙は目を輝かせて身を乗り出した。


「いや。恋までは行ってないと思うけれども、どうなんだろうか?」


「知らないよっ! めんどくさいなっ!」


「すまん」と暁はすっかり寝癖の固定した後頭部を掻いた。


「その頃、同じ研究室に賢く凛々しい姫君のような女の子がいてさ。彼女の実家が南青山だったんだよ」


「おおー! それで?」


「たまにゼミが長引いて遅くなった時に、何度か家まで送っていったわけさ。それで彼女を送り届けた帰り道に、そのラーメン屋で晩飯を食べたんだよ」


「二人で?」


「いや、一人で」


「ダメじゃん!」


「そんなこと言われても……」


「で、その子とはどうなったの?」


「とくには」


「一人ラーメン食べただけっ?」


「まことに面目ない」


 叔父が寝癖の頭を下げる。


「さとちゃん、その子の住所も教えなさいよ!」


「さすがにそこまでは覚えていない。既に子どもが三人いるとは聞いてるが」


「その間、アンタは何やってたんだ!」


「えっと、職場で研究してました」


 勤勉な叔父は、博物館で主任学芸員を務めていた。


「ダメじゃん!」


 風涙はこんな叔父がたまらなく愛しいと思った。

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