お前がただ見たいようにしか見なかった。それだけだ。

 参道に通じる石段をのぼりはじめてすぐ、両隣に迫る森の木々が大きくしなり、枝葉が擦れ合う音をたてはじめた。

 瑞透が母屋を出た時には無風だったはずなのに、今はびょうびょうとうなるようにして神社の方から風が吹き下ろしているからだ。

 そのせいかムッとした濃い緑の臭気のようなものが辺りを覆っており、息苦しい。しかも石段に明かりはないためか、森の木々はまるで化け物のように存在感を増して迫ってくる。


 それに翻弄される薮の笹は潜んでいるなにかが飛び出してこんばかりにざわついていて、瑞透は懐中電灯をしっかり構えなおした。


 上空はもっと風が強いのだろう。

 雲が勢いよく流れている。


 その下で千段近い石段を、懐中電灯の明かりだけでは覚束ない中のぼり続けるのは、そこそこ神経を使う。

 昼間とは違った顔を見せるお山の姿に、春陽と理人はさすがに怯え気味の表情だ。

 実際に懐中電灯だけの明かりでは心もとなく、誰が言い出したわけではなく、自然と二人はしっかりした足取りで石段をのぼる瑞透から離れないようについてきていた。


「武士のことだから、ひょっこり戻るかもな」

「武士くんって、サッカー部だっけ?」

「次期エース、のはず」

「え、すごいんだ。でもそれって、本当はこんなとこ来てる場合じゃないんじゃない? 普通は夏休みって部活三昧なんじゃ……」

「実は授業のサボりがバレて、部活動を一時的に出入禁止されてるんだ。武士にはそれが一番効くって先生らも分かってたんだろうな」

「えっ」

「バカだからね、武士。うまく言い訳すれば良かったのに、正直にサボってたとか言うから」

「武士くんまっすぐだもんね、らしいかも」

「うん、サボってたっていっても、クラスメイトの相談に乗ってて時間オーバーしただけだし」

「助けたいと思ったら、それしか見えなくなるのがあいつだからな」


 黙っていると不安ばかりが大きくなる。

 そのせいで春陽と理人が饒舌になる中、瑞透はたまにうずく顔の違和感に少し疲れて口をつぐんだ。


 このまま行方知れずで、最悪の状況で発見されるなんてことはあってはならなかった。


 なにより、自分に怒るだけ怒って、怒り逃げされたままでは、瑞透も気分が悪い。

 きちんと自分の気持ちをぶつけて、それから、またいつものように武士の女好きをいじればいい。


 でもその武士を見つけるには、きっと自分や、大人たちの力だけでは足りない。

 武士が本当にお狐さんに連れていかれたのだとしたら、頼れるのは一人しかいなかった。


「瑞透、ここってさ、今はよく見えないけど、ずっと鳥居が続いてるんだよな」

 瑞透は「そうだね」と答えた。

「昼間ならまだしも、さすがに夜はきついな。よく小学生たちもゴールまで行けたと思うよ」

「私もそう思う。さっきは新太くんもいて必死だったから分からなかったけど、ここ、けっこう怖いとこだね」

「僕には生まれ育ったとこだし、小さい頃からこの社にものぼってたりしてるから、そうはあまり感じないんだけどね」


 瑞透はそう言いながら、後ろをついてくる二人を振り返り、そのまま遥か向こうを眺めた。


 黒々とした鳥居が視界に横の影をいれている。


 まるで虜囚のようだ。


 連綿と続く鳥居の柱に遮られて、空には飛び出せないような。

 その向こうに広がる集落の小さな明かりや山並みは、夜だろうと見慣れたものなのに、自由ばかりが効かない。


「それよりここの石段って急だから、むしろ滑り落ちないかどうかの方が怖いんだよね」

「確かにかなりきつい」


 見た目のスレンダーさからは想像できないが、運動方面が得意ではない理人は、春陽と瑞透からわずかに遅れはじめ、息も弾んでいるようだった。


「少し休憩する?」


 瑞透は辺りを確認しつつ、二人を見下ろした。


「いや、大丈夫だ」


 理人にはだいぶきついはずだ。

 でもこうしている間にも武士の安否が気になるのだろう。気持ちばかりが先をいってしまう。

 そのことが分かるゆえに、瑞透は黙って再びのぼりだした。


 今のところ暗闇に潜むソレを見かけて、顔の怪我はちくちくする。

 でもソレが瑞透のそばまで寄ってくることはない。


 そのことが嵐の前兆なのか、本当に何もなく拝殿まで行けるのか、瑞透にはまったく予想できない。


 三人の息づかいだけが、強い風の合間に響き続ける。


「瑞透、さっきの話だけど」


 理人がまた口を開いた。それだけ、不安が増している。


「お狐さんって、キツネ、のことだよな?」

「そう。このお山もそうだけど、実際この一帯には野生のキツネが多いんだ。キツネって人を化かすだろ? それはここらでも同じで、昔からキツネに悪戯されたとか連れ去られたとか囁かれててさ。そういう悪さするキツネを、お狐さん、って言うみたいだよ」

「悪さするのにか? 普通は善行をするキツネに敬称使うもんじゃないのか?」

「うん、そう思うよね普通。でも悪さするからじゃないかな? だから崇め奉ることで、その祟りや呪いとか負のものを鎮めようとする。そういう人の心理が働いてるんじゃないかと僕は思ってたけどね」

