僕の中には、化け狐が棲んでいる。

「一年経った今でも思い出すの。なんだったんだろうって」

 瑞透は対向から来る人の流れを避けながら、頷いた。


 アスファルトからたちあがる熱気が、行き場を失ったかのように滞留している。

 街頭テレビジョンの音と、さざめくような無数の人の話し声と、それからそこにたくさん在る人工物の音なき音とで、渋谷は今日も氾濫している。



「瑞透が拝殿に入っていって、急に天気が荒れて、もう風がすごくて飛ばされるかと思って皆で寄り添って、それから……目が覚めたら朝。しかも皆で倒れてたなんて」

「そうだね」と答えて、瑞透は隣を見下ろした。


 春陽が遠い目をして考えこんでいる。

 肩で揃えた黒髪が誰かに遊ばれたようにかすかに揺れて、瑞透は微笑むとその髪に触れた。


「え? なに?」

「ううん」頭を振って、不思議そうに瑞透をみあげてくるキラキラした目を穏やかに見返した。


 春陽がかすかに頬を染めたのを鋭く見つけ、左手で繋いでいる春陽の指をなぞるようにして恋人繋ぎに変えると、少しだけ力をこめた。


「み、皆、もう来てるかな?」

「うん、来てる。さっき揃ったってメッセージきてた」


 耳まで真っ赤になった春陽をたまらなくかわいいと思いながら、瑞透は渋谷の通りから一歩入った。

 前方に、カフェの前でたむろする制服姿の一群を見つける。


 理人たちだ。


「あ、久しぶりー。あれ、室戸くんもいる」


 理人が、軽く手をあげた。

 室戸が丸眼鏡の奥の目を細めて、軽く頭を下げた。

 そして、いつもの友人たちがてんでに顔をあげた。


 でも、そこにいてほしかったもう一人は、いない。


 プロサッカーを目指し、陽に焼けて眩しいほどの笑顔を見せた友人の一人が。

 高一の夏、瑞透の田舎に遊びに来て、そのまま姿を消した武士。


 警察の手で古宇里山を大規模捜索しても見つからず、一年経った今でも、彼の行方は杳として知れない。


 瑞透は、この一年で二十センチ弱も身長が伸びた。

 出会った時には同じくらいだった春陽を、今は見下ろすほどになり、白彦の身長に追いつくのも目の前だ。


 そしてなにより、心臓に抱えていた病気が良くなる兆候を見せていた。


「皆揃って……ないか」


 春陽の憂えた声に、理人たちの視線が地面に落ちた。

 瑞透は慰めるように繋ぐ手をやんわり握りしめた。それに気づいた春陽が微笑んで、気をとりなおすように言った。


「また、瑞透の田舎に行くんでしょう?」

「武士がいなくなって一年経つけど、普段は長く滞在できないからね。でも夏休みなら時間の融通効くし、まだ武士のご両親も諦めてない。向こうに行って、少しでも手がかり見つけられんなら、って思うから」

「けど、林間学校はもうやらないんだよな? 瑞透」

「たぶんね。本家の……というか、大伯父のショック、大きかったから。林間学校に送り出す親御さんの気持ちを考えると、もう受け入れるのはやめようかって」

「そりゃそうだよな……」

「でも普通に遊びに来てくれるのは大歓迎だって言ってた。それに、新太も来る」

「新太くん、会いたいなあ。それに瑞透の家族にも会いたいし」

「あ、何、もしかして結婚の挨拶とか?」

「ちょっと、何言ってるの、まだ学生です!」

「あ、結婚そのものは否定しないんだ?」

「違う! もう瑞葉ちゃん一歳になるから! ほらプレゼントもしたいし!」

「そっか、誕生日。何かあげるなら、僕も参加できないですか?」


 室戸の遠慮気味な申し出に、春陽が喜びの声をあげた。


 武士が行方不明となり、その捜索が佳境の中で、皐月は予定日より一ヶ月早く妹を産んだ。

 早産で不安はあったものの、あふれんばかりの命の輝きを見せつけるかのように、妹は元気な産声をあげた。

 産まれたての妹に初めて会った時、瑞透が聞いた赤子の声は一度聞いたことのあるものだった。



「そろそろ中に入ろう。相談はじめないと」理人がカフェの重そうな扉を開けた。


 瑞透も店内に足を踏み入れかけ、ふと背後を振り返った。


 路地の向こう、雑居ビルとビルの薄汚れた隙間近くに、歪に形を変え続ける黒い塊があった。

 何かを待つかのように、凝った闇の姿で呼吸しているようだった。



 それをじっと見つめていた瑞透の瞳孔が不意に細くなり、虹彩が鮮やかな金の光をたたえる。



 今、瑞透の目には、ソレは髪を振り乱した青白い顔の人に見える。

 前に瑞透に「首をくくれ」と言いながら取り憑こうとした縊鬼いつきと呼ばれるものだ。

 でもソレは、その場から動かずに、瑞透の視線を避けるように身を縮めている。



 のそりと、自分の内側で三本の尻尾をもつ異形が頭をもたげた。

 低く唸っている。


 その動きに反応するように、顔の左側に小さな痛みが走り、右の手のひらに残るいくつもの赤い線が熱を孕んでうずいた。


 刀守の刃先で傷ついた、その跡が。


「瑞透、どうしたの?」


 通りを見つめたまま動かない瑞透に、春陽が声をかけた。


「なんでもないよ」と頭を振って、瑞透は春陽に振り返って悪戯に満ちた笑みを見せた。


 その瞳は、いつのまにか人のそれに戻っている。


「ねえ春陽。本当に、結婚の報告にしちゃおうか」

「え、えええっ!?」


 今度は耳よりも首まで、全身まで真っ赤かもしれない。

 激しく動揺している春陽に思わず吹き出す。そして立ち尽くす春陽を振り返ると、繋ぐ手を軽く引っ張った。


「そこで可愛い顔さらしてると、ほんとに食べたくなっちゃうんだけど。あ、そうだ。今日は外出届けだしてるし、そうしようか」

「な……っ。瑞透っ! 変なこと言わないで……っ」


 怒っているのか、喜んでいるのか、恥ずかしいのか。

 その全部だろうと思いながら、瑞透は表情をめまぐるしく変える春陽の様子に楽しげに笑った。


 そして、背後のソレの怯え戦く視線を遮断するように、カフェの扉を閉めた。


 同時に、低い唸り声がやみ、異形が金に光る瞳を閉じた。



 ――あの夏以来、僕の中には、化け狐が棲んでいる。





〈了〉

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僕の中には、化け狐が棲んでいる。 ゴトウユカコ @yukakogoto

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