僕は。僕は。僕は。

 心臓の音が規則正しく打ち、耳の奥でざわざわと低い音がずっとしている。

 呼吸をするたびに、かすかに身動きするたびに、筋肉や骨が動く音さえも聞こえるようだった。


 空気は重たく、少し腕を動かすだけでもまとわりつくような感じだ。


 目を開けても視界は黒く塗りつぶされ、目を開けたのかどうかさえ疑わしくなる。

 自分の体さえ認識できないほどに闇はもったりと濃く、どこか甘い。


 ふう、と息を吐くと、なぜか獣臭さがあたりに漂った。


 化け狐の天白はどこに行ったのか。

 自分はいったいどうなったのか。


 記憶を反芻した。

 絶望に我を忘れ、かなわないと知りながらも化け狐に飛びかかったのが最後の記憶だ。


 ふう、と息を吐いた。

 自分が思っている以上に、低く轟くように熱い息がもれ、生臭い匂いが辺りに充満した。


 体がひどく怠く、自分のものではないように重い。


 鼓膜をするようなざわざわした音は、どうやら自分の体内から響く血液が流れる音らしいことにようやく気づき、同時に音のすべてが自分の体からしか発生していないことに驚いた。


 自分が嗅いでいるらしい匂いも、どうやら自分のもののようだ。


 先ほどまで荒れ狂って沸騰していた感情は、どこに流れていったか鎮まっている。


「重いな……」


 呟いた声は言葉にならなかった。

 空気ばかりが口から漏れ、低く唸るような音の羅列にしかならなかった。


 ようやくおかしいと気づく。


 何かが決定的に変わってしまったことは分かる。

 でもそれがなんなのか、考えようとすると頭の奥に靄がかかったようにぼんやりしてしまう。


 仕方なく立ち上がって、ふと刀守のことを思い出した。

 血が流れるほどに傷つけた手のひらをもちあげる。

 目先までもってきて見ようとしても、距離感が分からず、鼻あたりに手がかすめた。


 その瞬間、愕然とした。



 鼻が、長い。

 いや、鼻面が出ているのだ。


 慌てて手で鼻をなで、そうしてその脇に細長くピンと張って出ているヒゲに気づいた。

 さらに顔を確かめようとして、その手が人の手ではないと遅れて気づいた。


 爪が長い。


 肉球がある。

 

 毛がある。


 他にもだ。尖った耳がある。


 牙が鋭い。


 尻尾がある。


 四つ足で、立っている。

 

 なぜだ。

 僕はどうなった。

 このなりはなんだ。


 僕は人ではないのか。

 化け狐に喰われたのか。

 それとも化け狐になったのか。

 

 僕は。僕は。僕は。

 


 誰だ?

 


 ぶるりと震えたつもりが、ぶるんと頭を振っていた。

 そのまま背中から尻尾の付け根までぞわぞわした感覚に、震えて、尻尾の先がピンと伸びた。

 体の細胞すべてを覚醒させるように、大きく伸びをして、そうして口を開けた。


 唸り声が漏れた。

 獣の声だ。


 尻尾が揺れた。

 どうやら一本だけではなく、てんでばらばらに動く三本の尻尾があるらしい。意志とは関係なくむず痒く動く。


 その時、ふと鼻を甘い匂いが掠めた。

 瞬時に涎が口腔の中に満ち、口の端から一筋こぼれ落ちた。


 空腹だった。

 飢えを満たさなくては。

 

 そうして、何百年、何千年、何万年と生き、いずれ天をも神をも凌ぐ力を得るのだ。


 そのためには人の目には見えぬ影にひそみ、極上の魂だけを選んで闇に引きずり込み、そうして喰らっていかなくてはならない。


 甘い匂いがする方へゆったりと歩き出した。



 その時、人の何億倍もの聴覚で物音を捉える耳が、背後で小さな音を捉えた。


 ちゃり、という何か固いものの無機質な音だ。


 空腹を満たさなくてはという本能よりも、その音の出所を確かめたくて、引き返した。


 音が鳴ったはずのところに、鼻面を近づけるようにして嗅ぎ回った。

 その音の発信したものが見当たらない。



「××」明るさに満ちた音が響いた。


「××、こっちだ」どこかで聞いた気がする、その音。



 片耳がその正体を探ろうと向きを変えると、さらに音が重なった。



「帰ってきなさい」深い森のように穏やかな音。


「ここよ」温かく包んでくれる優しい音。


「待ってる」熱をはらんだ静かな音。


「××、こっちだよ」風が歌うようなやわらかな音。



 音と音とが輪唱するように反響して広がっていく。

 羽でくすぐられるような、あたたかな光がぽうっと灯ったような心地よさが胸の奥に満ちた。


 どうやら自分を呼んでいるらしい。


 一歩踏み出した。

 何かが引き止めるように足をとらえた。飢えが、のど元までせり上がる。



 喰いたい。

 喰わなくては、生きてはいけない。



 でも呼んでいる。

 

 喰わなくては。

 

 呼んでいる。


 喰わなくては。

 


 ぶつかりあう感情が出口を求めていた。

 

 ちり、と顔に痛みが走った。

 それに呼応するように前の右足の肉球にも痛みが走った。その時。



「こっち」


 おさまりかけていた音を貫くように、まっすぐ、少し甘えるような訥々とした音が聞こえた。



「お兄ちゃん」



 僕の、妹。



 みずは。



 どうっと轟音が響いて、突然、嵐のような風が吹きつけた。

 体を伏せていないと、ばらばらにされそうなほどに激しく他を圧倒する。


 その風にのせて天を裂くように、高音の篠笛が響き渡った。


 あまりにも悲痛で、誰かの悲鳴のような強い音が聴覚の鋭い耳を刺し、さらには胸の奥を突き刺し、呼吸がとまった。


 刃で身を斬られ続けるような激痛が全身を串刺しにし、何かが身の内を喰い荒らしている。



「僕、は」



 ひゅーひゅーと絶え絶えな息の隙間から、こぼれた。




「僕は、瑞透」




 一瞬にして、視界が晴れた。

 真っ青な、夏の、空が見えた。

 風にそよぐ稲の波が見えた。


 青く爽やかな緑の匂いが自分を包んで、そうして夏の夕刻に吹くような風が、篠笛の余韻とともにそれを天へさらっていった。




「おかえり」




 懐かしい声が、耳から胸の奥に、清冽な水音とともに、落ちてきた。

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