「なるほどね……」


 納得したようなしていないような声音に苦笑しながら、瑞透は前方を見上げた。


 当たり障りなく話をしたけれど、実際、この地域の老人たちのキツネへの感情はすこぶる悪い。

 お狐さんとは言っているものの、むしろ忌むべきものだという認識の方が強かった。

 だから今向かっている神社も、山の神が主祭神だがお狐さんも祀っている。そうした昔の人の感情の裏には果たして何が潜んでいたのか。


 でもそういう土俗的な信仰を理人たちに説明したところで、頭で理解はしても実感はできない。



 ようやく石段の頂上が見え、瑞透は少し安堵して息をついた。


 その時、激しい痛みが左顔面に走った。


 突き抜けるように走った痛みは、まるで心臓に楔を打ち込まれたかと思うほどで、息もとまるほどに強かった。

 そしてそれは、瑞透にとっては充分な警告だった。


 さっと目を凝らして左右を見渡す。

 ソレが、おそらく自分に害意をもつソレがいるはずだ。


「ど、どうしたの?」


 体をびくんと反応させて急に立ち止まった瑞透に、春陽が慌てたようにたたらを踏んだ。


 瑞透は息を軽く吸い、目を見開き、耳を澄ました。


 遠く、どこか遠くから、唸る風の隙間を縫うようにして、篠笛の音が流れてくる。


「瑞透?」


 切々と訴える音色は、女性の歌う高音のようにも聞こえた。

 淋しく、悲しく、振り払おうとしても振り払いきれない未練を残した、胸の痛くなる。


「どうしたの? もうそこよね?」


 瑞透はポケットの中に忍ばせてある刀守をそっととりだして、手のひらの内に握りしめた。


「……なんでもないよ、さすがに足にきたかも」


 そう言うと、二人はホッとしたように笑みを見せた。

 さすがに気を張り続けていたのだろう、目の前に見える石段の頂上を見つけて、さらに笑みを深めている。


 二人は、瑞透のように普通は見えないものを見ているわけじゃない。だからこそ、瑞透しかいない。


 瑞透は全身の神経を張りつめさせて、石段を登りきった。


 不意に開けた境内には、二の鳥居がそびえ、狛犬ではなく狛狐が参道の両側で三人を待ち構えていたかのように迎え立つ。

 長年の風雨にさらされて、狛狐の耳はすでに欠け、尻尾も断ち落とされたようにない。


 その向こうの参道には小さな奉納鳥居が延々と続き、その間を照らすようににゅっと伸びた簡素な外灯がぽつりぽつりと立っている。

 虫がまとわりつき光量の弱い灯りが参道に落ちて、幽玄の世界への道しるべのように拝殿まで導いている。



「なんか、怖い」


 春陽が身震いした。理人もどこか落ち着かない様子で辺りを見回した。


「大丈夫だよ」


 そう言いながら、瑞透は痙攣しながらひりひりする片頬を意識した。

 ガーゼで隠されているものの、明るいところで見られたら、傷が蠢いているのかと思われただろう。


 瑞透は二人と境内の様子に気を配りながら拝殿へと近づいた。


 拝殿は、夜と黒い森を背負い、神域にあってまるで異質なものに見えた。

 建物を照らす拝殿への木造階段の両側の灯篭の灯りが風のせいかゆらゆら揺れて、そのせいで拝殿が生き物のようにうねっている。


 ハッと瑞透は足を止めた。


 拝殿の階段の途中に、黒く凝ったソレが見える。

 人間ほどの大きさだ。


 悪意の塊のように濁り、どろどろと形を歪にしながら。階段の板にじわりじわりと液体が滲み出しているようにも見えて醜悪だ。


