第二話  消えた匂い

 注文したオムライスを一気食いした風涙ふうるは、サービスの珈琲を飲み干す間ももどかしく、カフェから外へ飛びだした。


  だ浅い空を見上げ、猟犬ビーグルのように匂いを嗅ぐ。

 レンブラント光線と呼ばれる雲間から差す光芒こうぼうに、路傍のハクモクレンが花芽のキャンドルを捧げていた。風に揺れるミモザが路地に黄色い花びらを散らしている。

 冷たい東風はいたずらに鼻先を冷やすばかりで、ラーメンの匂いを乗せては来なかった。


「どうして? さっきはあんなに匂ってたのに――」


 コートのポケットを探って、消印のある絵葉書を取り出すと、そこに描かれた地図を子細しさいに眺めた。


「うん。やっぱりこの道だよね」


 ひとり頷くと、風涙はくだんの坂道を登りはじめた。

 勾配の急な坂はくねくねと曲がり、道の左右には色も形もアートな外観の建物が軒を並べている。まるでオモチャの街のようだ。

 凝った意匠の看板をひとつずつ確かめながら歩いていくと、細い脇道や行き止まりが妙に多かった。行きつ戻りつしているうちに、風涙はいつしか迷子になった気分がした。


 道行く人は皆、コートの前を合わせているというのに、風涙はひとり白い額に汗を浮かべていた。襟元に巻いたスヌードはとっくに外している。


 ――どうして見つからないんだろう。ほんの500メートル足らずの坂道だというのに。


 手汗で湿った絵葉書と周囲の景色を見比べ、風涙は子どものように唇を尖らせる。

 気づけば、休憩時間が終了していた。



 次の日もその翌日も、風涙はラーメン屋を探した。

 その坂道でラーメン屋は数軒見かけたが、どれも鰹出汁のラーメンではなかった。


 ネットで検索をかけてもヒットしないところを見ると、目当ての店は既に閉店してしまったのだろう。なにしろ四半世紀も昔の話だから。

 それでも潔く諦めきれないのは、初日の鰹出汁の匂いが忘れられなかったからだ。


「あれって、気のせいだったのかなあ」


 木曜日。今日で四日目。風涙はお馴染みのカフェにやってきていた。

 カウンター席のすみっこで、雑誌を眺めながら不本意なカレーピラフをもそもそと食べていると、隣の椅子を引いて誰かが腰をおろす気配がした。


 雑誌で区切られた視界の隅に、黒織部くろおりべの湯飲みが置かれた。


 ――ええっ? 黒織部?


 若い風涙になぜか茶器の知識があるのは、骨董の好きな叔父の影響だった。

 戦国時代の代表的茶人、古田織部の逸品を模した器をマイカップにして持ち歩くのはいったい何者だろう。風涙は黒織部の持ち主をそっと盗み見た。


「こんにちは――」


 思いがけず、相手が気さくに話しかけてきた。

 見覚えのある青年が、はにかんだ頬笑みを浮かべている。


「失敬。ここのカフェでときどきお見かけするものだから」


「ああ、あのときの!」


 ドアを押さえてくれたお洒落で親切な人だ。今日は黒っぽいつむぎあわせを着ている。青みがかった灰色の半襟が渋かった。

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