 瑞透は手のひらが汗ばんで、掴んでいる刀守がぬめる。

 頰の痛みが増した気がする。


「……皐月さん!?」

「……え?」


 隣で母の名前を呼んで、春陽が駆け出した。


「皐月さん! 皐月さん! 大丈夫!?」


 階段に駆け寄った春陽は、瑞透の見ている前でためらいもなく黒いソレを抱き上げた。

 後ろにいた理人も瑞透を抜いて階段に駆け寄っていく。


 瑞透がしっかり目を見開くと、ソレの向こうに人が透けて見えた。


「瑞透! お母さんが!」


 春陽の切羽詰まったような鋭い声が響き、瑞透は打たれたように駆け出した。


「皐月さん! 大丈夫ですか!?」


 瑞透はためらいもなくソレに触れた。

 その瞬間ぶわりと鳥肌がたち、しかし同時に視界が開けるようにソレが霧散して、皐月がぐったりと階段に寄りかかっている姿が現れた。


「母さん!」


 辛そうに表情を歪めていた皐月がかすかに目を開いた。


「瑞透……春陽ちゃん、理人くんも」

「皐月さん、体の具合が」

「急に、お腹が、痛み出して、……っ」


 皐月が荒い息の隙間で訴えるように言葉を継ぎ、腹部を抑えて呻いた。


「きゅ、救急車!」


 春陽はスマホをとりだして、圏外であることに気づくとすぐに緊急用で発信した。


「どうしよう、皐月さん、なんとか」

「とりあえず楽な姿勢に! おばさん、少し動けますか?」


 瑞透は自分の胸の奥がどくどくと波打っているような、混沌とした不安に襲われたまま、こわばった顔で母の手を握りしめた。


「かあさん」

「みず、き。大丈夫、だから」


 母が、死ぬかもしれない。

 お腹の、新しい命……自分の妹になる命とともに。


 皐月は、額に脂汗を浮かせて苦しそうだ。


 ぞわぞわと正体不明の寒気と悪寒が足元から昇ってくる。血の気がひいて、瑞透は、ずっと続いている顔の痛みを忘れて母の手をさらに強く握った。


 母がこの世にいなくなるなんて考えられない。

 大事な人だ。

 いつも穏やかに、たまに厳しく、そしてうるさいほどに心配してくれる。


 皐月が辛そうに苦しむ姿は、そのまま自分に重なった。


 そう気づいて、瑞透はまるで石で頭を殴られたようなショックを受けた。


 父も、母も、武士も、理人も、そして春陽も。

 自分に関わった皆が、今の瑞透と同じ思いをする。

 瑞透が死んだら、そういう思いを、瑞透こそが強いてしまう。


 大事なひとたちに。


「母さん、母さん、どうしたら、僕に何かできること」

「瑞透、大丈夫、この子が、きっと驚いただけだから。それよりも、体、安静、にしてないと、ダメでしょう?」


 痛みをこらえて無理に微笑む母に、瑞透はせり上がってくる熱いものを、必死で飲み込んだ。

 今ここで取り乱したら、母がもっと自分を心配する。それに、今の自分には、きっと助けを求めればためらわず手を出してくれる友人たちがついている。


「大丈夫だよ、僕は。そんなやわじゃないよ。皆が、助けてくれる」

「そ、う……。瑞透、そばに、」


 皐月が痛みをこらえるように瑞透の手を強く握り返した。


 瑞透は救いを求めるように、麓に続く参道を見やった。

 この時ほど、父の姿を探したことはなかった。でも暗闇に吸い込まれていくような参道の向こうに、来てほしい人物の姿はない。


 自分が率先してどうにかしなくてはならないと分かっているのに、顔面の痛みも、母の状況も、武士の行方不明も、いろいろが重なって、何からどう考えればいいのか、混乱している。

 この場には、春陽も理人も、そして当然、自分も……三人もそばにいるのに、何もできない。


 瑞透が普段の生活でもつ特異な体質も、今はなんの役にも立たない。


 春陽が、瑞透の肩に触れた。


「瑞透、すぐお父さんもくるよ。きっと大丈夫。きっと大丈夫だよ」


 春陽の言い聞かせるような言葉が沁みる。

 誰かにたった一言、例え根拠がなくてもそう言ってもらえることが、どんなに力強いか、少しかもしれないけれど気持ちが軽くなるか、瑞透は初めて気づいた。

 春陽がそこにいてくれることが、今は嬉しかった。


 瑞透は小さく頷くと、母のお腹に手を当てた。

 これから生まれてくる妹に、少しでも自分の力が分け与えられたらいい。

 少しでも自分の特異な体質が、母と妹を助けることができたらいい。



(だから、妹。瑞葉。僕の新しい家族。母さんのために、父さんのために、そして僕のために頑張って。もう少しで、きっと会えるから)



 その時、参道の向こうから複数の足音がして、瑞透は顔をあげた。

 必死の形相で石段をあがってきた父の姿だった。


 どんな時でも他人への配慮を欠かさない父が、後ろからついてきているはずの救急隊員も置き去りにして、駆けてくる。


「父さん!」

「瑞透! 皐月!」


 瑞透の隣に跪くと、白彦は目を閉じている皐月を抱き起こした。


「皐月! 皐月ちゃん! しっかりするんだ、今もう救急車も下にきてるから」

「きよ、くん」


 息子の前では使わない呼び方で白彦を呼んだ皐月は、安堵したようにうっすら微笑んだ。


「なんで、こんな、本家で待っていてと……!」

「彼、が来た、の。瑞透が、瑞透、を……く、うっ」

「彼?」


 ようやく追いついた救急隊員が、すぐに皐月の脈をはかり始めた。

 押し出される形になった瑞透は、自然と放れた手を力なくおろした。


 その瞬間、ごうっと音を立てて、背後から突風がふきおろした。

 その風にのって、瑞透の名を呼ぶ者がいた。


 思わず後ろを振り返った瑞透の目の前で、賽銭箱の向こうの扉が開いた。

 そこに仁王立ちし、瑞透を見下ろすのは、白い袴を身につけた天白だった。


 瞬時に思ったことは、ただ一つ。



 天白なら、母を、武士を、助けてくれるかもしれない—―。



 そして、その願いを見抜くかのような天白の金色の瞳に、弾かれたように瑞透は「天白っ」と叫んで階段をのぼった。

 一瞬走った激痛を気にしている余裕はなかった。


「瑞透?!」


 驚いた春陽の声が背後で響き、その直後、皐月が悲鳴のように声を荒げ、かぶさるように白彦の驚愕の声や、救急隊員の声が入り乱れた。


「瑞透ダメよ!」「天白?!」「興奮なさらないで!」


 天白の前に転げるようにしてたどり着いた瑞透を、天白は見下ろし、手を差し出した。


「手をとれ、瑞透。私の力を欲せよ」


 悠然と構えた天白の姿は、今、この時においてなによりも力強く見えた。

 瑞透はなにかを考える間もなく、その手に自分の手を伸ばした。


 制止する声に瑞透が背後を振り返った時、蒼白な顔の白彦が皐月から瑞透に駆け寄らんとする姿が目に入った。

 その向こうで皐月が上半身をこちらに伸ばすようにしたまま、救急隊員に運ばれていくのが見えた。


「父さん、」


 この人は大丈夫だと、そう言いかけた瑞透の手が天白の手に触れた。

 その手は戦慄を走らせるほどに冷たく、瑞透はぶるりと震えた。

 その瑞透を囲うように、ばさりと白い上衣の袖が視界を覆うように翻った。


「白彦、久しぶりだ」


 天白の声が頭上で響いた。

 瑞透は、天白の腕にとらえれたまま、青ざめた父の顔と天白とを見比べた。


「なぜ、あなたがここにいるんです……!」


 白彦が怒りに震える声で、天白を睨みつけた。

 旧知であったかのような二人の様子に、瑞透は混乱する頭で、天白の腕から逃れようとした。

 しかし天白の腕は緩まない。

 それどころかさらに強く押さえつけられたようだった。


「忘れたか、白彦。ここがオレの縄張りだということを」

「そんなことはどうでもいいことです。彼は、僕の息子です。その腕を放してください! あなたとは関わり合いのない」

「そうでもないのだ。瑞透は、もうずっと前からオレを知っている」


 どこか勝ち誇ったような物言いに、白彦が言葉をなくした。


「さあ、瑞透。お前の願いは知れている」


 天白が腕を緩め、すっと脇に退いて、拝殿の中へと誘うように手を広げた。


 緋色の鮮やかな毛氈が敷かれた拝殿の内部は、この前と変わらず薄暗い。

 ただこの前と違うのはそこに漂う異様な雰囲気だ。毛氈に比べて木造内部は荒み、風化しつつある気配があり、そのちぐはぐさが気になった。


 一つ気になると、小さな疑念がふと生まれた。


 本当に、目の前の手をとっていいのか。

 言われるままに、その先に進んでいいのか。


 ためらいが生じる。


「瑞透、このままではお前の母の体は、妹御を生むまでは保たぬまいよ。だが、オレなら助けられる」


 天白が断言した。

 その断言が、瑞透の心を大きく揺らす。その気持ちに引っ張られたように、瑞透がかすかに一歩踏み出した。


 その時、ちゃり、と足元で音がした。


 惹かれるように視線を落とした瑞透は、目を見開いた。


「こ、れ……!」


 足元にあったものを拾い上げた。


 それは、武士が気に入って身につけていたサイン入りキーホルダーだ。

 ミニチュアのサッカーボールとユニフォームをアクリルで象ったもの。

 プロになりたいと願う武士のお守りだった。


「なんで、ここに」


 言いかけて、新太の言葉を思い出した。


 武士はこの拝殿に入り、それ以来、姿が見えなくなった。


 瑞透は強張った表情で、天白を見た。

 思い出したように、左顔面の怪我が痛む。

 ひきつり、何かを訴えるように蠢く。

 

 まさか、という想いがよぎった。


 その時、背後がざわついて、瑞透は振り返った。


「早く行け」だの「押さないでよ」だの「うるせー」だの、騒がしい。でもそのうるささは、なじみのあるものだ。


 参道の向こうから複数の人影が現れ、そして、外灯に照らされて明るみに出てきたのは、室戸を囲んだ友人たちだった。

 そこには救急隊員とともに下に降りていったはずの理人の姿もある。


「瑞透! 室戸だ! 最後に武士と一緒にいたのは!」


 どんっと背中を突き飛ばされ、瑞透の見ている前で拝殿の階段下まで室戸がよろけるように出てきた。

 どこか卑屈そうに見える小さな目が、洒落た丸メガネの奥から瑞透を見上げた。


 瑞透の中に、嫌悪感がわきあがった。


「室戸、武士はどうしたの?」


 手の内のキーホルダーがかすかに音を立てる。


「ぼ、僕は別に、頼まれただけだ。ただ、男の人が武士と話したいって、言うから、だから僕は連れて行っただけで、僕は、別に何も悪いことをしてない」

「その男は? 人相は?」


 瑞透は顔の痛みを堪えながら、室戸を睨みつけるように見下ろした。

 その視線を受け止めきれず、室戸は逃げ道を探すかのように辺りを見回した。


 強い風が吹きすさび、境内の木々という木々が左右にしなっている。

 月のない空がぽかりと開き、その切り取られた空の星々だけが自分たちを監視しているようにぎらついている。


 瑞透は増す痛みを、手のひらにずっと収めてきた刀守を強く握りしめた。


 切っ先が皮膚に食い込み、その痛みで顔面の痛みを相殺させたかった。

 でも、それはただ痛みが増しただけだ。


 室戸は、前方の瑞透、背後の理人たち、そして場の成り行きに戸惑い気味の春陽と、ただ瑞透の背後を睨み続ける白彦とに囲まれて、逃げ場はないと思ったようだった。

 脱力していじけたようにその場にぺたりと座りこんだ。


「髪が長くてさ、一つに縛ってて。んで、着物っていうの? それ着てて、なんかちょっと変わった感じ……」


 言いながら、室戸が目を見開いて、溺れかけの金魚のように口をぱくぱくさせた。

 その視線が、自分を通り抜けて背後を見ていることに、瑞透は押し込めてきた予感に向き合った。


 息を大きく吸い、聞きたくないことを聞くためにあえて口にした。


「室戸、僕の後ろ、どうしたの?」

「そ、その人。その人だよ!」


 室戸の言葉に、周りがぎょっとしたように拝殿をいっせいに見上げた。


「うるさい虫だ。お前が望んだことだろう? いつも自分を無視する瑞透を懲らしめてやりたいと、そう願ったろう?」

「うるさい! 僕は虫じゃない! そ、それに武士くんをどうにかしてなんて、僕は言ってない! そんな嘘言うなら父さんに言ってお前を刑務所にぶちこんだっていいんだ!」

「……自分の招いたことに責任を持てぬものなど、虫けらよ。いや、虫にさえ悖る」


 軽蔑しきった声音はまるでその場を威圧するように迫力が増し、室戸が涙目になっている。


 その二人の会話を遠く聞きながら、瑞透は。


「……天白、この前、本家の前で白い蝶にたかられてさ、顔に怪我したんだ。そこが、例の、アレがいると痛いんだよ……。今も、すごく痛くて……」


 声が震えないように、必死で自分の気持ちを奮い立たせながら言葉を継いだ。


 泣いているような笑っているような、そして痛みに歪んでしまったかのような中途半端な表情で瑞透は、ゆっくりと背後を振り返った。

 瑞透のほぼ後ろに立っていた天白は、いつものように不遜さを漂わせた態度で瑞透を見下ろした。


 でもその顔に浮かぶ表情はこれまでと違い、無表情で、まるで感情を忘れた能面のようだった。


「……いつものように、あいかわらず弱いと、笑わないの?」


 乾いた笑いを漏らした瑞透に、天白はかすかに唇を歪めた。


「……言ってほしければ、いつでも言おうぞ」

「や、八重野くん、その人知り合いなの? その人おかしい、変だよ、ヤバいよ。僕が君にムカついてたの、なんでか知ってたし……武士くんのこと、気に入ってるとか、」


 混乱しているのか、室戸の要領を得ない話に、天白はうるさそうに金の瞳で一瞥して黙らせた。

 そして傍目にも分かるほど震えはじめた室戸から目をそらし、身を拝殿の奥へと翻した。


「天白!」


 瑞透が拝殿の扉近くから、天白を追うように離れた瞬間だった。

 理人や白彦が階段をのぼろうと動く間もなく、突風が吹いた。


 山からおろすような嵐ではなく、突然境内に巻いたように吹き荒れ、誰もが風の強さに身を縮めた。木々がざわざわと鳴り、虫も鳥も獣さえも息をひそめ、ただ外灯だけが、じじ、と音をたてて、何度か明滅し、パッと消えた。


 夏のこっくりした闇が境内を覆い、同時に瑞透の背後で、拝殿の扉が木のきしむ耳障りな音を立てて閉まった。



 拝殿の内部には、さらに重い闇が落ちた。


 瑞透は慌てて、扉に飛びつき、叩いた。


「父さん!? 理人! 春陽!」


 扉の向こうから返事はない。

 そのことが、瑞透を見たくない現実へと引きずり落とすようだった。



 息づかいが、聞こえる。


 自分のものか、天白のものか、または他のものか、分からないものだ。


「武士が、僕の友達がいなくなった。連絡もつかない」


 瑞透は扉を背にしたまま、そこにいるはずの天白に話しかけた。

 感じるのはわずかな空気の流れと、顔の痛み、そして激しく打つ自分の鼓動の音ばかり。


「さっきの話、聞こえてたよね? 天白、武士に何の用だったの?」


 自分の声がかすかに戦慄いているのがたまらなく嫌だった。

 それでも抑えようもない感情に胸の奥が荒れ狂っていて、呼吸さえ苦しかった。


「答えてよ、天白」


 低い声で訊ねると、どこかねっとりと湿った空気が前方から瑞透にまとわりつくように吹いてきた。


 どこか生臭く、……そして、獣臭い。


 瑞透は思わず腕で口元を覆うようにした。


「見たくないものは見ぬか」


 まるで地面を這うような声がくぐもった笑いとともに響いた。

 その声がしゃべるたびに、獣の臭気のようなものが漂ってくる。


 瑞透の前にいるのは、天白ではないのか。


 一瞬混乱したものの、瑞透は手の内を傷つけている刀守を意識した。

 でもそれこそ天白からもらったものだと思うと、ひどく心もとない。

 足場が、今にも崩れ落ち、体だけでなく心ごと奈落の底へと叩きつけられそうだった。


「……見たくないものって、なんだよ」

「アレが黒い塊だと、お前は言う。だがそうかな。白い蝶が黒い塊に見えてなかったのはなぜか」

「……アレは、力が強かった! だから、この怪我も傷が癒えない」

「そうかもしれぬ。そうでないかもしれぬ」

「何が言いたい! 聞いてるのは僕の方だ。武士の行方を知ってるんじゃないの!?」

「……自己中だの、怖がってるだの、いいように言われていたな」

「あれは……っ、あれは、僕が、僕が……」


 瑞透は拳を作った。

 刀守がまた皮膚を食い破る。


「僕が、……情けなかったから」


 自分の負の部分に目を向けて、それを認めるのは、つらい。

 受け止めようとしても、感情が暴れて拒絶する。


 瑞透はまっすぐ前を見た。


「僕は弱い。すごく臆病だ。アレが怖いし、死ぬのも怖い。なんで僕だけが、こんな目に合わなきゃいけない。なんで僕ばかり、見たくないものを、見なきゃいけない。ずっとずっと、そう思ってた」


 苦しさの間から押し出して言い募るうちに、目の前に、先ほどまでなかったはずの白っぽいものが見えた。

 瑞透を圧倒するほどに高さも幅もあり、壁のように立ちはだかる。


 視界が晴れるように、闇が、明るくなりつつあった。

 外光が入ってきているわけではないが、ただ闇の中でも目の前にある何かの輪郭が、その様子が見えた。


 瑞透はよく見ようと目を凝らして、それが、うっすらと青白く発光していることに気づいた。

 まるでこの拝殿の中で刀守を浄化した時にあった人魂とも燐光とも分からない炎の色だ。



 そしてそれは、拝殿の天井近くまである巨体をもつ獣の姿をしていた。


 白茶けた毛並みをもち、長い鼻面と、三日月のように細い金色の瞳。

 何かを感じとっているのかヒゲは蠢き、その尖った耳は森に存在する粘菌の生きる音さえも拾うようだ。



 狐だった。


 野生の狐に比べて、桁違いに大きく、象ほどもあろうかと思われる。

 でもただの狐ではない。


 決定的な違いがあった。

 前足を揃えて横になっているその巨体の前に、ふっさりとした尻尾が横たわっている。

 その尻尾のありように自分の知識から一つの結論を導きださざるを得なかった。


「妖狐」


 ぽつりと呟いた瑞透の言葉を肯定するように、四本に裂けた尻尾がそれぞれバラバラの動きで反応した。


「……九尾、いや九本はないから、なんだろう。でも化け狐だよね。それが、……天白の正体?」

「はなからオレが人でないことなど分かっておろう?」

「正体までは教えてくれなかった」

「見ようとしてなかったからな」


 化け狐の大きな口がニヤリとでもいうように横にニュッと伸び、隙間からずらりと並んだ牙と、その奥にある口腔が赤黒くぬめりと光って、ひどく醜悪に見えた。

 瑞透は思わずカッとなって、瞳孔の細い金の瞳を睨みつけた。


「僕が見ていなかった? 見てきたじゃないか! あんなに、黒くドロリとしたソレばっかを!」

「ソレの何を、お前は見てきた。オレが今、この姿を初めて見せたと思うのか? お前がただ見たいようにしか見なかった。それだけのことだ。真実を、お前は恐れ、そして黒いモノとしての認識におしこめた。違うか?」


 瑞透が見えてしまうソレは、ただの黒い塊。

 はっきりとした輪郭などなく、靄のようにいつも歪に形を変える。


 でも、相対した時の反応はそれぞれだった。

 危害を加えるものとそうでないものがいることも含めて。


 その漆黒のベールの奥に、本当の姿があったというのか。


 言葉につまり、瑞透は唇をかんだ。



 仄白く浮かび上がる天白の異形の姿は、圧倒的な存在感を誇り、拝殿内の空気は限界まで張りつめている。

 瑞透はその空気に圧し潰されまいと意識してゆっくり呼吸した。


「天白、僕のことはいい。僕の弱さなんて、後からいくらでも認めてやる。武士をどうした」



 ぱたり、ぱたり、ぱたり。



 何本かの尻尾が毛氈を軽くたたいている。


 化け狐はまるで糸のように瞳を細め、反芻するように瞳をするっと上に向けた。

 その口がかすかに開いて、どこか夢見るような恍惚とした表情になった。



「……あれは、うまかった」



「……は?」

 瑞透は自分でもマヌケな声が出たと思った。


「久しぶりに極上だった」


 上を見ていた金の瞳がくるりと回り、瑞透を見て、またニタリと笑った。



 地が轟いたのかと、火を噴いたのかと、あるいはまさに天地がひっくり返ったのかと思えた。



「喰った、の」

「そうだ」

「喰った、武士、を」


 足元が揺れている。



(僕は、誰に、助けを願おうとしていた?)



「オレたちは、人を喰うからなぁ」


 なにがおかしいのかとさえ言いたげな天白に、瑞透はぶるぶると震えた。

 握りしめた右手の拳の指の隙間から、ついに血があふれ、ぽたぽたと毛氈の上にこぼれ落ちた。

 顔の怪我がずきずきと熱を持ち、瑞透の心を代弁するように痙攣した。


 恐怖ではなく、怒りで、絶望で、人が震えることもあるのだと、瑞透は初めて知った。


「ふざけんなあっ!」


 瑞透は突き上げた衝動のまま、白茶けた獣の体に刀守を握った手を振りかざしながら飛び込んだ。


 刀守はあまりに小さな武器でしかない。

 それでも今の瑞透にはそれしかなかった。


 振りかざした手のひらは血で真っ赤に染まり、鈍く光る銀色の鋼もまたぬらぬらと濡れている。

 その手から落ちた赤い雫が顔にかかる。


 いつのまにか傷を保護していたガーゼも包帯もとれ、歪んだ赤黒い傷跡が瑞透の怒りに満ちた表情を凄惨に見せた。

 十六歳とは思えぬ鬼気が整った顔立ちを覆い、凄味が増している。


 化け狐は、そんな瑞透を一瞥し、尻尾を軽く振った。

 たった一つのその動きだけで、瑞透は体に強い圧と浮遊感を感じ、したたかに拝殿の扉に背中きら叩きつけられた。


 衝撃に息が止まり、肋骨が折れたかと思うほどの激痛が走り、次の瞬間ゴホゴホッと咳き込んだ。

 あまりの苦しさに涙がこぼれ、ヒューヒューと音を立てて息がもれた。


「信じて、いたのに」


 崩れ落ちた体勢を立て直しながら、天白だった化け狐を見た。


「信じていたのに!」



 発作で苦しい時、人に干渉してはまずいと言いながらも力で助けてくれたじゃないか。


 瑞透に刀守を授け、ソレから身を守る術を教えてくれたじゃないか。


 天白の存在が、どれだけ救いになり、導いてくれていたか。


 父とは別に、瑞透の心の奥深くに根を下ろした、武士と同じく大事な存在だった。

 例え、人でなくても、ずっとずっとそばにいてくれるものだと思っていた。



 憎いほどの余裕で、化け狐はぱたりと尻尾を揺らした。

 瑞透は悔しさと怒りで目の前が真っ赤になるのを覚えた。


 先刻とは違う涙がぼろぼろとこぼれた。

 拭っても拭っても、止まらない。

 俯いて堪えても、緋毛氈の上にぱたぱたといくつもの濃い染みをつくった。


「……せ。……返せ……。返せっ!」



 武士を、自分の信頼を、これまで共に過ごした時間を、その日々を。



「返せええっ!!」


 感情の奔流に嬲られるように、瑞透は獣の咆哮かのごとく絶叫した。


 大事なひとを奪った。

 悲しい。

 苦しい。

 許せない。

 裏切った。

 憎い。


 今こそ、力がほしい。

 目の前の、人の力では及ばぬ存在を倒す力が。


 積み上げてきたものがガラスのように脆く粉々になり、すべてが、真っ黒に染まった。


 瑞透の瞳の縁が涙で赤くなり、血走って、その目には紅蓮の炎が揺らめいているように見えた。



 その時をこそ、天白が待っていた時だったのかもしれない。

 化け狐の目が嬉しそうに歪んだのを、怒りと憎しみに染まった瑞透には気づけなかった。

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